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夜想館  作者: 灯野 しおん
第三夜

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18/24

五月雨ー朝比奈湊⑤

「お前、ちゃんと生きろよ」


 恒星の言葉は、昔と変わらなかった。


 説教じみているわけでもない。


 格好つけているわけでもない。


 ただ。


 兄として当たり前のように言う。


 湊は涙を拭った。


「兄貴はずるいな」


「何がだ」


「言いたいことだけ言って」


 恒星は声を上げて笑った。


 河川敷に懐かしい笑い声が響く。


「お前だって言いたいことあるだろ」


 その言葉に。


 湊は少し考えた。


 謝りたいと思っていた。


 ずっと。


 それだけだと思っていた。


 けれど違った。


「ありがとう」


 自然と出た言葉だった。


 恒星が目を瞬く。


「何だ急に」


「兄貴がいたから」


 湊は笑う。


「今の俺がいる」


 自転車の乗り方も。


 野球も。


 初めて失恋した時も。


 進路に悩んだ時も。


 いつも兄がいた。


「だから」


 声が少し震える。


「ありがとう」


 恒星は照れくさそうに頭を掻いた。


「そういうの苦手なんだよな」


「知ってる」


 二人は笑った。


 風が吹く。


 青空が広がる。


 懐かしい景色。


 けれど。


 少しずつ景色が揺らぎ始めていた。


 夢が終わる。


 湊には分かった。


「兄貴」


「ん?」


「また会えるかな」


 恒星は少しだけ考えた。


 そして。


「どうだろうな」


 笑う。


「でも」


 空を見上げながら続けた。


「会えなくても困らないくらい生きろ」


 その言葉に。


 湊は静かに頷いた。


「うん」


 恒星は満足そうに笑う。


 そして。


「それでいい」


 その姿が光の中へ溶けていく。


「兄貴!」


 呼ぶ。


 けれど。


 最後に聞こえたのは。


「元気でな」


 という優しい声だった。



 湊が目を覚ました時。


 窓の外は薄明るくなっていた。


 涙の跡が頬に残っている。


 夢だった。


 けれど。


 夢ではない気もした。


 胸の奥にあった重い石が、


 少しだけ軽くなっている。


 時計を見る。


 午前五時。


 まだ朝食には早い。


 湊は何となく部屋を出た。


 静かな廊下。


 ランプの火は小さくなっている。


 そして。


 階段の下で足を止めた。


 微かな灯りが見えたからだ。


 書斎の扉が開いている。


 中に誰かいる。


 湊はそっと近づく。


 扉の隙間から見えたのは、


 朔弥だった。


 書斎の奥。


 例の題名のない本の前に立っている。


 手には懐中時計。


 古い銀色の時計だった。


 蓋が開いている。


 だが。


 針は動いていなかった。


 止まっている。


 ずっと昔から。


 そのままのように。


 朔弥はそれを見つめていた。


 驚くほど寂しそうな顔で。


 湊が知る穏やかな宿主の顔ではない。


 何かを失った人の顔だった。


 その時。


 黒猫が本棚の上へ飛び乗った。


 そして。


 題名のない本の前へ座る。


 金色の瞳が朔弥を見つめる。


 まるで。


 もう十分だろう。


 そう言っているみたいに。


 朔弥は小さく笑った。


「まだですよ」


 その言葉には。


 百年分の未練が滲んでいた。


 そして湊は初めて気づく。


 この宿の主人もまた、


 誰かに会いたいまま、


 時の中に取り残されているのだと。


 雨はもう止んでいた。


 東の空が少しずつ明るくなっていく。


 夜想館の止まった時計もまた、


 動き出す日が近づいていた。

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