五月雨ー朝比奈湊④
「まだ読まれていない物語です」
朔弥の言葉が妙に心に残った。
湊はもう一度、題名のない本を見る。
古い革表紙。
何も書かれていない背表紙。
それなのに。
なぜか目を離せなかった。
「大事な本なんですか」
問いかける。
朔弥は少しだけ微笑んだ。
「はい」
そして。
「とても」
その一言には、
長い年月の重みがあった。
湊はそれ以上聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
やがて部屋へ戻る。
窓の外では五月雨が降り続いている。
ベッドへ横になる。
目を閉じる。
すると。
すぐに眠りへ落ちていった。
まるで誰かに導かれるように。
◇
気づくと。
湊は知らない場所に立っていた。
雨は降っていない。
青空が広がっている。
草の匂い。
風の匂い。
遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。
「ここ……」
見覚えがあった。
子どもの頃。
兄とよく遊んだ河川敷だった。
夏休み。
キャッチボールをした場所。
兄に自転車を教わった場所。
転んで泣いた場所。
全部覚えている。
そして。
堤防の上に一人の男が立っていた。
風に吹かれながら。
こちらへ背を向けている。
見間違えるはずがなかった。
「兄貴……」
男が振り返る。
優しい目。
少し無精ひげの残る顔。
大きな手。
懐かしい笑顔。
朝比奈恒星だった。
「よう」
いつも通りの声。
湊の呼吸が止まる。
「……兄貴」
足が動く。
一歩。
また一歩。
気づけば走っていた。
そして。
「兄貴!」
声が裏返る。
恒星は笑った。
「そんなに慌てるな」
その言葉を聞いた瞬間。
湊の目から涙が溢れた。
三年間。
ずっと会いたかった。
ずっと謝りたかった。
ずっと。
もう一度だけ話したかった。
「ごめん……」
声が震える。
「ごめん……兄貴」
恒星は首を傾げる。
「何がだ?」
「最後……」
涙が止まらない。
「最後の方、全然行けなかった」
「仕事ばっかりで」
「また今度でいいって思って」
「まだ時間があるって思って」
言葉が溢れる。
胸に溜め込んでいた後悔が。
一気に。
恒星は黙って聞いていた。
そして。
困ったように笑った。
「お前らしいな」
「え……?」
「昔から考えすぎなんだよ」
湊は泣きながら笑う。
本当に。
兄らしい言い方だった。
恒星は空を見上げる。
風が吹く。
雲が流れる。
「俺な」
静かな声。
「怒ってないぞ」
湊が顔を上げる。
恒星は微笑んでいた。
優しく。
穏やかに。
「一度もな」
その言葉が。
湊の心を縛っていた鎖を、
少しずつ解いていった。
そして恒星は続ける。
「それよりさ」
笑いながら。
「お前、ちゃんと生きろよ」
その言葉に。
なぜか。
夜想館の主人の顔が重なった。
まるで。
誰かが同じ言葉を待っているみたいに。
遠く。
見えないどこかで。
止まった時間を抱えたまま。
立ち尽くしている誰かが。
いるような気がした。
そして。
その気配は確かに、
朔弥へと繋がっていた。




