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夜想館  作者: 灯野 しおん
第三夜

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五月雨ー朝比奈湊②

朝比奈湊。


 宿帳に書かれた名前を見つめながら、


 朔弥は心の奥に広がる波紋を押さえていた。


 偶然ではない。


 そう思った。


 夜想館に辿り着く人々には、

 いつも何かしらの縁がある。


 けれど。


 この名前は。


 この顔は。


 あまりにも近すぎた。


「お部屋へご案内します」


 朔弥は静かに言う。


 湊は小さく頷いた。


 少し疲れた顔をしている。


 だが。


 その目元。


 笑った時にできる皺。


 横顔。


 どれも恒星によく似ていた。


 廊下を歩く。


 ランプの灯りが揺れる。


 湊は周囲を見回した。


「変わった宿ですね」


「そうでしょうか」


「なんていうか……」


 湊は言葉を探す。


「時間が止まってるみたいだ」


 朔弥の足が一瞬だけ止まった。


 だがすぐに歩き出す。


「そう感じられる方は多いですね」


 時間が止まっている。


 まさにその通りだった。


 少なくとも。


 朔弥にとっては。


 部屋へ案内し終えた後。


 朔弥は一人で書斎へ向かった。


 重い扉を開く。


 紙と革の匂い。


 無数の本。


 そして。


 本棚の一番奥。


 題名のない本。


 黒猫がその前に座っている。


 金色の瞳がこちらを見た。


「分かっています」


 朔弥は小さく呟く。


 だが。


 本へ触れることはしなかった。


 まだ。


 その時ではない。


 その夜。


 夕食の時間になった。


 食堂には暖炉の火が揺れている。


 湊が席へ着く。


 目の前に並べられた料理を見て、

 思わず目を見開いた。


「……え?」


 鯖の味噌煮。


 肉じゃが。


 だし巻き卵。


 味噌汁。


 白いご飯。


 ありふれた家庭料理。


 けれど。


 湊にとっては違った。


「母さんの料理だ……」


 思わず声が漏れる。


 兄が生きていた頃。


 家族四人で囲んでいた食卓。


 仕事で疲れて帰った父。


 よく笑う母。


 そして。


 いつも自分をからかっていた兄。


 あの日々の味だった。


 湊は箸を握ったまま動けない。


 胸が熱くなる。


「どうして分かったんですか」


 朔弥は少し考えるように珈琲の準備を続けた。


「夜想館では時々あります」


 それだけだった。


 湊は苦笑する。


「変な宿だな」


 そして。


 一口食べる。


 その瞬間。


 目の奥が熱くなった。


 懐かしかった。


 あまりにも。


 兄がいた頃の匂いがした。


 家族が揃っていた頃の音が聞こえた気がした。


 気づけば。


 湊はぽつりと呟いていた。


「兄貴に謝りたいんです」


 朔弥は何も言わない。


 ただ静かに耳を傾ける。


「最後まで」


 湊は俯いた。


「大丈夫だと思ってた」


「また会えると思ってた」


「だから……」


 言葉が続かない。


 暖炉の火が小さく揺れた。


「最後の方は仕事を理由にして」


「見舞いも減って」


「ちゃんと話もしなかった」


 長い沈黙。


「兄貴が死んでから」


「ずっと後悔してます」


 その言葉を聞いた瞬間。


 朔弥の胸に。


 遠い昔の記憶が蘇る。


 病室。


 白い布団。


 咳き込む青年。


 朝比奈恒星。


 親友。


 そして。


 自分もまた。


 伝えられなかった言葉を抱えている人間だった。


 だからこそ。


 朔弥は静かに言った。


「後悔は」


 湊が顔を上げる。


「消えないものです」


 静かな声。


「ですが」


 窓の外では五月雨が降っている。


「抱えたまま前へ進むことはできます」


 その言葉に。


 湊はどこか苦しそうに笑った。


「それができたら苦労しないですよ」


 朔弥は答えなかった。


 なぜなら。


 それは。


 自分自身にも向けられた言葉だったから。


 そしてその夜。


 湊は兄との再会へ。


 朔弥は過去との再会へ。


 少しずつ近づいていくことになる。

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