友に捧ぐ 〜The Long Goodbye
探偵社の襲撃を切り抜け、トニーとベルが窮地に立たされていることを知らされたジャンゴとカグヤは、わずか一時間足らずで事務所へと舞い戻ってきた。
路上を風めいて駆け抜け、積層都市において街の架け橋となるような建造の仕方をされたビル群を縫うように飛び回ることで、本来なら二時間はかかるであろう距離を半分以下にまで短縮したのは、さすがの身体能力と言えるだろう。
「降ろすぞ」
「うぅ……はい、はぁ、ふぅ……」
彼に担がれて……女性ならば誰もが憧れるいわゆるお姫様抱っこをされていたカグヤだったが、彼の絶叫アトラクションさながらの激しい動きはそんな情緒もひったくれもなく、全身を、内臓に至るまで揺さぶられるような感覚にひどく酔い、目が回り疲弊してしまっていた。
だがそもそも、今はそれどころではない。
もっと大事なこと……トニーたちの身の安全が最優先だ。
「んっ……ふぅ、すみません、もう、だいじょうぶ、です」
まだくらくらとしているが、ひとまず息を整えて、ジャンゴに心配をかけないように努めて言う。
しかしジャンゴは、彼女を気にかけている暇がないようで、特に反応を示すことなく事務所へと押しかけるように入っていった。
「……これは」
事務所に入るや否や飛び込んできた光景に、ジャンゴは絶句した。
荒らし回され、容赦なく壁や家具、ありとあらゆるものを手当り次第に破壊されて、事務所の内部はまるで嵐が通過したかのような惨状と貸していた。
ジャンゴは悔しさに思わず歯噛みする。自分の至らなさに自責の念が込み上げてくる。
「そんな……ひどい……」
後から入ってきたカグヤも口元を覆い、変わり果てた事務所の姿に呆然としてしまう。
数刻前までは、ここでジャンゴとベル、三人で朝食を食べていた。それより遡れば、トニーとも……みんなで、揃って……。
まだここで暮らし始めて一ヶ月に満たないといえど、もうすでに我が家同然に馴染んでいたこの事務所を、ここまでひどく荒らされたという事実は、どうあっても耐え難いものである。
「そうだ……ベルさん、トニーさんは……?」
カグヤはふたりの安否を気にかけ周りを改めて見回す。
「……奥だ。行くぞ」
ジャンゴはここにはいないことを即座に悟ると、事務所から廊下に通ずる扉……それもまた、ひどく破壊されている……のドアノブに手をかけ、逸る心に力加減ができずに扉ごと引きちぎった。
廊下も事務所と同じく、破壊の痕跡がありありと刻まれていた。扉、床、壁……まるで八つ当たりをされたかのように、痛々しい傷がつけられている。
さらに強く奥歯を噛み締めるとともにジャンゴは早歩きに廊下を突き進み、トニーの工房へと踏み入った。
いくつもの銃痕が刻まれた作業机もあれば、荒々しくもひっくり返された作業机もある。
トニーは無事なのか。ベルはどうしているのか。
これらの破壊の痕跡がふたりの末路のように思えて、ジャンゴの心にさらに焦燥が募る。
そして、工房から、倉庫……かつてのトニーのガンショップへと繋がる扉の前に立ち、それを開けようとドアノブを握ったとき……ジャンゴは嫌な感覚に苛まれた。
まるで、背中に氷を差し込まれたような、ぞくりと身を震わせる感触が、手から全身へと駆け巡る。
ここを開けてはならない。
警告……それは触覚からではなく、第六感……いわゆる虫の知らせとも言うべき本能から送られて来る注意信号だ。
「……ジャンゴさん……?」
カグヤが、心配そうに声をかける。いや、彼女が心配しているのは自分ではない……。おそらくは、彼女もわかっているはずだ。この先になにが待ち受けているか。
ジャンゴは僅かな……一秒にも満たない長い逡巡ののち、握ったドアノブを自身の馬鹿力で紙くずのようにぐしゃぐしゃに潰しながら意を決して扉を開いた。
「……よう」
彼はいた。血だらけの姿……見るからに瀕死の体で、彼はカウンターに背中を預けて、こちらへ首だけを動かして弱々しい笑みを浮かべた。
「……トニー」
光は十分にあるというのに、部屋の中はジャンゴには随分と暗く見えた。トニーのその、あまりにも弱り果てた姿に釣られてか、周りの景色がひどく澱んで、落ち込んでいるように見えた。
「はは……なんとか、間に合ってくれたかあ……。もう少し、遅くなるかと……思っとったよ」
ジャンゴは駆け寄り、トニーの状態を確認する。
出血がひどい。腹部から、おびただしい量の血が溢れるように流れている。
「そんな……トニーさん!」後から部屋へ入ってきたカグヤが、死にかけのトニーの姿を見て駆け寄ってきた。
ごめんなさい、ごめんなさい。わたしの、せいです──そう泣きじゃくりながら、縋り付くように言うカグヤに、トニーは乾いた……本人は思いっきり笑ったつもりだ……笑いを浮かべる。
「あぁ、よかった……無事、だったか。ま、ぁ……ジョンと一緒なら、大丈夫とは……思っとったけどな……」
「おい、喋るな……!」
「事務所を襲ったヤツが……ここを出ていくときに……聞かされてなぁ……ジョンたちを別働隊が襲い……可能なら、カグヤさんを……拉致……それが出来なければ、ぐぶ、う……足止めしてるうちに、わしらを、見せしめに始末する……そういう、算段で、いた、ってな……」
ジャンゴの忠告を無視して、トニーは話を続ける。その間にも彼は喀血し続け、息も絶え絶えで、空気が漏れるかのようなひゅうひゅうという呼吸が、トニーの残りの命の灯火を表しているようだった。
「ベルは……連中に……連れてかれちまった……カグヤさんと、引き換えに……そうすれば、返してやる……ごぼ、げ、ぐふ……そう言ってな……」
「……なら、あの連絡は」
「連絡……?ああ、そういや……連れてかれる直前、携帯を触っとったなぁ……ありゃ、そういうことか、ふふ……あいつも、あんなのほほんとしてるように、見えて……結構、頭が回るから、なぁ」
カグヤは思わずきゅっと唇を噛んだ。握った拳の中、長い爪が、皮膚にきりきりと食い込む。
こうなることを、一度も考えなかったわけじゃない。ジャンゴとともにこの事務所の一員になることで……自分がもたらす災厄ぐらい、いくらでも予想できた。
だが、心のどこかで……彼らと、ジャンゴといればきっと大丈夫だという甘えがあった。
それが、それが……こんな結末を招いてしまった。
わたしのせいで。わたしのせいで、また、他人を陥れてしまった……。
カグヤの中に、罪悪感が込み上げる。
「……カグヤ」
そんな彼女に、ジャンゴは背を向けたまま声をかけた。
「事務所側に、救急箱がある。取ってきてくれ」
「あ……」カグヤは一拍遅れて返事を返す。「は、はい。事務所のどこに……」
「知るか!どっかにあるんだよ!とっとと取ってこい!」
ジャンゴは怒鳴り声を上げて、カグヤを追い払うように強引に送り出す。「タオルと水もだ、急げ」
カグヤが慌ただしく部屋を出て、この場にはジャンゴとトニーのふたりだけになった。
すると、トニーはくくくっと、我慢出来なかったというふうに笑った。痛々しく咳ごみなから。
「……もっと、言い方ってもんがあるだろ、まったく」
「ああでもしなきゃ、また馬鹿なこと考え出すからな。なにか仕事をさせた方が雑念も晴れるだろ」
「素直じゃ……ないんだからなぁ、う、ごびゅ……」
「……」
「なぁ、ジョン……」
さらに血を涎のように口から零しながら、トニーは焦点の合っていない目を向ける。
「……ああ。好きに喋れよ。なんのために人払いしたと思ってる?」
ジャンゴはもう、わかっていた。認めるしかなかった。
……彼はもう、助からない、と。
悔しいが……手の施しようがない。トニーは、ここで死ぬ。手後れなのだ。これはどうあっても……覆しようがない。
だからジャンゴは、いつもと同じように……彼とこれまで他愛もない話をしてきたときのように、隣に寄り添うように座り込んだ。
「わしらを襲った男……クラウスは……カグヤさんをつけ狙う連中、う、ぐ……〈教団〉、の……エージェントとか、名乗ってた……。ヤツは……ただの、人じゃあ、なかった。悪魔……だった」
クラウスという男。それがトニーに致命傷を負わせ、ベルを攫った存在。そして、彼が悪魔だと言うことは……以前鉄血教会でセシリアに聞かされた〈ゲドン〉のひとりなのだろう。
あまりにも、分が悪かった。ただの人間であるトニーではどうあっても手に負えない相手だ。
「いいところまで……いったん、だけど、な?はは、詰めが甘かったよ……倒したと思ったら、後ろから、一刺しだ……。だがヤツは……わしにトドメは、刺さなかった。わしを……おまえへの、伝言役にすると言って……生かした。薬を打ってな……おかげで、まだ……死なずにいる。情け、ないが、なあ……」
見れば、トニーの首筋には注射痕があった。鎮痛剤か、それとももっとタチの悪いものであれば麻薬の類か……トニーは、投薬により辛うじてまだ命を繋ぎ止めているというところだった。
「悪いな……ジョン。おまえさんのことを、おまえさんの大切なものを守ろうとしたってのに、このザマだ……。いつも、いつも……わしは……おまえに結局なにもしてやれない……」
「そんなこと、ないさ」
ジャンゴはカウンターに背を預けてもたれかかり、天井を仰ぎながら否定する。
「謝るべきは、おれの方だ。おれが、おまえを……死なせたようなもんだ」
「そんなこと、ないさ」トニーはオウム返しをするように言った。「おまえさんが……カグヤさんのために……自分のために……この道を選んだときから、こうなることは、覚悟、して、たんだ……おまえだって、そう、だろ。この前に……そう、言ったじゃあ、ないか。だからうぶっ……ぐ、ごぼっ、ぼぉ……!」
「……そうだとしても」
血を吐くトニーの様子を横目に眺めるように見つめながら、ジャンゴは苦々しい口調で言う。
「こんな終わり方は、望んじゃいなかった。こんな、志半ばで……おれはおまえを、むざむざと……。トニー、おまえはまだ、もっと、ずっと……生きるべきだった」
「いや、わしは……もう十分に、生きたさ……お釣りが来るくらい、楽しい人生だったさ……おまえさんの、おかげで」
「……」
「あんたと、会えて……友達になれて……わしは、毎日が、楽しかったんだ……なにひとつ、不自由が、ないぐらい、に」
トニーの目はひどく虚ろで、視線こそ前を見ているがその視界にはなにも映ってはいなかった。
「聞いても……いいか」
「なんだ?」
「後悔、しとるか?わしと、出会って……」
「……ああ、してるさ」ジャンゴはきっぱりと言った。「こんなふうにおまえと別れるのなら、いっそのこと、おまえと友達になるんじゃなかったよ」
「……そうか。そりゃあ……よかった」
トニーはジャンゴの言葉を聞いて満足気にゆっくり、小さくうなずいた。
「わしは……それだけ、あんたの中で大きな存在になれたんだな」
「……ああ。おまえは昔から、余計なことしかしないし、おれに迷惑ばかりかけるからな」
「ふ、ふふふ……そいつは面目ないね」
「勝手に、おれの役に立とうと張り切りやがって。……おまえはいつだって、おれの友達でいてさえくれれば、それで十分だってのに、その結果……勝手に、死にやがって……迷惑なんだよ、この大バカが。このおれの友達なら、おれがいいって言うまで生き続けろよ……」
ジャンゴは静かに、込み上げる怒りをぶつけるように訥々と語る。それはジャンゴにとって打ち明けられる精一杯の素直な気持ちだった。
だが、相変わらず言葉の端々に彼の不器用さ、屈折さが滲み出ていて、トニーは思わず笑いを零した。
笑いになっていない笑いを。
「……まったく、こんなときぐらい、素直になってくれても、いいんじゃないか。わしのために、泣いてくれたって……」
「泣きたいのは山々だが……そういうのは、おれの性分じゃなくてな。それに、泣くのはいつもおまえの役割だったろ」
「……そう、だったなぁ……ぐ、うぅぶ!か、ふ……、ふぅ、はぁ……ああ、くそ。先に……伝えとかないとな。ベルは……クラウスは、第二階層の……近代美術館であんたのことを、待ってる……」
トニーは苦しげに喘ぎながら、手を横に床を舐めるように差し出し、握っていた手のひらを開く。
その手の中には、漆黒の鍵が。
ジャンゴはそれを黙って受け取る。この鍵がなんの鍵なのかは、言われずともよく知っていた。
「きっと……必要になるだろ?」
「……ああ、そうだな」
「うん……ははぁ……悔しい、なぁ。これを渡すなんて、したくなかったんだがなぁ……。せめて、せめて……もっと、ずっと先……に、返したかったのになぁ。運命ってのは、神様ってのは、ホント、残酷だよなぁ」
ジャンゴは手のひらの中に乗せられたその小さな鍵を握りしめる。鍵の小ささに反して、その感触はあまりにも大きなものに感じられた。
「……ジョン……まだ、そこに、いるか……?」
「……いるよ」
「おまえさんに、まだ、打ち解けてなかったこと、が……あるんだ」
「ああ、なんだ?」
「わしが……おまえの事務所に転がり込んだとき……ヨメと娘に逃げられた、って言ったろ……ありゃ、ウソ、だ……ホントは、な。殺されちまったんだ……いつだったか……まだわしとおまえが現役のコンビだった頃に、どっかの、マフィアを潰したとき、その、報復で、な」
「……」
「おまえさんに、それを話したら……きっと、また、おまえがひどく、落ち込むと、思ったから……言わないで、おいたが……はは、見栄を張ったよな、あの頃のわしも」
「そう、か」
「……もしかして、知ってたか……?」
「……ああ、ずっと知ってたさ。おまえはそんな、家族に逃げられるような男じゃない」
トニーは顔を歪めた。笑ったつもりでいたようだが、その顔はやはり苦痛に歪んだようにしか見えなかった。
「悪かったな。こっちこそ、なにも言わずに黙ってて」
「気を、効かせてくれてたんだな……ああ、おまえは……ホント、なんでもかんでも、お見通しだなぁ……適わんよ、まったく……」
「トニー」
「……う……ん?」
「おれからも、ひとつ打ち明ける」
「……」
「おれは。おまえの作るメシが好きだったよ」
トニーは咳き込んだ。大笑いしようとして、その代わりに出たものが吐血混じりの咳だった。
「散々ボロクソに言ってきたくせに……今際の際になって、よく、言うよ……この、ロクデナシ……」
「本当に、な。どうして、おれは……素直に言えないんだろうな」
「まったく、だよ……」
トニーは顔を上げて、天井を……どちらかといえば、虚空を仰ぐ。「なぁ、ジョン」それから、また友の名前を呼ぶ。
呼べるうちに、呼べるだけ。
トニーは、残り少ない命の灯火を、最後の瞬間までジャンゴの友として燃やし尽くそうとしていた。
「わしは……ここまでだが……おまえさんが……ベルが、カグヤさんが、三人でも……幸せに生きていけることを、願ってる」
「……」
「特に……おまえさんが、いつかちゃんと、心の底から笑えるようになって……どうか、どうか人並みに……ほんのささやかでも、幸せになってくれることを、ずっと、ずっと……願って……」
そこで言葉がつまり、トニーはぼんやりとした様子で虚空をじっと見つめる。
「……トニー?」
「……あ。あ、あぁ……。ん、わしは……なんの話を、してたっけ……?」
「……」
ああ、もう。そろそろ、限界なのか。
彼の命は、もう、消え去る寸前なのか。
ジャンゴはそれを悟り、できる限りの優しい表情を作って答えた。
「おれと、おまえは、ずっと……最高の友達同士だったって……そういう話だよ」
「……ああ。ああ、そうか、そうだったな……そうだ、とも。わしとおまえは……」
「おまえが、おれの最初の友でいてくれて、本当によかったよ。……ああ、これぐらいなら、素直に言える。おまえは、最初で最高の……永遠の友達だったぜ」
「……」
「おまえと出会って、おれはおれなりに、人間として生きてこれた。おまえのおかげで、この世界を綺麗だと、そう思えた。毎日が……楽しかったよ」
トニーは笑った。笑うことが出来た。
そこでようやく、ちゃんと顔を綻ばせて、温和な笑顔を作ることが出来た。
「トニー。最期に……なにか言いたいことは、まだあるか?」
「そう、だなぁ……まだたくさん、あるが……。ああ、そうだ……タバコ、くれるか」
ずっと禁煙していたはずのトニーが、タバコをせかむ。
彼が昔吸っていたのはソフトパックのラッキーストライクだったが、今ないものは仕方がない。
ジャンゴは、自分のマールボロを差し出すことにした。マールボロをソフトパックから一本取り出し、まず自分が口にくわえると、それに火をつける。
そして、火がついたマールボロをトニーの口に運び、くわえさせてやる。
すると、トニーは眠りにつくときのような浅い呼吸で、心底美味そうに最後のタバコを一服する。
ジャンゴも、彼とともにタバコを吸い始める。
いつだったか。こうして、ふたりで最後にタバコを吸ったのは。
「ああ……美味いなぁ……く、くくく、禁煙、破っちまったよ……」
「気にするな。好きなだけ、吸えよ」
「……もう少しだけ……」
「ああ」
「もう、少しだけ……見たかったなぁ。この世界を──」
ジャンゴやベル、そしてカグヤと生きるこの世界を。
そして、叶うことなら。
こんな狂った世界がいつか……。
いつか……。
「……」
トニーは目を瞑り、眠るように穏やかな顔でいた。
ジャンゴはそんな彼に寄り添い、静かにタバコを吸い、そして煙を吐き出す。
「……恋しくなるな、おまえの味の悪いメシが」
ぽつりと呟くと同時に、トニーが口にくわえていたタバコが、床に落ちた。
「眠れ、今は──そして、いつか」
ジャンゴは顔を上げて、登りゆく煙を見つめながらつぶやいた。
この煙が、天へと還るトニーの魂を導くものと思って。どうか、どこまでも高く昇ってゆけ。おれの友を、安らかな眠りの訪れる地へと運んでゆけ。
「いつかまた、会おう。それまで、長いお別れだ」
──人はいつしか、寿命で死ぬ。
トニーは、寿命で死ぬべきだった。こんなふうに、無念のうちに死ぬべき人間ではなかった。
ジャンゴは、いつか来るはずの彼の終わりに立ち会うと決めていた。
死ねない存在であるがゆえ、それが彼の友として短い時間をともに生きてきた自分のせめてもの務めだと思っていた。
だが、それは望んだ形では叶わなかった。まだ道半ばで、彼を失い……後に残ったのは……。
「トニーさんっ!今、戻り……まし、た……」
そこへ、カグヤが戻ってきた。
彼女は突きつけられたその光景に愕然とし、言葉を失って……持ってきた救急箱と水を力なく落とした。
「そんな……ウソ、ですよね……」
ジャンゴはなにも言わなかった。
黙って立ち上がると、トニーの死体をその場に残して、一歩、また一歩、ゆっくりと踏みしめるように歩き出す。
「あ、あぁ……あぁ……!」
震え、カグヤは腕を抱き、悲鳴を上げて泣き叫び始める。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
また、身近な人を……失ってしまった。わたしのせいで。
わたしが、わたしが……!
「……カグヤ」
ジャンゴは、嗚咽を漏らすカグヤの前に立つ。
「逃げたければ、逃げてもいい」
あまりにも穏やかな口調で、彼は言った。
カグヤはその提示された選択肢に、身を強ばらせた。
逃げ、る。
その言葉が、今までよりもずっと、深く自分の胸を抉った。
「無理強いは、しない。おまえが、また、誰かを失うこの結果に耐えられないのなら、それでもいい」
「……でも、わたし、が……わたしが行かないと、ベルさんが」
「それも結局は、逃げるうちのひとつだ。おまえはまだ、自分を捨てる選択を選ぼうとしてる。だが、いつか言ったように。おまえが、あの日、おれに付いてくることを決めたときのように。もう逃げないと……生きるために、戦うと……その気持ちが、まだ残っているのなら。おまえは、もう一度おれの手をとれ。ベルを取り返すために」
カグヤは差し出されたジャンゴの手を見た。赤い手。トニーの血に真っ赤に染め上げられた、その手を。
カグヤは思う。
彼はいったい、どんな気持ちで、いるのだろう。
きっと彼だって……いや、彼の方がずっとずっと、辛いはずなのだ。
トニーを、最大の友を失い……彼は、まだ。真祖グレイゴーストではなくひとりの人間、ジョン……ジョナサン・ゴールドグレイヴでいられるのか。
カグヤは目線を手から彼の碧眼に移す。
彼の瞳は、今までと変わっていなかった。これまでずっと見てきた、惹き付けられた、あの穏やかな瞳。
人間ではなくとも、誰よりも人間らしいとさえ思う、綺麗な瞳。悲しみを称えながらも、決意を秘めた瞳。
「……わたしは」
別離がどれほどの痛みを伴うのかは、カグヤもよく知っている。永遠に癒えない傷を、爪痕を残し、後に残ったものはそれを背負って生き続けねばならない。
そうだ。
人の死とは。
これから先を、生きていくための理由なのだ。
死んだ人間の命は、それで終わりではない。まだ生きている者が背負い、繋いでいく……どこまでも。
そうだ。生きるということは、戦うということだ。
トニーが死に、後に残された彼が、わたしが……すべきことは、戦うことだ。
命を背負い、その分まで、生きて戦う。誰のためでもなく、他でもない、自分自身のために。
それが……彼が教えてくれた、エゴの形。
「……すみません。お恥ずかしいところを、お見せしました」
カグヤは涙を拭うと、彼の手を取った。
「もう、大丈夫です。気の迷いは、なくなりました」
「ならいい。だが、念の為にもういちど忠告しておくが。どちらにしろ、その選択を選んだことは、間違いなく、いつかまたどこかで後悔することになるぞ」
「ええ。でも、後悔するために、戦うんです。そうでしょう?」
その静かな口調ながら力強い返事に、ジャンゴは鷹揚にうなずく。
カグヤは彼の手を握りしめ、自分の手も赤く濡らす。
これから先の道が、どれほど険しかろうと……それを受け入れるかのように。
彼とともに、血に濡れよう。
自分にできることは、限られている。だがそうだとしても……彼の苦痛を共有し、少しでも和らげ、また癒してみせる。
それが、彼とともに戦うと決めた、わたしの在り方だ。
「──ジャンゴさん。鉄血教会への連絡終わりました」
ジャンゴとカグヤのふたりは事務所側へと戻ると、まずは鉄血教会に現状報告を行った。
まだ協力関係を結んでいるわけではないが、〈教団〉絡みの件であれば、なんであれ報告をした方がいいとの判断だ。
ジャンゴの方は、当局の方に連絡を入れ、事務所の惨状の報告とトニーの遺体の処置を頼んだ。
トニーの遺体は今事務所のソファへと移されている。横たわらせるわけではなく、普段彼がここで座っていたときのように、腰かけさせて。
その姿を見て、まるでまだ彼が生きているように錯覚し、カグヤの胸が傷んだ。
「こっちも済んだ。……トニーの遺体は、鉄血教会側に任せるそうだ。あそこなら、広い墓地もあるし、警備も万全で荒らされる心配はそうないからな」
「この、事務所は?」
「もう放棄する。直そうにも、どの道老朽化してた建物だ。名残惜しいが、これ以上は残していても仕方がない」
「そう、ですか」
ふとカグヤは床に投げ出された観葉植物、通称リーちゃんの無惨な姿を見つけて、すくい上げた。鉢植えに戻そうとも思ったが、元々入れられていた鉢植えは粉々に割れていて、戻しようがなかった。
「……そいつも、もういい。そこで、そっとしておいてやってくれ」
「わかりました……」
ジャンゴとカグヤは事務所を出る準備を整え終える。
荷物は特にない。持っていこうにも、ほとんどがクラウスの手により破壊され、使い物にならない状態だった。
だが、その中でもただひとつ、持っていくものがあった。
それは、写真。
写真立ての中に収まっていた、この前に四人で揃って集合写真を撮ったときの、一枚だ。
ジャンゴはカグヤとともに事務所を出る直前、立ち止まり、その写真にふと目を落とした。その中に移る、ソファのもと集まる四人の姿を見つめる。
それから、何気なく振り返り事務所に残されたズタズタになったソファを見た。
「……」
そこに、トニーがいるように見えた。
そこに、ベルがいるように見えた。
そしてそこに、カグヤが加わって。
最後に、自分が引っ張り出されてくる。
それは、記憶の残滓。
在りし日の、想い出の欠片。
人間として今日まで生きてきた、日常への未練。
「トニー」
ジャンゴは、幻影に向けて声をかけた。
すると、不思議なことに、その幻影はこちらを見た。
彼は穏やかに笑い、口を動かした。声は聞こえない。だが、なんと言ったのかはわかる。
ジャンゴは言葉を返す。いつも、そうして来たように。
「ああ──行ってくるぜ」




