五月雨ー朝比奈湊②
朝比奈湊。
宿帳に書かれた名前を見つめながら、
朔弥は心の奥に広がる波紋を押さえていた。
偶然ではない。
そう思った。
夜想館に辿り着く人々には、
いつも何かしらの縁がある。
けれど。
この名前は。
この顔は。
あまりにも近すぎた。
「お部屋へご案内します」
朔弥は静かに言う。
湊は小さく頷いた。
少し疲れた顔をしている。
だが。
その目元。
笑った時にできる皺。
横顔。
どれも恒星によく似ていた。
廊下を歩く。
ランプの灯りが揺れる。
湊は周囲を見回した。
「変わった宿ですね」
「そうでしょうか」
「なんていうか……」
湊は言葉を探す。
「時間が止まってるみたいだ」
朔弥の足が一瞬だけ止まった。
だがすぐに歩き出す。
「そう感じられる方は多いですね」
時間が止まっている。
まさにその通りだった。
少なくとも。
朔弥にとっては。
部屋へ案内し終えた後。
朔弥は一人で書斎へ向かった。
重い扉を開く。
紙と革の匂い。
無数の本。
そして。
本棚の一番奥。
題名のない本。
黒猫がその前に座っている。
金色の瞳がこちらを見た。
「分かっています」
朔弥は小さく呟く。
だが。
本へ触れることはしなかった。
まだ。
その時ではない。
その夜。
夕食の時間になった。
食堂には暖炉の火が揺れている。
湊が席へ着く。
目の前に並べられた料理を見て、
思わず目を見開いた。
「……え?」
鯖の味噌煮。
肉じゃが。
だし巻き卵。
味噌汁。
白いご飯。
ありふれた家庭料理。
けれど。
湊にとっては違った。
「母さんの料理だ……」
思わず声が漏れる。
兄が生きていた頃。
家族四人で囲んでいた食卓。
仕事で疲れて帰った父。
よく笑う母。
そして。
いつも自分をからかっていた兄。
あの日々の味だった。
湊は箸を握ったまま動けない。
胸が熱くなる。
「どうして分かったんですか」
朔弥は少し考えるように珈琲の準備を続けた。
「夜想館では時々あります」
それだけだった。
湊は苦笑する。
「変な宿だな」
そして。
一口食べる。
その瞬間。
目の奥が熱くなった。
懐かしかった。
あまりにも。
兄がいた頃の匂いがした。
家族が揃っていた頃の音が聞こえた気がした。
気づけば。
湊はぽつりと呟いていた。
「兄貴に謝りたいんです」
朔弥は何も言わない。
ただ静かに耳を傾ける。
「最後まで」
湊は俯いた。
「大丈夫だと思ってた」
「また会えると思ってた」
「だから……」
言葉が続かない。
暖炉の火が小さく揺れた。
「最後の方は仕事を理由にして」
「見舞いも減って」
「ちゃんと話もしなかった」
長い沈黙。
「兄貴が死んでから」
「ずっと後悔してます」
その言葉を聞いた瞬間。
朔弥の胸に。
遠い昔の記憶が蘇る。
病室。
白い布団。
咳き込む青年。
朝比奈恒星。
親友。
そして。
自分もまた。
伝えられなかった言葉を抱えている人間だった。
だからこそ。
朔弥は静かに言った。
「後悔は」
湊が顔を上げる。
「消えないものです」
静かな声。
「ですが」
窓の外では五月雨が降っている。
「抱えたまま前へ進むことはできます」
その言葉に。
湊はどこか苦しそうに笑った。
「それができたら苦労しないですよ」
朔弥は答えなかった。
なぜなら。
それは。
自分自身にも向けられた言葉だったから。
そしてその夜。
湊は兄との再会へ。
朔弥は過去との再会へ。
少しずつ近づいていくことになる。




