THE MAN WITH NO NAME
……己が怪物に変わり果てたときのことは、今でも忘れようがなく、鮮明に覚えている。
とは言っても、産まれた時からすでに自分はヒトという種族ではなかったのだが。
その事実こそが、そもそもの自分を歪めたひとつの原因だったことは間違いないだろう。
──なぜ、ヒトとして産まれなかったのか。
誰がヒトならざる者として産んでくれと頼んだ?いったいおれが、いつなにを望んだというのだ。
──なぜ、ヒトではないというだけで、周りから蔑まれなくてはならなかったのか?
自分から望んだわけでもないというのに、なぜそんな風に他者から迫害されなくてはならない?種族が、生まれ持った力が違うことのなにが問題になる?なにが気に食わない?
──そしてなぜ、おれのことを生み出した創造主は、おれを捨てたのだ?
おかげでおれはいるはずの親の顔がわからず、自分の名前さえ知らない名無しだった。
産まれた時からひとりで、自分自身さえも他人のような気分だった。
なぜ。なぜ、なぜ。
常に疑問を抱え、泥を這い進み喰らいながら無様に生き続けていた。
なにをすればいいのかわからずに。
誰を信じればいいのかわからずに。
誰を恨めばいいのかわからずに。
そうやって、無為に生き、荒野を歩いた。
何度も自ら命を絶とうと試みた。
ナイフで首をかっきり、高所から飛び降り、鏃に心臓を穿たせた。
だが、無駄だった。
自分は、死ねない──その事実がどうしようもなく無情にも叩きつけられ、自覚させられた。
切った首の傷はみるみる塞がり、血はやがて止まる。飛び降りて体を地面にしたたかぶつけても、激痛が走るだけで折れ、砕けた骨はすぐに再生してしまう。心臓を貫こうが、何事も無かったかのように動きを続ける。
絶望した。
こんなことが、あるのか、と。
だがそのときは、まざまざと感じる絶望感に泣くことも、感情に任せて叫ぶこともしなかった。そうすることを思いつかなかったのだ。なにも、知らなかったからだ。
だから、あのときは……ただ降りしきる雨に打たれたのを覚えている。すべてに無気力になって、歩くことすら、一歩前に足を踏み出すことすら億劫になったのだ。
……そうして、自殺が無理だとわかったおれは、その場でただ立ち止まり、もうなにもしないことを決めたのだ。
その中で、何度も何度も、同じ疑問を抱え続け、答えの出ぬまま飽きずに悩み続けた。
──おれは、だれなんだ?
──おれはいったい、何者なんだ?
──ヒトでなければ、なんだというのだ?
そうしておれは、堂々巡りの思考を絶え間なく考えた。
来る日も来る日も、その場で照りつける日に晒され、吹き荒ぶ風に打たれ、雨に全身を濡らして……。
一週間か、一ヶ月か。それとも、一年か。いや、それよりもずっと長い間なのか……おれは虚ろに考え続け、やがてぽつりと漏らした。
助けを求めるように。
「……教えてくれよ。おれは、なんなんだ」
そのときだった。
彼女が、おれの目の前に現れたのは。
「──探したわよ、わたしの……最後の希望」
金色の長髪を風になびかせる彼女は、呆然と立ち尽くしていたおれに突然そんな意味不明なことを言った。
顔を上げて、もっとよく彼女の顔を見る。
引き込まれるような、空色の瞳。まるで雲ひとつない青空を切り取ってはめ込んだかのように透き通り、鮮やかな瞳だ。
キリッとした洗練された美しさを持つその顔立ちは、彼女の持つ気品と意志の強さを物語り、それがより一層彼女の美貌を引き立てていた。
「……おれを、探してた?」
「ええ、そうよ。長いことずーっと探してたんだから。わたしにはキミが必要だもの」
「おれが……必要」
「キミがわたしに力を貸してくれれば、百人力よ。これでようやく、わたしの夢が、理想が実現できるわ。ホントにもう、夢みたい」
「……」
「うわぁ、すごい顔。そんな不機嫌そうな顔してたらダメダメ。ほらほらー、笑って笑ってー!スマーイル!」
「……いきなり笑えとか無茶言うなよ、なんなんだあんた」
彼女は手本を見せるとともに、この念願叶った出会いに喜びを露わにして屈託のない満面の笑みを浮かべる。
こちらとしては、なぜ、自分と会ったことで……自分のような薄汚い人外を見つけ出したことだけでそんなに嬉しがれるのかまるで理解はできなかった。
だが……。
夢、それに理想、か。
そんな言葉、初めて聞くような気がする。しかしながら、どこか魅力的な、甘美なものを感じる言葉だった。
その新鮮な感覚をもたらしてくれる言葉と、彼女の底なしに明るい態度に虚ろになっていた心が目前の彼女への興味によって少しずつ熱を伴って蘇ってくる。
「あんた、何者なんだ?」
初めて、他人を知りたいと思った。
自分のことさえ知らない男が。今最も知りたいのは、己のことであるはずなのに。
それを差し置いてでも、目の前の彼女のことを、知りたいと思った。
「わたし?わたしは、んー……そうね、〈ドクター〉かな」
「ドクター?」
「そ。わたしを知る人は、みんなそう呼ぶのです」
ふふん。と、得意げに彼女は胸を張って言う。
「なんの、医者なんだ?」
「え?うーん、と……」
なぜか悩むような素振りを見せて、〈ドクター〉と名乗る彼女はしばらく顎に手を添えて黙考する。
それから、「ああ」と声を上げる。
〈ドクター〉は正面から嘘偽りのない純粋な眼差しを湛えて見据え、誇るように言い放つ。
「わたしはね、少年。この世界の医者よ」
茜色に染まった世界の中、より一層輝きを増した彼女の髪が、きらきらと光を振りまいた。
おれはそれに目を奪われ……いつまでも目が離せないほどに、魅了された。
「……ん」
──そこで、ジャンゴは目を覚ました。
懐かしい夢を、見た。
幾つもの忌々しい過去の中にあっても、ただひとつ、未だに美化され続けて色褪せない、かけがえのない想い出。
こんな夢を見るとは、我ながら相当参っているな……。
ジャンゴはそう思い、自嘲気味に笑……おうとした。
彼はそこでささいな違和感を覚えた。
弱っているなら、もっと己を責め立てるような夢を見るものではないだろうか。
それに……妙に落ち着くこの感覚は……。
ジャンゴはまだ鉛のように重くのしかかる眠気に抗いながら、身を小さく動かして、今の状態を確認する。
「……なにしてんだ、おまえ」
ジャンゴは、今自分がどういう状態にあるのかを知り困惑する。
「ええと……」睨まれ、ムスッとした口調で指摘されてカグヤは言葉を探す。「お、おはようございます」
どういうわけか。
カグヤの膝に、ジャンゴは頭を預けていた。
つまり、今ジャンゴはカグヤに膝枕をされている状態にあったのだ。
……あの忌まわしい鉄血教会から逃げるように去ってから、およそ四時間が経過している。
今ジャンゴとカグヤが乗っている積層都市間を移動するリニアモーターカー、〈エジソン〉は終電の列車だ。
時間の経過はおそろしく早いもので、もうすっかり世界には不安を煽るような暗黒の夜が訪れていた。
といっても、イストラカンの街は普段から太陽がほとんど見えない街なので、朝だろうが昼間だろうが夜だろうが関係なく暗いので、時間の流れなどまるでわからないのだが。
「……どういうつもりだ?あのクソガキに散々人の過去をほじくり回されて情けない姿を晒して……それでおれのことを憐れんでるのか?」
ジャンゴは卑屈な言葉を不機嫌そうに言いながらも、まだ倦怠感があるのか体を起こそうとはせず、膝枕の状態のままカグヤを見上げて尋ねる。
「……その」
カグヤは再び言葉を探して、彼の機嫌を逆撫でしないように、これ以上苦しめるようなことのないように努めようとする。
「こうすると、落ち着くと、思いましたから」
訥々と、語り聞かせるように彼女は答えた。それが、カグヤの思いつく精一杯の答えだった。
ただ、そうしたかった。そうしないと、いけないと思った。理由と言える理由はなく、衝動に駆られて行った、それだけなのだ。
カグヤはそっと触れるように優しい手つきでジャンゴのダークブロンドのくすんだ金髪を撫でる。
まるで、自分よりも小さい子供にするかのように、穏やかに。
「……そうかよ」
ジャンゴはぶっきらぼうに言いつつも、それを拒みはしなかった。嫌がる素振りもなく、それを受け入れる。
彼は腕を顔に置き、両目を隠すようにして視覚を遮断した。
「どれぐらい、寝てた」
「そうですね……一時間、いえ四十五分ぐらいでしょうか。列車に乗って、すぐに……五分ぐらいで寝てしまいましたね。ひどく、おつかれでしたからね」
「……なるほど。そんなもんか。……待て。おいカグヤ」
「ど、どうしました?」
ジャンゴはわずかに腕をよけ、その鋭い目付きを覗かせてカグヤを睨む。
「おまえ、おれの正面に座ってなかったか。座ってたよな、ああ座ってた絶対に」
「……え、ええと」
「わざわざ、膝枕するためだけにおれの隣に移ったのか?しかも、寝てるおれの頭を勝手に膝に置いたのか?」
「……それは、そのー……あはは」
カグヤは目を泳がせ、気まずそうにする。
どうやら、図星らしかった。
ジャンゴは呆れた、といった具合にため息をつき、腕の位置を戻してまた両目に蓋をした。
「物好きなやつだ……」
「ごめんなさい……。出過ぎた真似をして」
「……だからいちいち謝るな、バカ」
「あ、う、すみま……。……」
しゅんと落ち込むカグヤに、ジャンゴは「もういい、俺が悪かった」と呟くようにフォローする。
それから、体をわずかに動かして、頭の位置を調整した。
他人に甘えたがらない性分の彼だが、今回は特別のようで、大人しく彼女の厚意に身を預けている。
そんな彼に、カグヤは心配そうに尋ねる。
「あの、少しは、落ち着けました?」
「……どうだかな」相変わらず、口は素直にはならない。だが、付け足すように、やや躊躇いがちに答える。「まぁ……少なくとも、悪い夢は見ずにすんだ」
「そうですか。なら……よかったです」
「……」
くすりと柔らかく笑うカグヤ。
ジャンゴはしばらくその静謐な空気に身と心を委ね、ひととき悪夢を忘れて休息をとる。
そして彼は、「なぁ」と囁くように言った。
「少しだけ……ひとりごとに付き合ってくれるか」
「ひとりごと、ですか?」
「そうだ。だから反応は返さなくていい」
「ええと、はい。あなたが話したいのなら……構いませんよ」
カグヤの了承を得て、まず深呼吸をひとつしてからジャンゴは話を始めた。
「産まれた時……おれには家族がいなかった。誰が産んだかもわからない。おれを生み出すだけ生み出して捨てやがった親の顔なんざ知らず、最初っからひとりぼっちで……自分の名前も、どこで産まれたのかも知らなかった。物心ついたときにはもう、ひとりで荒野と泥のクソみてぇな世界の中でさ迷っていた」
過去を思い出しながら話す、というよりは引き出しの中にしまい込んでいたものを取り出して話すという感覚があった。
彼にとっては、遠い過去の記憶は昨日のことのように間近なもので、鮮明なものなのだ。
「ただひとつわかってたのは、産まれた時からすでにおれは……周りとは、ヒトとは違ったってことだ。バカみたいな力が、昔からあった。ひとを簡単に捻り潰す……言葉通りに、だ。そんな力があった。誰もがおれを恐れ、怪物扱いした。おれがそうなりたいと思ったわけでもないってのにな。まったく、わけがわからなかった」
ジャンゴは己の掌を見つめ、握り、開く動作を繰り返した。確かめるように。
「自分がなんでヒトと違うのか、何者なのかわからずに。理解者もなく、誰を頼りにすればいいのかもわからず、なにをして生きていきゃいいのかわからずに。おれは当てもなく歩き続けて放浪して……やがてやめた。バカらしくなってな。そうして絶望して……立ち止まっていた。そんなときだ。あいつに、彼女に会ったのは」
ジャンゴは想いを馳せるように目を細める。
「〈ドクター〉って名乗る、怪しい女だ。そいつは、おれに会うやいなや、ようやく見つけた、やっと会えただの嬉しそうにはしゃいだ。……それが、おれには理解できなくてまるで意味不明で……だってのに、どこか嬉しかった。ようやく、おれを知ってくれる人間に、おれを必要としてくれる人間に会えたんだってな」
ふと、ジャンゴの顔を照らすように月の光が射し込んだ。〈エジソン〉の車窓ディスプレイが映し出す、映像の中の月の光だ。
金色に輝く美しい満月が、彼を優しく見つめていた。
〈ドクター〉と名乗ったというその女性……セシリアが話すところによれば、グレイゴーストである彼を眷属として従えたという女性だ。
おそらくは、普通の人間ではないのだろう。いや、人間かどうかも怪しい……。
彼女もまた、悪魔のひとりなのか……。カグヤは考えを巡らせたが、すぐにやめた。
今は彼が話したいことを話してもらい、それを知るだけでいい。話したくない情報を聞くのは、よくないことだ。
「彼女に、自分が何者かを教わった。おれが悪魔の一種で、しかもその中でもイレギュラー。〈災厄の獣〉だとかなんだってな。それから彼女はおれに手を差し伸べてこう言った。一緒に悪魔を全滅させましょう。この世界を、人類を救うために……ってな。世界を救うだとか、そんなことには欠片も興味なんかなかったが……おれは彼女について行くことに決めた。復讐をするためにな」
静かに語るジャンゴの声とともに、さざめく波の音がよく聞こえた。外の景色には黒く光る海が映し出されていた。
「彼女とともに旅をした。彼女は、おれに力をくれた。おれを捨てた親を追って、探し出して息の根を止めるための力を。おれの親は……親と呼べる存在も当然っちゃあ当然だが悪魔だった。そいつは、ちょうど〈ドクター〉が追っている悪魔で徒党を組んだ組織の幹部だった。だから、おれは喜んでそいつの手下や行方を知る木っ端の悪魔も皆殺しにした」
くつくつと、ジャンゴは乾いた笑い声を上げる。
その笑いは、カグヤにはひどく痛々しいものに見えた。
「楽しかったぜ。気に食わないヤツらを殺す度に、胸がスカッとしたからな。憎ったらしい親の企みを潰して、悔しがらせることが出来るっていうのも、最高だったよ。それに、〈ドクター〉はおれの殺戮を褒めてくれた。おれと〈ドクター〉のやろうとしてることは一緒で、ただ最終的な目的が違うだけだったしな。まぁ、利害の一致みたいな関係だった。けどな、彼女はおれを単なる都合のいい道具にはしなかった。優しく接してくれたし、ゆく先々でたくさんバカをやったり、遊んだりもした」
「……そうしているうちに」そこでふと、ジャンゴは声のトーンを落とした。
「おれは彼女のことを……特別に思うようになった。おれは彼女を、姉さんと呼ぶようになった」
カグヤはそこで、ジャンゴの発言を思い出した。
カグヤが〈ヨミ〉に存在するかつての居住で追っ手が来るのを待っていたときに、ジャンゴがやって来た、あのとき。
自分が身の上話をするのに合わせて、彼も自分のことを話してくれた。
自分にも、姉弟がいると。自分の方が、弟だったと。
その姉が……〈ドクター〉のことだったのか。
彼を今、最も苦しめている要因になっている存在……。
「その、姉さんが」
ジャンゴは口に出すのを躊躇いながらも、観念するように思い切って言った。
「……おまえに、よく似ているんだ」
「え……」
思いがけない発言に、カグヤは困惑した。
自分が……彼の、大切な人に?
だが、そう聞いて腑に落ちることが多くある。
彼と会った時から、自分を見る目に不思議な感情が混じっていたのをカグヤは感じ取っていた。
初めから、他人を見る目ではなく。
信じられないようなものを見る目をしていたこともある。
また、どう接すればいいのかわからないような、探るような目をしていたこともある。
同時に、まるで腫れ物でも見るかのように、恨めしく刺々しい視線を感じることもあった。
そして……どこか、縋るような目をしていたことも、あった。
その理由は……そういうことだったのか。
彼は、いつか失ってしまった女性と自分とを、ずっと……重ね合わせていたのだ。
(でも、それは……)
カグヤはふと、彼に対してモヤモヤとしたものを覚えた。
それがなんなのかはわからなかった。初めて知る、得体の知れない感覚だった。
だから、無視した。無視することにした。今は彼の話を聞くべきだ……そう言い聞かせて。
「似てる、と言っても……姉さんと、おまえとは全然似ても似つかない。髪の色は金色だったし、髪型だって違う。目の色も違えば、佇まいも、雰囲気も……おまえさんみたく、ジメジメしちゃいない。容姿もまるで違う。性格も明るかった。けどな……それでも、おまえが〈ドクター〉とそっくりだと思っちまうんだよ」
カグヤは彼の発言に、イストラカンへ向かう道中での〈エジソン〉に乗っていた時に問いただされたことを思い出した。
彼は、しつこいほどに確かめてきた。
自分に家族や姉妹はいないのか。子供はいるのか、などと。
彼は、自分がその〈ドクター〉という女性となんらかの関係があるのではないかと疑っていたのだ。
「ふっ……迷惑な話だな。引いたか?」
「いえ、そんなことは……。あの、ジャンゴさん。ちなみにその〈ドクター〉さんは……なんていう名前ですか?」
「……メルセデス。メルセデス・セラ」
「……ごめんなさい。やっぱり、知らない方です」
「そうか。……そうだろうよ」
ジャンゴは笑った。疑いが晴れて、安心したように。あるいは、寂しそうに。
「セシリア・クラウディウスは、おれが彼女を……姉さんを失ったって話をしてたろ」
「そう、言ってましたね」
「あれは間違いだ。いや、半分正解ってとこだな。姉さんは……いいや。おれは、彼女を裏切ったんだ」
「え……?」
「……〈リフレイン〉のあったあの日。おれは、彼女から聞かされた話に、姉さんを許せなくなった。今までの復讐をすべて踏みにじられたし、自分自身があまりにも虚しくなった。今までの行いに思い悩んだ」
いったいどんな理由があったのか。
唐突に、それだけ想い慕っていた彼女を裏切るなどと。
だが、彼は重要な部分はぼかして話す。
その要因について詳しく聞きたいところだが、それを聞くのは……出過ぎた真似だ。
そう思い、カグヤはそれを追求することはしなかった。
「そのとき、こう聞かれた。これからもわたしについてこないかと。だがおれはそれを……断った。拒んだ。彼女を、選ばなかった」
「……それを、後悔してるんですか?」
「ああ」彼は虚ろな笑みを浮かべる。「ずっと、悔いてる。それでよかったとも思いながら。ただな……もし、そのとき彼女を選んでいたとしても……それも後悔していただろうけどな」
「……」
「痛感したよ。おれは、どこまでも……自分のためにしか生きられないんだ。あのときおれは……姉さんと自分を天秤にかけて結局、自分を選んだ。彼女ではなく、おれを守ろうとした。まったく、自分勝手で、どうしようもないエゴイストだな」
最低なヤツだろ、おれは。
ジャンゴは自嘲気味に言って、弱々しい表情を露わにした。捨てられ、雨に打たれた子犬のような表情だった。
カグヤはそんな彼の様子に、また強く胸を締め付けられた。
「……だから。彼女がいない今、おれはグレイゴーストになれなくなった。なりたくなくなった。おれはそれまでのすべてを捨てて、人間のフリをして生きることにした。まぁ……それも陳腐なごっこ遊びだったがな」
ごっこ遊び。
セシリアも、彼の現状に対してそう表現していた。それはあまりにも、悲痛な言葉……。
「それから五十年は、過去の自分を封印して……人間らしく、振る舞ってきた。振る舞ってきたつもりたった。だが……そんな中でどうしても、自分が、グレイゴーストのおれが……顔を覗かせてくる。この前、おまえに手を貸して連中を皆殺しにしたときもそうだ」
ジャンゴは歪んだ笑みを浮かべる。
……しかし、それは笑みというよりは、泣きたいのに泣くことが出来ない……そんな表情にカグヤには見えていた。
「あのとき。楽しかったんだ。銃を手に取って、人の命を奪う。それが最高に楽しかった。おれは……戦っているときは、生きている実感が湧くんだ」
彼は笑みを浮かべながらも、その口調には己の罪を自白するかのような苦しげなものがあった。
「いつもわからなくなる。結局……おれはどっちなんだろうな。ベルやトニーと平穏な日々に満足しているジャンゴっていう人間なのか。それともやはり、グレイゴーストなんていう殺戮を楽しむイカれた怪物なのか。おれは……いったい、誰なんだろうな」
そう自問するジャンゴ。おそらく……いや間違いなく、彼はこれまでなんどもその問いを続けていたのだろう。
ずっと、ひとりで悩み続けていたのだろう。
それを今ようやく、外に……他人に対して露わにしている。
そして……カグヤは、その問いに対し、
「……どちらでも、いいじゃないですか」
我慢ならなくなって、彼女なりの答えを口にした。
「わたしは……あなたが誰でもいいです。グレイゴーストでも、ジャンゴでも」
「……それは、おまえがグレイゴーストのおれを知らないからだ。そうでなくても、散々聞いたろ。おれは、血も涙もない復讐鬼だ。虐殺者だ」
「そうかもしれません。でもわたしは……あなたがどんな人間なのかぐらいは、知ってます。この短い間でも」
「……」
「あなたは、塞ぎ込んでいたわたしを勇気づけてくれた。見捨てずに、手を貸してくれた。暗闇の中から、もう一度立ち上がる力をくれた」
カグヤは、溜まりに溜まった思いの丈を吐き出す。
「そんなあなたが……優しい人間でないはずがないんです。たとえそれが、自分のためにやったこと、わたしをお姉さんに重ね合わせた故の自己満足だとしても。わたしは、わたしが見たあなたしか知らない。でも、それで十分だと思っています。わたしの知っているジャンゴさんは、優しいひとです」
「だが、おれは」
「黙っててください、今大事な話をしてます」
「……はい」
急に強気になって、カグヤはジャンゴの反論を制する。
おそらくは、ジャンゴと出会う前……ひとりの姉として過ごしていたときの性格なのだろう。
その話し方は、まるで説教をするようなものがあった。
それはそれとして、こいつ、意外といい性格をしてるんだな……とジャンゴは思ったが。
「もし、あなたがわたしを〈ヨミ〉から連れ出してくれたあのとき……グレイゴーストのあなたとして現れていたとしても。わたしはあなたを優しいひとだと思ったはずです。あなたが、誰であろうと……悪人であろうとも。わたしはあなたを信じていた」
「……」
「わたしは、わたしがこの目で見ているあなたを信じてるんです。ジャンゴさんでも、グレイゴーストでもなくて、あなたを、です。そこに名前なんて、どうでもいいんです。あなたがあなただから……ジャンゴも、ジョナサン・ゴールドグレイヴも、グレイゴーストも、それはみんな、あなたなんです。きっとベルさんもトニーさんもそう思ってるはずです」
「……おれが、おれだから、か」
「ええ、そうです。さっき、言いましたけど……だからわたしは、あなたが誰でもいいと思ってます。ジャンゴさんでも、悪魔のグレイゴーストでも。そのどちらでも。あるいは……それ以外の、誰かでも。あなたが誰でもないのなら……逆に、誰にでもなれるはずですよ」
カグヤのその助言にジャンゴはハッとして、驚きを露わにする。
誰でもない無名ならば。自分は誰にでも、何にでもなれる。
そんなこと、まるで考えもしなかった。
産まれた時の境遇と、〈ドクター〉から受けたある種の呪いのような扱いから、そんな発想は今まで一度たりとも湧いてこなかった。
「とにかく。もし、そのグレイゴーストにあなたがまたなってしまったとしても……そのとき、あなたはもうジャンゴでいられなくなるんですか?少なくとも、わたしはそうは思いませんよ」
「つまり、おれは……」
ジャンゴはカグヤの顔を見上げて、彼女のかけるメガネの奥、その瞳の中に映り込む自分の姿を見る。
そこにいるのは、おれだ。
他の誰でもない。ジャンゴで、グレイゴーストで。そして……その両方だ。
「おれは。ジャンゴでいながら、グレイゴーストでいてもいい……そういうわけか」
「ええ、そうですよ」
「……そうか。そうか。ああ、まったく……なんでそんな簡単なこと、今の今まで、思いつかなかったんだろうな」
誰でもいい。
その言葉が、男の胸の中に強く響き、そのまま染み渡るように溶け込んだ。
……おれは、誰でもない。
ならば──誰にでもなれる。
ジャンゴにも。ジョナサンにも。グレイゴーストにも。
それを理解したそのとき、カチャリと、鍵が外れたような音が聞こえた。
それは、自分の中でずっと抑え込まれていた怪物が解き放たれた音だった。だがそれは同時に、人間としての自分が形作られて、ようやく組み合わさった音でもあった。
今までは自分を偽り、封じ込め、知らん顔をして、己を殺し続けてきた。
だが、もう、それは終わりだ。
では、おれは誰だ。
おれは、おれにしかなれない。
ならば、おれはおれだ。
おれはジャンゴであり、ジョナサンであり、グレイゴーストであり、同時にそのどれでもない。
「……ありがとう、カグヤ」
長きに渡る苦悩の問いに対する答えは得た。
おれは、これからも|名前のない男《The Man With No Name》だ。
それで、いいんだ。
「なあ」
「なんですか?」
「もう少し、このままでいいか」
ジャンゴは憑き物がすっかり落ちた、穏やかな顔をして尋ねた。
「おまえの膝、寝心地がいい。サン・ミゲルに着くまで、膝を借りるぞ。文句は言わせない」
その尊大でぶっきらぼうな物言いが照れ隠しであることと、彼がようやく自分に対して心を開いてくれたことを理解して、カグヤは思わず微笑んだ。
カグヤは彼の髪を優しく撫でながら、囁くように言った。
「ええ、どうぞ。おやすみなさい、ジャンゴさん」




