唯一の宝物
食後、夜風が少しだけ冷たさを帯びてきた。誠は「夜道は危ないですから」と、大型犬のような純粋な瞳で送り届けることを譲らなかった。香澄は「私のこの腕力を舐めないでよ」と毒づきながらも、どこか浮き立つ足取りを抑えきれずに歩き出した。
だが、自宅の古ぼけた街灯が見えてくると、急に足が重くなった。
そこにあるのは、都心の一等地にありながら時が止まったような、築60年の一軒家。かつては名家として名を馳せたであろう風格のある日本家屋だが、今はあちこちに素人仕事——もとい、香澄の執念が詰まった補修跡がパッチワークのように点在している。
「……ここよ。ボロいでしょ。でも、亡くなった父さんが遺してくれた唯一の宝物なの」
香澄は、先月自分で打ち付けたばかりの真新しい板塀を指差した。建材屋の端材を安く買い叩き、防腐剤を二度塗りして、水平器でミリ単位の調整をして仕上げた自慢の塀だ。
家そのものは古びているが、不思議と荒廃した空気はない。庭の雑草は一本残らず刈り取られ、詰まりやすい雨どいも香澄の手によって完璧に清掃・補強されていた。
「……すごい」
誠は立ち止まり、まるで国宝を拝むかのように、家の柱をまじまじと見つめた。
「この柱……根継ぎして直してありますね。あっちの窓枠も、アルミサッシを使わずに木製のカバーを自作して補強してある。……香澄さん、これ、全部あなたが一人で?」
「……まあ。業者の見積もりがバカ高かったから、自分でやったの。文句ある? 安っぽく見えるでしょ」
香澄が投げやりな視線を向けると、誠は強く首を振った。
「文句なんて……! 芸術ですよ、これは。歴史を大切にしながら、愛を持って守られている。……一ノ宮が建てる最新のタワーマンションより、ずっと頑丈で、ずっと美しいです」
香澄は言葉を失った。人生で初めて、この「古いだけの家」を、自分の「泥臭い努力」を、「美しい」と肯定されたのだ。
呆気にとられていると、静寂を切り裂いて玄関の引き戸が「ガラガラッ!」と乱暴に開いた。
「ちょっと香澄! 帰ってくるのが遅いのよ! 早くお風呂の追い焚き機能の調子を見て……って、なによその男!? 泥棒!? 不審者!? 警察に通報するわよ!」
顔中に真っ白な保湿パックを貼り付けた次女のサキが、金切り声を上げる。その奥からは、静江の重苦しい怒鳴り声も響いてきた。
「香澄! 早くお茶を淹れなさい! ルミの部屋の加湿器が壊れたのよ、叩いて直しなさい!」
「……姉さん、静かにして! 泥棒じゃないわよ!」
香澄は慌てて誠の背中を、その自慢の剛腕で力一杯押し出した。
「……ほら、もう行きなさい! じゃないと、あの猛獣たちに捕まって骨までしゃぶられるわよ! あんたみたいな弱そうなの、一瞬で餌食よ!」
誠は押されながらも、名残惜しそうに何度も振り返った。
「また……会えませんか?」
「……壊れた場所がある時だけよ! ほら、帰った帰った!」
誠の姿が闇に消えるまで見送った香澄は、大きく息を吐いた。
誠は確信していた。豪華なドレスで着飾った令嬢たちなど足元にも及ばない。自分の手で運命を修理し、泥にまみれながら家を守り抜く彼女こそが、自分がずっと探していた、一ノ宮の未来を託すべきパートナーなのだと。
一方、香澄は。
猛獣たちの怒声が響く家の中へ戻る直前、誠に褒められた玄関の柱を、そっと掌で撫でていた。
「……変な奴。……本当に、変な奴」
その呟きは、夜風に溶けて消えた。しかし、彼女の無骨な指先には、今まで感じたことのない微かな熱が宿っていた。




