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ジャージでディナー

 作業が終わる頃には、群青色の空に一番星が瞬き始めていた。

「お礼に、どこかで夕飯でも……」

 食い下がる誠の声に、香澄は自分の薄汚れた紺ジャージと、オイルの染みたエプロンを見下ろして鼻を鳴らした。


「あんたね、鏡を見て言いなさいよ。泥だらけの男とジャージ女が、一体どこへ行けるって言うの? それに、私は家であいつらの分も作らなきゃいけないんだから」


 はぁ、と重い溜息をつく香澄。その脳裏には、今頃リビングで「お腹空いた!」「香澄、まだなの!?」と喚いているであろう静江たちの顔が浮かぶ。


「あ……。すみません、僕、気が利かなくて。……毎日、大変なんですね」


 誠は本気で申し訳なさそうに、捨てられた子犬のように肩を落とした。そのあまりに情けない落胆ぶりに、香澄はなぜか胸の奥がチクリと痛むのを感じた。


「……ったく。今回だけよ。ついてきなさい。安くて、立って5分で食える場所があるから」



 香澄が連れて行ったのは、駅裏のガード下、電車の振動がダイレクトに響く立ち食いそば屋だった。ダシの匂いと蒸気が立ち込める、男たちの戦場だ。


「さあ、食いなさい。ここの『かき揚げそば』は、この界隈のガテン系を支えるエネルギー源なんだから」


 誠はおずおずと割り箸を割り、湯気の立つどんぶりに顔を寄せた。そして一口、汁を啜り、麺を口に運ぶ。


「……お、おいしい……! 温かくて、心まで解けるみたいだ。それに、こうして立ったまま食べるなんて……なんて新鮮な体験なんだろう!」


 誠は、まるで世界で初めて火を発見した人類のように目を輝かせた。


「大げさなのよ。あんた、普段一体何を食べてるのよ。一ノ宮の福利厚生は死んでるわけ?」


「……家では、銀の皿に載った冷たい前菜とか、名前のわからない複雑なソースがかかったお肉ばかりで。なかなか、こういう『ホッとするもの』には巡り会えないんです」


(……やっぱり。確信したわ)


 香澄は心の中で深く頷いた。

 銀の皿? 名前不明のソース? それはきっと、巨大組織「一ノ宮」の末端で、冷え切った仕出し弁当や、得体の知れない業務用レトルトを配給されている証拠に違いない。


「……あんた、そんなに搾取されてるの? ちゃんと給料もらってる? 休みはあるの?」


「ええ。……休みは、最近は(あなたに会うために)無理やり作っていますけど」


「……っ、さらっと何言ってんのよ! ……あんまり辛いなら、うちに来る? 親父の残したボロ家だけど、一部屋くらいなら、まあ、物置を片付ければ貸してあげられなくもないけど」


「えっ!? あ、はい! ぜひ、前向きに検討させてください! むしろ今すぐ契約を……!」


「冗談よ! 真に受けないでよ、このバカ!」


 香澄は顔を真っ赤にして、熱いそばを勢いよく口に放り込んだ。

 対照的に、誠は手元の「かき揚げ」を愛おしそうに見つめながら、心の中で別の計算を始めていた。


(灰原家への居候……。なるほど、その手があったか。佐藤に引越しの準備をさせないと。……いや、まずはあの『魔王』と呼ばれる義母たちの排除が先か)


「灰原さん。僕、もっとあなたの役に立ちたいです……」


「バカ言ってんじゃないわ!普通の仕事もできないくせに! ……もう、帰るわよ!」


 香澄は逃げるように店を出た。

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