ガーデンパーティ
日本屈指の財閥・一ノ宮家が主催するガーデンパーティ。そこは「地上に降りた楽園」と称されるほど、計算し尽くされた美が支配する空間だった。
静江たちはこの日のために、あらゆるコネと裏金、そして香澄の給料(になるはずだった金)を注ぎ込み、一ノ宮家の御曹司を釣り上げる「玉の輿記念日」にするつもりでいた。
「いい、香澄。あんたは裏口から入りなさい。スタッフのふりをして荷物番と、ドレスが汚れた時の予備を持って控えておくのよ。間違っても表に出ようなんて思わないことね。その……忌々しい名前入りのジャージ姿でね!」
静江の罵声を、香澄は耳にこびりついた煤を払うように聞き流した。
「言われなくても。パーティみたいなキラキラした場所、蕁麻疹が出るわ」
華やかなドレスを纏った女たちと、隙のないタキシードの男たちが、クリスタルのシャンパングラスを傾ける会場の裏側。ケータリングの搬入口近く、資材置き場の陰にあるベンチが香澄の指定席だ。
「……ふん、空気まで高い匂いがするわね。反吐が出る」
香澄は予備のハイヒールが入ったバッグを雑に枕にし、横たわった。中学から着倒しているジャージの袖をまくれば、そこには家中のボイラーを一人で運び出したことで鍛え上げられた、岩のような前腕が剥き出しになる。
昼寝でも決め込もうと目を閉じた。だが、研ぎ澄まされた「プロの嗅覚」がそれを許さない。
(……なんだ、この音。嫌な予感がするわね)
風に乗って聞こえてきたのは、優雅なチェロの調べでも、令嬢たちの嬌声でもない。
「シュシュッ……コフッ……」
という、規則的だがどこか「苦しそうな」水の音。そして、微かに混じる金属のきしみ。
会場の隅、精緻に手入れされた薔薇のアーチが迷宮のように連なるエリアの裏手に、場違いな影が一つあった。
泥だらけの作業着に、つばの広い麦わら帽子を深く被った青年。その手には一丁の大きなスパナが握られていたが、彼はそれをどう扱えばいいのか分からず、途方に暮れた様子で激しく水を噴き上げるスプリンクラーの根元を見つめていた。
「あの、これ、どうやったら止まるんだろう……。このままだと、お客様たちのドレスがびしょ濡れになっちゃうな」
独り言ちるその声は、泥にまみれていても隠しきれないほど穏やかで、どこか世間離れした響きを含んでいる。
「ちょっと、あんた。何やってんのよ。見てるだけで水が止まるとでも思ってんの?」
背後から突き刺すような声が飛び、青年は「びくっ」と肩を揺らして振り返った。その顔を見た瞬間、香澄は思わず呼吸を忘れた。
頬に泥が跳ねているが、整った顔立ち。そして何より、人を疑うことを知らない、吸い込まれるほど澄んだ瞳。
「あ、ええと、その……庭師の、手伝いの者です。急にここから水が噴き出しちゃって。僕、どうしていいか……」
「素人ね。どきなさい、見てられないわ」
香澄は迷わず青年の隣に膝をついた。高級な芝生に膝をつくことに躊躇などない。
「あ、ちょっと! 服が汚れますよ!」
青年が慌てて手を伸ばすが、香澄はそれを片手で制した。
「これ? 中学のジャージよ。10年選手なんだから今さら泥の一つや二つ、デザインのうちだわ。それよりあんた、スパナの持ち方が逆。そんなんじゃ力が逃げるだけでしょ」
香澄は腰のベルトから、使い込まれた「マイスパナ」を抜き放った。その動きには無駄がない。鮮やかな手つきで接合部を緩め、噴き出す水圧を力技で押さえ込みながら中のパッキンを確認する。
「……やっぱりね。小さな石が噛んでる。一ノ宮家だか何だか知らないけど、最新鋭のシステムに胡坐をかいてるからこうなるのよ。メンテナンスが甘いわ」
香澄は指先で器用に石を弾き飛ばすと、結束バンドで一時的に亀裂を補強し、そのまま一気にスパナを締め上げた。筋肉が美しく躍動し、先ほどまで荒れ狂っていた水圧が、ピタリと、静寂の中に消えた。
「……すごい。魔法みたいだ」
青年は、まるで奇跡を目撃した子供のように目を丸くして、香澄の横顔を見つめていた。
「あんた、庭師の手伝いにしては頼りなさすぎ。こんなの基本中の基本でしょ。少しは腕を磨きなさいよ」
「すみません……。僕、こういうのは本当に不器用で。でも、植物は好きなんです。彼らが健やかに育つ場所を守りたくて……」
青年は照れくさそうに、しかし真っ直ぐに笑った。その屈託のない笑顔に、香澄は胸の奥を軽く突かれたような感覚を覚える。青年はポケットから上質なシルクのハンカチを取り出すと、香澄のジャージについた泥をそっと払おうとした。
「あ、ちょ、やめなさいよ! キレイなハンカチが台無しでしょ!」
「あ、ごめんなさい。……でも、君のおかげで助かりました。本当に。僕は……誠と言います」
「香澄よ。一ノ宮の仕事をしてるなら、もっとシャキッとしなさいよね。……ほら、これ」
香澄は無造作に、エプロンのポケットから「塩飴」を一つ取り出して、誠の手のひらに乗せた。
「現場仕事でしょ。熱中症にでもなったら大変よ。勘違いしないでよね、余ってただけだから」
「ありがとうございます。……これ、一生大事にしますね」
「飴玉一つで大げさなのよ! 早く仕事戻んなさい!」
顔が急速に熱くなるのを感じて、香澄は乱暴に背を向けて走り去った。ジャージの背中に、泥だらけの拳を握りしめて。
誠は、手のひらに残された安物の飴を、まるで国宝でも扱うかのような手つきで愛おしそうに見つめていた。




