接近
「……寒いなぁ」
ぽつり、と、つぶやく。
肌寒さを感じて、きゅっと腕を抱いた。
重い足取りで〈ヨミ〉の荒れ果てた街中をとぼとぼと歩いていた薄幸の女性……ツヅキ・カグヤは、ふと足を止めて空を仰いだ。
だが、当然ながら空は見えなかった。
見えるのは、積層都市の建造物が複雑かつ繁雑に組み合わさったコンクリートジャングル。それが空を塞ぐようにして街を覆いかぶさり、冷たい無気質な世界を作り上げていた。
そんな牢獄めいた景色はあまりに憂鬱で、彼女の元から暗い気分をさらに沈ませる。
昔は、ここから見える景色もそう悪いものではなかった。
どんなにどん底であろうとも、いつもそばにはあの子がいたから。
けれど、今はいない。
あの子も、ほかの子たちも。
今は、わたしひとりだけ。
ふと、ここに来るまでに一緒に来てくれた少女の顔が思い浮かぶ。
ベルという、無垢で無邪気な明るい子。本当に可愛らしくて、優しい子だった。
最後にあの子に会えたのは、とても幸いなことだった。
それに、ベルだけじゃない。迫る恐ろしい追っ手から一時でも匿おうとしてくれたトニーや、優しく穏やかな瞳を持ったジャンゴ。
彼らとの思いがけない出会いも、孤独な彼女にとってはささやかながら素敵なものだった。
できることなら、あの三人ともう少し話をしたかった。
こんなふうに、ある事情から追われてさえいなければ、少し違った形で出会い、友達にでもなれたかもしれない。
それが叶わぬ願いだとしても、ほんの少しだけ夢を見るのは、悪いことじゃないはず。
儚く笑って、一瞬だが永遠の思い出を噛み締めると、カグヤは再び歩き出した。
彼女はずっと歩いてきた。
我ながら、感心するほどに長く遠い道のりを。
果てしない旅をするかのように、カグヤは今日までたったひとりで歩いてきた。
「……でも。それも、もうじき終わり」
彼らが来る。
わたしを捕まえようと。
だから、その前に、行かないといけない。
カグヤは歩くペースを早めていく。
どうせ終わるなら、あの場所がいい。
自分にとって、いちばん大切な思い出のある場所。
そこがわたしの終着点。
そこで待とう。受け入れよう。
そう決めた彼女は、暗黒に包まれた地下世界を歩きに歩いて、やがて目当ての場所に辿り着いた。
誰も寄り付くことのない、幽霊屋敷のように古ぼけ忘れ去られた寂しい建物……廃墟と化したビルに。
彼女は一言つぶやく。
「……ただいま」
そしてさようなら。
ここで夢の終わり。
ただほんの少しだけ味わうことができたささやかな幸せは、ここから始まって……ここで終わるのだ。
わたしがつかの間見ることが出来た夢から覚める場所。
彼女は、吸い込まれるようにその建物の中へ入っていく。
廃ビル入口に備えられたガラスの割れたドアを閉じ、彼女は懐かしきかつての住処の中を迷いなく進み始めた。
「──ターゲットを発見した」
そして、そんなカグヤの姿を路地裏の暗い陰に隠れて密かに監視していた者がいた。
その監視者は無線連絡を使い、カグヤの現在地を部隊の仲間たちに共有し、小型無線機を懐にしまい込んだ。
後は、仲間がここに合流するのを待つだけだ。
彼はアップルシードに加盟するPMC、グリゴリ探偵社に所属する兵士だ。彼ら探偵社はある組織から依頼を受け、「巫女」などと呼ばれている女性、カグヤを確保をするために作戦行動中である。
彼の役割は斥候であり、ありとあらゆる場所で情報を集めるために派遣されている。他にも、彼と同じ斥候の任についた兵士が、このサン・ミゲルのあちこちに網を張り巡らし、ターゲットの追跡に当たっていた。
そして、この〈ヨミ〉にて探索を任され、そしてターゲットを発見したのが彼、クライヴだ。
まさか、こんな薄気味の悪い〈ヨミ〉の地下世界にまではるばる降りてくるとは思わなかったが……。
どうやら、そのおかげで当たりを引くことができたらしい。
やれやれ。それにしても手を焼かせてくれたものだ。上層で取り逃したと聞いた際はどうなることかと思ったが……こうして、偶然か奇跡か見つけることができてなによりだ。
「さて、今のうち一服して待つとするか」
じっと廃ビルから目を離さずに監視を続けながら、クライヴは電子タバコを取り出した。
そのとき、
「……おっと失礼」
「──!」
背後に、いきなり人の気配が現れる。
それはまるで路地裏の闇の中からちょうど今生まれ落ちたかのように突然で、クライヴは自身の失態を恥じるよりも現れた何者かの得体の知れなさにごくりと息を呑んだ。
手の中の電子タバコがするりと抜け落ち、かたんと音を立てた。
「少し道を訪ねてもいいかい?」
再び、背後の闇から声がかけられる。
クライヴは死神に首根っこを掴まれたような感覚に苛まれ、生きた心地がしなかった。
それもそのはず、いつの間にか首元にぎらりと冷たい輝きを放つ一振のボウイナイフが添えられていた。
「道を尋ねる態度じゃないぞ……!」
息が詰まりそうな感覚に震え声をあげながらも、恐怖に負けまいとクライヴは強がってみせた。
だが、それは見破られており、ゆっくりと這うようにナイフが首元から顎下と移動する。
ざり、と音を立てて髭が剃られる。
「そうかな。おたくらみたいな意地汚いハイエナどもにはうってつけの尋ね方だと思うがね」
「……なにが望みだ。何者だ」
「おまえさん方の商売敵ってとこだ。さっきも言ったように道を教えてもらいたい」
「道、だと」
「そう道だ。ツヅキ・カグヤの行き先さ。知ってるだろ? おたくらが必死こいて追ってる女だよ。そんなとこでボケっと突っ立てる案山子なら、どこへ行ったか知ってるんだろ?」
探偵社が追っている標的のことを知っている……こいつはいったい何者だ。もしや、昼間に邪魔に入った男か。それとも、その仲間か。
クライヴは抵抗を試み、こっそりとホルスターに吊り下げた銃に手をかけようとしたが、それより早く闇の手が伸び、するりと銃を抜き取ってしまう。
「ふぅん。新型の銃ってのはなんとも可愛げのないデザインだこと。どうも、おれは時代についていけないな。ついていく気もないが」
「う、く……俺たちが誰だかわかっているのか。探偵社……軍隊だぞ」
「最近ではおまえらチンピラの集まりも軍隊なんてご立派な役職を名乗れるのかい。大したもんだ。だがな、おれからしてみたらせいぜいボーイスカウトがいいとこだぜ」
ついに、ナイフの刃が肌にくい込み、わずかに皮膚を切り裂いた。じわりと血が流れ、ぽたぽたと足元に滴り落ちる。
「さぁ、このナイフが出来損ないのフェイスパックを作る前に早いとこ教えた方が身のためだぞ」
「わ、わかった……ここはひとつ、友好的にいこうじゃないか。話すから、そのナイフを下ろしてくれ」
クライヴの頼みにナイフがわずかに下がり、刃が首元の位置へ戻る。
相変わらず生きた心地はしなかったが、それでも先程よりは幾分かマシになった。
クライヴは上擦った声で話し出す。
「この通りから正面を見て、ビルが並んでいるだろう……そこの左側……大きなビルと小さなビルに挟まれた……そう、ちょうど真ん中のビルだ。そこの廃墟にヤツは入っていった」
「確かか」
「嘘は言わない……」
「そうか。ご協力どうも」
ようやくナイフを離され、クライヴは浅く深呼吸をして息を整えた。
そして、次の瞬間。
「くたばれっ!」
勢いよく隠匿していたバタフライナイフを振り抜き、背後の闇に対して切りかかる。
しかし……。
「な……?」ナイフはただ虚しく虚空を切り裂き、ひゅと風を切る音が鳴った。
背後には誰もいない。人気もない。ただただ暗闇が広がっているだけだ。
ヤツは、どこに……。
クライヴが振り返ろうとしたそのとき、
「……あ?」
いきなり強く鋭い衝撃が、首元を……そして全身を襲った。クライヴは押し飛ばされるように壁に打ち付けられ、そのまま張り付けになった。
クライヴは何が起きたのかを理解する間もなくあっけなく死んだ。
彼の喉には貫通するほど深々とボウイナイフが突き刺さっていた。
彼の体は釘を木の板に刺すように壁に固定される。
「お勤めごくろうさん」
闇の中から、また闇が生まれ落ちるようにぬっと姿が現れた。それは人の姿をしていた。
その人の姿をした闇はつぶやくように言った。
「引き続き、仕事を頑張るこった。案山子らしく、そこでじっとしているといい」
ギターケースを背負ったその闇は、冷たく言い放つと、その場にクライヴの無惨な死体を残して、彼が示した廃ビルへ向けて歩き出した。




