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夜想館  作者: 灯野 しおん
第三夜

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16/23

五月雨ー朝比奈湊③

夕食を終えたあと。


 湊は一人で館内を歩いていた。


 眠れないわけではない。


 けれど。


 部屋へ戻るには少し早い気がした。


 雨はまだ降っている。


 窓ガラスを細かな雨粒が流れていく。


 夜想館は静かだった。


 まるで館そのものが眠っているみたいに。


 廊下を歩いていると。


 ふと一匹の黒猫が視界を横切った。


「あ」


 黒猫だ。


 玄関で見た猫。


 夕食の時にも暖炉の前にいた。


 黒猫は振り返る。


 金色の瞳がランプの光を映している。


「どうした?」


 もちろん返事はない。


 だが。


 黒猫は歩き出した。


 まるで。


 ついて来いと言うように。


 湊は苦笑しながら後を追う。


 猫は廊下の奥へ進む。


 見覚えのない場所。


 客室の並ぶ区域ではない。


 そして。


 一枚の重厚な木の扉の前で止まった。


 黒猫は静かに座る。


 その扉には、


 真鍮の小さなプレートが掛かっていた。


 書斎


「書斎?」


 湊は首を傾げる。


 その時。


 扉がひとりでに開いた。


 ぎぃ、と静かな音。


 中から暖かな灯りが漏れる。


 紙と革の匂い。


 インクの香り。


 どこか懐かしい空気だった。


 湊はそっと中へ入る。


 そして。


「……すごい」


 思わず息を呑んだ。


 壁一面の本棚。


 天井まで届く本の列。


 数え切れないほどの本。


 まるで図書館だった。


 いや。


 それ以上に。


 どこか生き物のような気配があった。


 本たちが静かに眠っているような。


 不思議な感覚。


 湊は本棚の間を歩く。


 一冊。


 また一冊。


 背表紙に名前が刻まれている。


 人の名前。


 知らない名前ばかり。


 けれど。


 どの本も大切に扱われていることが分かった。


 その時だった。


 ふと。


 一冊の本が目に入る。


 まだ新しい本。


 見覚えのない名前。


『雨宮 紗希』


 その隣。


『柊 千夏』


「宿泊客……?」


 そんな考えが頭をよぎる。


 だとしたら。


 この本棚には。


 これまで夜想館を訪れた人々の人生が並んでいるのだろうか。


 そう思った瞬間。


 背後から声がした。


「夜更かしは体に良くありませんよ」


 湊が振り返る。


 そこには朔弥が立っていた。


 相変わらず穏やかな表情。


 けれど。


 今夜はどこか違う。


 少しだけ。


 疲れて見えた。


「すみません」


 湊は頭を掻く。


「猫について来たら」


 朔弥の視線が黒猫へ向く。


 黒猫は知らん顔で本棚の上に飛び乗った。


 朔弥は小さくため息をつく。


「よくあることです」


「そうなんですか?」


「ええ」


 全然よくあることには聞こえなかった。


 湊は苦笑する。


 その時。


 ふと。


 本棚の一番奥に目が止まった。


 そこだけ少し空気が違う。


 並ぶ本の中に。


 一冊だけ。


 題名のない本。


 古い革表紙。


 何十年。


 いや。


 百年以上そこにあるような本。


「……あれは?」


 湊が尋ねる。


 朔弥の表情が僅かに変わる。


 ほんの一瞬。


 それだけで十分だった。


 あの本は特別なのだと分かった。


 長い沈黙。


 そして。


 朔弥は静かに答えた。


「まだ読まれていない物語です」


 その言葉は。


 どこか寂しそうだった。


 そして同時に。


 まるで自分自身へ向けた言葉のようでもあった。


 黒猫は本棚の上から、


 じっと題名のない本を見つめていた。


 その夜。


 止まっていた歯車は、


 少しずつ動き始めていた。

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