五月雨ー朝比奈湊⑤
「お前、ちゃんと生きろよ」
恒星の言葉は、昔と変わらなかった。
説教じみているわけでもない。
格好つけているわけでもない。
ただ。
兄として当たり前のように言う。
湊は涙を拭った。
「兄貴はずるいな」
「何がだ」
「言いたいことだけ言って」
恒星は声を上げて笑った。
河川敷に懐かしい笑い声が響く。
「お前だって言いたいことあるだろ」
その言葉に。
湊は少し考えた。
謝りたいと思っていた。
ずっと。
それだけだと思っていた。
けれど違った。
「ありがとう」
自然と出た言葉だった。
恒星が目を瞬く。
「何だ急に」
「兄貴がいたから」
湊は笑う。
「今の俺がいる」
自転車の乗り方も。
野球も。
初めて失恋した時も。
進路に悩んだ時も。
いつも兄がいた。
「だから」
声が少し震える。
「ありがとう」
恒星は照れくさそうに頭を掻いた。
「そういうの苦手なんだよな」
「知ってる」
二人は笑った。
風が吹く。
青空が広がる。
懐かしい景色。
けれど。
少しずつ景色が揺らぎ始めていた。
夢が終わる。
湊には分かった。
「兄貴」
「ん?」
「また会えるかな」
恒星は少しだけ考えた。
そして。
「どうだろうな」
笑う。
「でも」
空を見上げながら続けた。
「会えなくても困らないくらい生きろ」
その言葉に。
湊は静かに頷いた。
「うん」
恒星は満足そうに笑う。
そして。
「それでいい」
その姿が光の中へ溶けていく。
「兄貴!」
呼ぶ。
けれど。
最後に聞こえたのは。
「元気でな」
という優しい声だった。
◇
湊が目を覚ました時。
窓の外は薄明るくなっていた。
涙の跡が頬に残っている。
夢だった。
けれど。
夢ではない気もした。
胸の奥にあった重い石が、
少しだけ軽くなっている。
時計を見る。
午前五時。
まだ朝食には早い。
湊は何となく部屋を出た。
静かな廊下。
ランプの火は小さくなっている。
そして。
階段の下で足を止めた。
微かな灯りが見えたからだ。
書斎の扉が開いている。
中に誰かいる。
湊はそっと近づく。
扉の隙間から見えたのは、
朔弥だった。
書斎の奥。
例の題名のない本の前に立っている。
手には懐中時計。
古い銀色の時計だった。
蓋が開いている。
だが。
針は動いていなかった。
止まっている。
ずっと昔から。
そのままのように。
朔弥はそれを見つめていた。
驚くほど寂しそうな顔で。
湊が知る穏やかな宿主の顔ではない。
何かを失った人の顔だった。
その時。
黒猫が本棚の上へ飛び乗った。
そして。
題名のない本の前へ座る。
金色の瞳が朔弥を見つめる。
まるで。
もう十分だろう。
そう言っているみたいに。
朔弥は小さく笑った。
「まだですよ」
その言葉には。
百年分の未練が滲んでいた。
そして湊は初めて気づく。
この宿の主人もまた、
誰かに会いたいまま、
時の中に取り残されているのだと。
雨はもう止んでいた。
東の空が少しずつ明るくなっていく。
夜想館の止まった時計もまた、
動き出す日が近づいていた。




