五月雨ー朝比奈湊③
夕食を終えたあと。
湊は一人で館内を歩いていた。
眠れないわけではない。
けれど。
部屋へ戻るには少し早い気がした。
雨はまだ降っている。
窓ガラスを細かな雨粒が流れていく。
夜想館は静かだった。
まるで館そのものが眠っているみたいに。
廊下を歩いていると。
ふと一匹の黒猫が視界を横切った。
「あ」
黒猫だ。
玄関で見た猫。
夕食の時にも暖炉の前にいた。
黒猫は振り返る。
金色の瞳がランプの光を映している。
「どうした?」
もちろん返事はない。
だが。
黒猫は歩き出した。
まるで。
ついて来いと言うように。
湊は苦笑しながら後を追う。
猫は廊下の奥へ進む。
見覚えのない場所。
客室の並ぶ区域ではない。
そして。
一枚の重厚な木の扉の前で止まった。
黒猫は静かに座る。
その扉には、
真鍮の小さなプレートが掛かっていた。
書斎
「書斎?」
湊は首を傾げる。
その時。
扉がひとりでに開いた。
ぎぃ、と静かな音。
中から暖かな灯りが漏れる。
紙と革の匂い。
インクの香り。
どこか懐かしい空気だった。
湊はそっと中へ入る。
そして。
「……すごい」
思わず息を呑んだ。
壁一面の本棚。
天井まで届く本の列。
数え切れないほどの本。
まるで図書館だった。
いや。
それ以上に。
どこか生き物のような気配があった。
本たちが静かに眠っているような。
不思議な感覚。
湊は本棚の間を歩く。
一冊。
また一冊。
背表紙に名前が刻まれている。
人の名前。
知らない名前ばかり。
けれど。
どの本も大切に扱われていることが分かった。
その時だった。
ふと。
一冊の本が目に入る。
まだ新しい本。
見覚えのない名前。
『雨宮 紗希』
その隣。
『柊 千夏』
「宿泊客……?」
そんな考えが頭をよぎる。
だとしたら。
この本棚には。
これまで夜想館を訪れた人々の人生が並んでいるのだろうか。
そう思った瞬間。
背後から声がした。
「夜更かしは体に良くありませんよ」
湊が振り返る。
そこには朔弥が立っていた。
相変わらず穏やかな表情。
けれど。
今夜はどこか違う。
少しだけ。
疲れて見えた。
「すみません」
湊は頭を掻く。
「猫について来たら」
朔弥の視線が黒猫へ向く。
黒猫は知らん顔で本棚の上に飛び乗った。
朔弥は小さくため息をつく。
「よくあることです」
「そうなんですか?」
「ええ」
全然よくあることには聞こえなかった。
湊は苦笑する。
その時。
ふと。
本棚の一番奥に目が止まった。
そこだけ少し空気が違う。
並ぶ本の中に。
一冊だけ。
題名のない本。
古い革表紙。
何十年。
いや。
百年以上そこにあるような本。
「……あれは?」
湊が尋ねる。
朔弥の表情が僅かに変わる。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
あの本は特別なのだと分かった。
長い沈黙。
そして。
朔弥は静かに答えた。
「まだ読まれていない物語です」
その言葉は。
どこか寂しそうだった。
そして同時に。
まるで自分自身へ向けた言葉のようでもあった。
黒猫は本棚の上から、
じっと題名のない本を見つめていた。
その夜。
止まっていた歯車は、
少しずつ動き始めていた。




