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困惑する執事

 パーティから三日。一ノ宮家の本邸では、数十年にわたり一ノ宮家に仕えてきたベテラン執事の佐藤が、若き主人の「奇行」を前に、深く、重く頭を抱えていた。


「若様。……本当によろしいのですか? この『塩飴の袋』から指紋を採取し、解析に回すなど……一ノ宮の総力を挙げてやることではございません。科学捜査班も困惑しております」


 誠は、自室の重厚なマホガニーのデスクに置かれた、一粒の塩飴を聖遺物のように見つめていた。


「佐藤、彼女は僕の命の恩人なんだよ。あの日、あのタイミングでスプリンクラーが止まらなければ、来賓の最高級ドレスは全滅し、一ノ宮家の信頼は失墜、株価は大暴落していただろう。彼女は、僕たちの誇りを守ってくれたんだ」


「それは少々、恋の熱に浮かされて……失礼、少々大げさかと存じます。……ですが、あの日会場に出入りした全てのスタッフ名簿、ケータリング業者、警備会社、さらにはエキストラのアルバイトまで全て洗いましたが、『灰原』という名はどこにもありませんでした」


 佐藤は手元のタブレットを苦々しく操作しながら続けた。


「招待状リストにない不届きものが潜り込んでいた可能性が無きにしも非ずですが……。女性たちは皆、若様の目に留まろうと、目も眩むような派手なドレス姿をしておりました。若様が仰る『ジャージ姿の女神』とは、程遠いお姿です」


 誠の瞳が、少しだけ寂しそうに揺れる。

 あの日、彼女は確かにそこにいた。色あせた紺色のジャージに、誇らしげに刺繍された『灰原』という文字。誰よりも鮮やかな手つきで唸る機械を黙らせ、口の悪さの裏に、不器用なほど優しい温かさ(と塩飴)を隠し持っていた。


「……彼女はそんな小細工をするような子じゃない。きっと、堂々と力強く生きているはずだ」


 誠は麦わら帽子を再び手に取り、力強く立ち上がった。その瞳には、経営会議で見せるような鋭い光が宿っている。


「佐藤、引き続き捜査は続行してくれ。僕は僕で探してみる。彼女とはきっと、もう一度会える気がする。僕の直感がそう言っている」



 誠がその決意を固めていた頃、一ノ宮家の贅を尽くした空間とは対照的な、湿った鉄の匂いが漂う灰原家の台所。


 そこでは、香澄が「みちみち……」と不穏な音を立てるほど強力な握力で、完全に固着した古い水道の蛇口を素手でねじ伏せていた。


「……ハクション! 全く、誰かが私の噂でもしてるのかしら。あのアホ面した庭師の男、ちゃんと仕事してるんでしょうね。私が直してやったんだから、一週間はもたせなさいよ」


 香澄は額の汗をジャージの袖で拭うと、工具箱から大型のパイプレンチを取り出した。

 父が遺したこの家は、外見こそ立派だが中身はガタがきている。静江たちがブランド品を買い漁る一方で、屋敷の「内臓」とも言える配管や電気系統は、香澄が一人で、文字通り力ずくで維持しているのが現状だった。


「……ま、あんなひょろっとした男のことなんて、どうでもいいわ」


 そう自分に言い聞かせながら、香澄はレンチを蛇口に噛ませる。

 彼女の脳裏には、泥だらけのくせに驚くほど澄んだ瞳をした、あの「誠」という男の笑顔がこびりついて離れない。


「っ……らぁ!!」


 気合一閃。香澄の背筋が、ジャージ越しに隆起した。

 並の男なら三人がかりで回らないような錆びついた接合部が、彼女の「剛腕」の前に屈し、情けない音を立てて回り始める。


「よし、開通。……私の人生も、これくらいスカッと通ればいいんだけどね」


 溢れ出した水で顔を洗う香澄。

 彼女はまだ知らない。

 一ノ宮の総力を挙げた「塩飴の指紋捜査」が、そして作業着を羽織った「王子様」の執念深い再調査が、すぐそこまで迫っていることを。

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