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GLAY GHOST 〜赫焉のジャンゴ  作者: DDDog
ただ一欠片の人間性のために
23/31

そして、雨が降る

「グレイゴースト。彼は二百年も前から戦い続けていた存在です。復讐の化身として、悪魔を殺す悪魔として。それが〈災厄の獣(カラミティ・ビースト)〉。666体存在する悪魔の中から新たに生まれた、本来存在するはずがない667体目の番外の悪魔……有り得ざる者(イレギュラー・スコア)


 セシリアの透き通るような静かな声が、グレイゴーストについての詳細をカグヤに、そしてジャンゴ自身に己がなんであるかを再認識させようと無慈悲に語り始める。


不死者(イモータル)であるがゆえに、半永久的な不老不死であり、悪魔殺しの特別な力を持って生まれた彼は並の悪魔を遥かに超越した力を有しています。その力を扱い、当時から鉄血教会の支援を受けながら人類に仇なす敵、悪魔と戦ってきた。最終的に彼がその手にかけた悪魔の数は五百体か、六百体だと言われています。それだけの数を、ほとんどただひとりで屠り続けた。まさに、歴戦の英雄、といったところですね。素晴らしいですわ。誠に素晴らしいです。本当に、感服いたします」


 彼の行いを賞賛して、セシリアは拍手をぱちぱちとする。小気味よい音が礼拝堂によく響いた。

 しかし、当のジャンゴは当然ながらまるで喜ぶことはない。むしろ、それを、自身の過去の行いを嫌悪し唾棄するかのようにわなわなと震え、拳を握り込む。


「復讐者の先輩として、尊敬していますのよ?ひとつのきっかけからそれだけの相手に怒りと憎悪をぶつけ、虐殺の限りを尽くした。ええ、ええ。なんて素敵な行いでしょうか?彼こそ、真の悪魔です。悪魔を越えた、悪魔。それがグレイゴースト。犠牲となった無辜のひとびとの無念を晴らす、アウトロー──」

「やめろ!」


 ついに、我慢の限界を迎えたジャンゴが悲鳴をあげるように震えた声で叫んだ。


「……もう、やめろ。充分だ」

「あら、そうですか」


 セシリアはジャンゴに怒鳴られたにも関わらず、飄々としてくすくすと笑う。

 自分の正体と所業をセシリアにより語り聞かされたことでさらに追い込まれたジャンゴは、数時間前よりもより一層弱り果てたように見える。

 実際、セシリアはそれが狙いであり、彼の逃げ場をなくすことで腑抜けた彼をかつての冷酷無比なグレイゴーストとして覚醒させようと発破をかけていた。

 そんなどんどん弱っていくジャンゴの姿がまるで見ていられず、カグヤは胸が締め付けられもどかしい気持ちを感じてしまう。


「……なんなんだ、おまえは。そうやっておれをいたぶって……おれになにを望んでる?おれをどうしようってんだ」

「あら、それは先程から仰ってるじゃありませんか。同じこと、何度も言わせないでくださいな」


 唸るようなジャンゴの問いに、セシリアはふぅ、と億劫そうな反応を示す。


「まぁ、いいですけれど。それではグレイゴースト。改めてお願い申し上げますわ。わたくしたち鉄血教会に今一度力を貸してくださいな。あなたが手を貸してくれれば、百人力ですもの。〈フロンティア・セクト〉を打倒するのも、今危険が高まりつつある新勢力、〈教団〉を早急に潰すのにも」

「〈教団〉……?」


 その単語にカグヤは敏感に反応した。

 今、彼女は〈教団〉と言ったのか。

 それはカグヤにとって忘れもしない名前だ。自分のことを追い回し、捉えようとしていたあの組織。

 その存在は……〈フロンティア・セクト〉と繋がっている?

 カグヤはそう思い至り、自分に降りかかっている危険が想像以上に強大なものだという事実に改めて戦慄し、恐怖した。


「セシリア・クラウディウス」


 ジャンゴは静かながら、怒りの籠った声を上げて目前に妖しく佇む魔女を睨む。


「おれの力が借りたいって言ったな。別にそれはいいさ。銃を取って、敵を殺して回るなんざ、容易いことだ。幾らでも構わない。けどな……グレイゴーストのおれを望むなら、それには応えられないな」

「あら、それはなぜ?」


 散々拒否反応を示していたにも関わらず、セシリアは本当に不思議そうに小首を傾げる。

 ジャンゴは心の丈を絞り出すように震えた声で話す。


「おまえさんがどんなに望もうと……おれは……おれはもうグレイゴーストじゃない。そんなものに、もうなれはしない。おれには、おれには……もう」

「──()()がいない、から?」

「……!」


 セシリアは、穏やかに笑って彼にトドメの一言を放った。

 そのたったひとつの単語は、ジャンゴの心を……とことん逃げ場をなくして追いやるには、やつれていた心をへし折るのには、最大の威力を発揮した。


「ええ、そうでしょうとも。あなたは他の悪魔とは違って、〈災厄の獣〉という特別な悪魔。〈クイーン〉の寵愛を受け、彼女のために仕えることが使命の忠実な眷族ですものね」


 それは、ジャンゴにとって最も触れられたくはない禁忌の領域。それを口にされた瞬間、ジャンゴの体は反射的に動いていた。

 これ以上は許容できない。

 こいつを……殺す!

 後先を考えず、湧き起こる激しい衝動に従い、ジャンゴはその手を目の前に立つセシリアの、そのか細い首に伸ばす。首をへし折り、二度と口を聞けなくするために!

 だが……しかし。


「……!」


 ジャンゴの足がその場で縫い付けられたように止まる。

 彼の真横には、いつの間に現れたのか……いや、最初から待機していたのか、銃を構えた偉丈夫が立っていた。その男は、手に握る大型の自動拳銃、モーゼルミリタリーをジャンゴの側頭部にぴたりと微動だにせず突きつけている。


「ふふっ。ありがとうございます、わたくしの愛しいひと」


 セシリアは柔らかい笑顔で礼を告げる。

 深紅のカソックコートに身を包むその男は、「構わない」と短く言うと、鋭い目付きでジャンゴを刺すように睨み、言う。


「彼女に危害を加えることはオレが許さない」


 ジャンゴは横目でその男の左右で色の違う瞳を負けじと睨み返し、彼が何者であるかを瞬時に悟る。

 こいつだ。

 ここに来たときからひしひしと、忌まわしいほどに感じていた、自分と同族の……戦うためだけに研ぎ澄まされた、凶器のような禍々しい匂いを放つ存在は。

 ジャンゴはこの男の表情を観察しながら、彼がどれほど危うい相手であるかを吟味する。


(勝てる相手だ)


 この男は、決して弱敵ではない。戦えば、それ相応の痛手は受けるやもしれぬ。しかしながらジャンゴは、即座にそう判断した。

 戦えば、十中八九負けることはない。こいつを殺すことなど、力を失っている今でも造作もないことだ。


(……だが。ただ、()()()()()だ)


 そう。

 彼を相手にして戦い、殺し、続いてセシリアをくびり殺すのは彼にとって確かに造作もない。しかしその代わり……無力なカグヤを見捨てて、犠牲にすれば、だ。

 セシリアを手にかけようとすれば、この男は報復としてカグヤを殺す。この男を殺そうとすれば、セシリアはカグヤを戒めとして殺す。

 その最悪のビジョンが、ジャンゴには未来予知のようにハッキリと目に見えていた。

 それは人質を取られたも同然。

 この男を相手にして、カグヤを守りながら戦えば負けるだろう。逆を言えば、カグヤを見捨てれば勝てるだろう。

 それでは、ダメだ。

 失うわけにはいかない。彼女は……彼女を。今は……絶対に、死なせるわけにはいかない。

 ジャンゴは数秒でその結論を導き出すと、歯がゆい気持ちをこらえて、大人しくセシリアの暴露を受け入れざるを得なくなった。

 それは彼にとって、絞首台で死刑執行の瞬間を待ち受ける責め苦を選ぶに等しいものであった。

 セシリアはジャンゴのその苦渋の決断を見抜き、ほくそ笑むように一歩、一歩、また一歩とゆっくり青ざめるジャンゴに歩み寄る。


「話を続けましょうか、グレイゴースト。彼女がいない今、失ってしまった今……あなたは十全の力を発揮することは出来ない。そうでなくても、あなたにとって、彼女は生きるための糧。あなたのすべてでしたものね?あなたは彼女を失い、生きる意味、戦う意味をなくしてしまった」


 セシリアはついにジャンゴの目と鼻の先までに迫り、真正面から彼の顔、そして碧眼の瞳を覗き込む。そして、細く白い指先を伸ばし、ジャンゴの頬をなぞるように添える。

 それはまるで、か弱い獲物を冷酷な魔物が捕食するかのような仕草だった。


「そうしてあなたは失墜し、摩耗してすっかり腑抜けている。あなたは完全に名を失い、人間ごっこをする屍として今日も死んでいるように虚無的に生きている。うふふっ、惨めですね」

「おまえは……どこまで、知って……」

「さぁ?どこまででしょう。確かめてみますか?ひとつひとつ、あの日なにがあったのか語って聞かせて見てくださいな。それが知っていようといまいと、あなたの英雄譚、きっと聞いて飽きることはありませんと思いますもの」


 くすくすと笑うセシリアに対し、ジャンゴはすでに限界を迎え今にも崩れ落ちそうであった。

 内臓ごとぶちまけて吐き出しそうなほどの不快感と悪寒と、発狂しそうなほどの恐怖が苛み、地獄のただ中にいるような感覚が彼を容赦なく襲う。


「あなたに念を押してひとつだけ言っておきます。今のあなたがなんであれ、あなたがグレイゴーストである事実はどう足掻いても変わりようがありませんわ。あなたは、決して……己の正体と本質から目を逸らすことは許されないのです」


 そうだ。違う。その通りだ。いいや違う。

 おまえはグレイゴーストだ。違う。おまえはジャンゴという人間だ。違う。

 違う──違う、違う、違う違う違う!

 では……。


 ──おまえは、だれだ?名無し(ノーボディ)


「……おれは、おれは……っ」


 ダメだ。

 ダメだ。

 もう、立っていられない。

 心臓を掴まれているかのように胸が苦しく、荒い息を吐き出す。

 これまで名無しとして生きてきた。昔も、今も。

 それでいいと思っていた。それでよかったはずだった。

 彼女がそれを望んだから……それに疑いの余地なく従って……それがずっと、当たり前になっていた。

 名無しであることは、誰でもない復讐の亡霊であることは……今までずっと、自分という怪物を形成し、同時に人間のなり損ないとしての自分を守るためのカテゴリーだった。

 だが今、この瞬間では……それが、自分を滅ぼす諸刃の剣と化していた。

 ジャンゴは、混乱と罪悪と恐慌に押し潰され……ついに、その膝を折り──


「──やめなさい!」


 危うく無様に倒れかかったところで、ぴしゃりと凛とした声がその場に立ち込めた暗雲を払う。

 その声は、ジャンゴの体と心をすんでのところで支え、力を振り絞らせ起き上がらせる。

 この声は、知っている。よく、知っている。

 ジャンゴは顔を上げ、声の主を見る。


「……これ以上は、やめてください」


 ジャンゴが顔を上げた先にいたのは──カグヤだった。

 黙って話を聞くしかなかった彼女だったが、セシリアの暴露によって精神を摩耗させていくジャンゴの姿を見て、彼女は胸が締め付けられ、ついに耐えられなくなったのだ。


「ジャンゴさんを……これ以上苦しめないでください」


 ジャンゴは今、再びこのカグヤという女性に対して失ってしまった彼女の姿を重ね合わせてしまっていた。

 髪の色も、佇まいも、性格も……まるで違うと言うのに、カグヤは彼女によく似ていると感じてしまう。だが、カグヤはまったくの別人だ。そのはずなのだ。

 だが……ああ。なぜだ。

 どうして、こうまで。


「……カグヤ」


 ジャンゴは、やや呆然としてカグヤを見つめる。


「やめてくださいだなんて、どうして?あなたは彼のことを知りたくはありませんの?」

「……それを知る必要があるかどうかは、わたしが決めることです。それに、これはあなたが勝手に喋りだしたことじゃないですか」


 今のカグヤは、普段の弱々しい控えめな佇まいは消え失せており、別人のようにきっ、と鋭くセシリアを睨みつけていた。

 その目からは、彼女へ対する明らかな憤慨と嫌悪、そして侮蔑が見て取れた。

 それを察していながらも、セシリアはやはり表情を変えず、愉快そうににっこり笑っている。


「あなたは……ジャンゴさんを虐めて、それを楽しんでる。力を貸して欲しいだなんて言いながら、あなたは……クモの巣に捉えて自由を奪って彼を支配しようと企んでる。あなたのやっていることは懇願じゃない。洗脳、です」


 カグヤは込み上がる感情に従い、一歩前に踏み出る。


「ハッキリ言います。わたしはあなたが嫌いです。わたしに手を差し伸べてくれて、一緒に戦ってくれると言ってくれたジャンゴさんを……こんな風に追い詰めて、虐めるあなたが、わたしは大嫌いです!」


 カグヤは啖呵を切って、セシリアに明確な敵対意識をぶつける。

 そして彼女は邪悪に微笑むセシリアとジャンゴに銃を突きつける男をそれぞれ牽制するように睨んだ。

 そうして一拍置き、彼女は放心したように自分のことを見ていたジャンゴの手を強引に取り、「……行きましょう」彼を引っ張ってその場から離れようとする。

 ジャンゴはそのスラリとした長身の体格に関わらず、今はカグヤでさえ容易に手を引いて歩くことが出来るほど弛緩してしまっており、拍子抜けするほどにひどく軽かった。


「ジャンゴさん……大丈夫ですか」

「……ああ」


 そう答える彼の返事は弱々しい空返事で、明らかに上の空といった様子だった。

 カグヤは彼の手を握る自身の手にきゅっと力を加えて、せめてこれ以上自責に苛まれないよう彼を少しでも安心させようと試みる。

 そうしてふたりはゆっくりと礼拝堂の出入口の扉まで辿り着き、その大きく重々しい扉を開く。


「グレイゴースト」


 礼拝堂を出ようとしたそのとき、セシリアがジャンゴの背中越しに声をかけた。


「また、お会いしましょう」

「……」


 ジャンゴは答えなかった。その代わり、カグヤがセシリアの方を振り向き、今一度睨みつけてから、礼拝堂を出ていった。

 この場に、セシリアと神父姿の男が取り残された。

 セシリアは礼拝堂の扉が閉まるのを確認すると、ふぅ、と緊張を解くようにため息をつき、少し疲れたような顔をした。

 神父はモーゼルミリタリーをホルスターにしまうと、主であるセシリアの方を見る。彼女はそれを見つめ返し、柔らかく笑った。

 その笑顔は、これまで見せてきた妖しい魔女の笑みではなく、ひとりの少女が見せるなんの影もない純粋な笑顔だった。


「守ってくださってありがとうございます。いつ首を折られるかハラハラしていましたわ」

「それがオレの役割だ。気にするな。たとえオレが死んでも、おまえだけは死なせない。……疲れたか?」

「ええ、ほんの少しだけ」


 優しく気遣う言葉に、セシリアは小さく頷いた。


「まさか、あそこまで拗らせてるとは思いませんでしたもの。なかなか、一筋縄ではいきませんでしたね」

「……あんなので、この先役に立つのか、アレが」

「あら、疑っていらっしゃいます?それとも、もしかして嫉妬なさってます?」


 セシリアは悪戯っぽくからかうようにくすくすと笑う。

 男の方はやや不服そうに「別に」と素っ気なく答える。

 それがまた可愛らしくて、セシリアはさらに笑った。


「……連中とやり合うのには、オレの力だけじゃ、足りないか?」

「いいえ。あなただって十分に強いですもの。いつも頼りにしていますわ」

「そうか」


 目に見えて嬉しそうにする彼を見て、セシリアは手を伸ばし飼い主が飼い犬を撫でるように優しく頭を撫でた。

 癖のある黒髪が、セシリアの指の間にするすると解ける。


「けれど、彼の力も必要不可欠。わたくしたちが目的を果たす傍らで、彼は彼の()()()を果たしてもらわないといけませんもの」

「……つまり、囮か」

「その通りです。さすが、賢いですね。よしよし」

「うむ」


 セシリアはご褒美とばかりに彼の頭をさらに撫でる。


「わたくしたちは組織の中枢を狙って決定的なダメージを与える。彼は、外側から敵の戦力を削ぐ。適材適所、といったところです。彼の強さなら、敵の目を引きつけるのにはちょうどよいですもの」

「ヤツが味方になれば、だが。当てはあるのか?」


 先程の話し合いで、ジャンゴはセシリアに対して悪印象を持っている。

 同時に、ジャンゴはグレイゴーストという己の正体に抵抗と明確な拒絶反応を示している。

 男には、セシリアの駆け引きに成果を感じなかったどころか、逆効果であったように見えていた。

 しかし、セシリアは余裕と自信たっぷりに答える。


「|I'm gonna make him an offer he can't refuse《彼に断れない提案をしますわ》」


 と。そう口にするセシリアの表情は、先程散々見せてきた魔女の微笑みが浮かんでいた。


「この前も、あなたにそう聞かせたでしょう?どんな結果であれ、彼を必ずグレイゴーストに戻してみせます」


 セシリアは歩き出し、礼拝堂から出る。なにも聞かず、男の方も彼女に付き添う。

 ふたりは寄り添って歩き、そのまま教会の外へと出た。

 外では今も激しい滝のような雨が降り注ぎ、暗雲が空を隙間なく埋めつくしていた。

 その陰鬱な天気を眺めながら、セシリアはグレイゴーストに思いを馳せる。

 彼は果たして、答えを出せるだろうか?

 答えが出せないようなら、それまでだ。

 彼はそこまでの男だったにすぎないし、伝説は伝説のまま終わるだけだろう。

 それならば彼のことは潔く諦め、〈ゲドン〉に、ひいては〈セクト〉に対する壮大な復讐の計画は彼抜きで行うだけだ。

 しかし、だ。

 セシリアには絶対的な自信があった。

 彼が必ず迷いと苦悩、拒絶を克服できることを。


「それに彼は……わたくしがこれ以上発破をかけなくても、自分から、グレイゴーストに戻らざるを得なくなる。間違いなく。これはもう、そういう運命ですわ」


 セシリアは白銀のドレス姿のまま、教会入口の階段を降りる。ゆっくりと。

 そして、教会前の広場へ出ると、降り注ぐ雨を全身で受け止めるように両手を広げた。

 だが、今降っている雨は、ただの雨ではない。

 黒い、タールめいて濁った不気味な雨だ。

 〈死者の涙〉──人はこの不吉な雨を恐れてそう呼ぶ。

 しかし、セシリアはこの雨を微塵も不吉なものだとは思っていなかった。


「とても、いい天気ですね」


 彼女にとって、これはむしろ吉報であった。

 セシリアは雨が好きだった。

 雨は決まって、彼女に幸せを届けてくれた。

 いつも、彼女にとって大切な思い出となった日には決まって雨が降っていたからだ。

 例を挙げるとするならば、彼女の最愛の人と遭遇……もとい、出会ったときもこんな風に雨の降る日だった。

 だからこそ、彼女にとって雨というものは特別で、愛すべきものだった。

 そしてそれは、この邪悪な黒い雨も例外ではない。


「ああ。そうだな、我が主(マイマスター)


 彼もまた、主人に倣うように教会前の広場に降り立つ。

 セシリアの横へ並び立ち、雨を受け入れて全身を濡らす。


「せっかくの素敵なお天気ですし、このままふたりでお出かけしましょうか」

「うむ。それはいいな」

「ええ。うふふっ。どこへ行きましょうか、フォルテ」

「どこまでも」


 セシリアにフォルテと呼ばれた男は、微かに笑って優しい声色で言った。


「雨さえあれば、オレたちはどこまでも行ける。そうだろう」

「そうね。ええ、そうですわ」


 フォルテはセシリアに手を差し出した。セシリアはその手をとると、指先を繋ぐように握る。


「行きましょう。ふたりで。どこまでも」


 雨はその勢いをさらに容赦なく増していく。

 しかしそれはまるで、セシリアとフォルテのふたりに祝福を与えるようだった。

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