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夜想館  作者: 灯野 しおん
第三夜

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17/25

五月雨ー朝比奈湊④

「まだ読まれていない物語です」


 朔弥の言葉が妙に心に残った。


 湊はもう一度、題名のない本を見る。


 古い革表紙。


 何も書かれていない背表紙。


 それなのに。


 なぜか目を離せなかった。


「大事な本なんですか」


 問いかける。


 朔弥は少しだけ微笑んだ。


「はい」


 そして。


「とても」


 その一言には、

 長い年月の重みがあった。


 湊はそれ以上聞かなかった。


 聞いてはいけない気がした。


 やがて部屋へ戻る。


 窓の外では五月雨が降り続いている。


 ベッドへ横になる。


 目を閉じる。


 すると。


 すぐに眠りへ落ちていった。


 まるで誰かに導かれるように。



 気づくと。


 湊は知らない場所に立っていた。


 雨は降っていない。


 青空が広がっている。


 草の匂い。


 風の匂い。


 遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。


「ここ……」


 見覚えがあった。


 子どもの頃。


 兄とよく遊んだ河川敷だった。


 夏休み。


 キャッチボールをした場所。


 兄に自転車を教わった場所。


 転んで泣いた場所。


 全部覚えている。


 そして。


 堤防の上に一人の男が立っていた。


 風に吹かれながら。


 こちらへ背を向けている。


 見間違えるはずがなかった。


「兄貴……」


 男が振り返る。


 優しい目。


 少し無精ひげの残る顔。


 大きな手。


 懐かしい笑顔。


 朝比奈恒星だった。


「よう」


 いつも通りの声。


 湊の呼吸が止まる。


「……兄貴」


 足が動く。


 一歩。


 また一歩。


 気づけば走っていた。


 そして。


「兄貴!」


 声が裏返る。


 恒星は笑った。


「そんなに慌てるな」


 その言葉を聞いた瞬間。


 湊の目から涙が溢れた。


 三年間。


 ずっと会いたかった。


 ずっと謝りたかった。


 ずっと。


 もう一度だけ話したかった。


「ごめん……」


 声が震える。


「ごめん……兄貴」


 恒星は首を傾げる。


「何がだ?」


「最後……」


 涙が止まらない。


「最後の方、全然行けなかった」


「仕事ばっかりで」


「また今度でいいって思って」


「まだ時間があるって思って」


 言葉が溢れる。


 胸に溜め込んでいた後悔が。


 一気に。


 恒星は黙って聞いていた。


 そして。


 困ったように笑った。


「お前らしいな」


「え……?」


「昔から考えすぎなんだよ」


 湊は泣きながら笑う。


 本当に。


 兄らしい言い方だった。


 恒星は空を見上げる。


 風が吹く。


 雲が流れる。


「俺な」


 静かな声。


「怒ってないぞ」


 湊が顔を上げる。


 恒星は微笑んでいた。


 優しく。


 穏やかに。


「一度もな」


 その言葉が。


 湊の心を縛っていた鎖を、


 少しずつ解いていった。


 そして恒星は続ける。


「それよりさ」


 笑いながら。


「お前、ちゃんと生きろよ」


 その言葉に。


 なぜか。


 夜想館の主人の顔が重なった。


 まるで。


 誰かが同じ言葉を待っているみたいに。


 遠く。


 見えないどこかで。


 止まった時間を抱えたまま。


 立ち尽くしている誰かが。


 いるような気がした。


 そして。


 その気配は確かに、


 朔弥へと繋がっていた。

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