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あの部屋でのガタガタな腕立て伏せ事件、そしてシエルの盛大な大発光からしばらく経った頃。
私の心境は、はっきり言って大混乱に陥っていた。
ただのどんくさい契約魔族、ただの家族みたいなもの。
そう思おうとしていたのに、あの日、私のために無理をして、真っ赤になって輝いていたシエルの姿が頭から離れない。
要するに、私はシエルのことを猛烈に意識し始めてしまっていた。
そんなある日の昼下がり。
資料室の裏手を通りかかった私は、数人の男性研究員たちがこそこそと話している声を偶然耳にした。
「おい、またシエルの奴が新しい術式の論文で表彰されたらしいぞ」
「チッ、どうせ見た目もあって上の受けが良いだけだろ。華人の生まれつきの才能さ。線の細いもやし男のくせに、偉そうに白衣なんか着やがって」
心無い言葉の数々。
激しい怒りが私の内側から湧き上がった。
「ちょっと、そこのあんたたち!」
気づけば、私は彼らの前に割って入って立ちはだかった。
腕を組み、相手を値踏みするように睨みつける。
「な、なんだよリノ。お前には関係――」
「大ありよ。シエルの契約者は私。あいつの何を知ってそんな口叩いてんの?」
私は一歩踏み込み、男たちの胸元を指差した。
「生まれつきの才能? 笑わせないでよ。シエルがどれだけ血の滲むような努力をしてるか、あんたたち見たことあんの!? あいつは幼い頃から、他の子が遊んでる間も、寝る間も惜しんで分厚い専門書をボロボロになるまで読み漁ってたわよ! この施設に入るために、死に物狂いで勉強してきた努力の子なの! 自分が努力してない言い訳に、あいつの見た目や種族を使うんじゃないわよ!その上筋トレだって欠かしていないんだから!」
息を荒くして一気に捲し立てると、男たちは私の気迫に圧されて顔を青くした。
筋トレは関係なくね?というツッコミが聞こえた気もしたが、そこは敢えて無視する。
契約者である私の反論に、男たちは口をへの字に曲げて拳を震わせ、今にも一言言い返しそうな様子で私を睨みつけてくる。
けれど、シエルの並外れた研究成果自体は事実であるため、それ以上反論することもできず、結局はチッと忌々しそうに舌打ちをしながら、納得のいかない足取りでその場を去っていった。
「ふん、見かけ倒しの筋肉ね。中身のない筋肉は、さすがの私もごめんだわ」
不機嫌そうに髪をかきあげ、その場を去ろうとした時――。
「……リノ」
物陰から、シエルがそっと姿を現した。
白衣の袖をぎゅっと握りしめ、色素の薄い綺麗な瞳を、信じられないものを見るように大きく見開いている。たまたま通りかかって、私の発言を全部聞いていたらしい。
「あ、シエル……。聞いてたの? まあ、あんたがあんまり舐められてるのがムカついたから、ちょっとね……。」
気まずくなって視線を逸らす私。
けれど、シエルの頭のてっぺんのピンクの花は、嬉しそうに、そして愛おしそうに、ぷるぷると激しく震えていた。私への想いをこれでもかと募らせているのが一目でわかって、私は心臓が跳ね上がるのを必死に抑えた。
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そんなことがあった、数日後のことだ。
私が廊下を歩いていると、施設の後輩の女の子が顔を真っ赤にして突撃してきた。
「あの……リノ先輩。シエルさんに……これ、渡してください……! お願いします!」
押し付けられたのは、可愛らしいリボンで留められた一通の手紙。
――ラブレターだ。
「あ……」
受け取った瞬間、胸の奥がズキリと、嫌な音を立てて痛んだ。
やっぱり、あいつはモテるイケメンなのだ。私がどれだけ彼の中身を知っていても、周りの可愛い女の子たちが放っておくはずがない。
(……あんなに可愛い子に真っ直ぐ気持ちを向けられたら、シエルだって、あっさり好きになっちゃうかもしれない)
冷静に考えて、日々「プロテイン熱血マッチョ指導」を叩き込んでいた私を、あいつが女性として好いてくれる方が奇跡なのだ。
頭の花の件があるとはいえ、やっぱり自意識過剰な気もしてきた。
シエルがそのうち、他の誰かのものになってしまうかもしれないという不安が、再びじわじわと首をもたげる。
「……はは、何考えてんだ、私」
胸の痛みを誤魔化すように自嘲気味に呟き、私は手紙を握りしめてシエルの個人研究室へと向かった。
シエルがいつも見せてくれる誠実さや素直さに、私もちゃんと応えたい。
私の嫉妬心で惨めに彼の選択肢を阻むような真似だけは、絶対にしない。
コンコン、とノックをして部屋に入る。シエルはデスクで資料をめくっていた。
「シエル、ちょっといい?」
「あ、リノ。どうかしたんですか? 今、ちょうど――」
「ほら、これ。あんた宛ての重要書類」
私は自分の胸の動揺を必死に押し殺しながら、机の上にコトッと手紙を突き出した。
「な、なんですか、これ……?」
「ラブレターよ、ラブレター。施設の後輩のすっごく可愛い子から預かったの。モテモテねぇ、シエル先生。」
けれど、手紙を受け取ったシエルは、それを一瞥しただけで、封を開けようともしなかった。
それどころか、シエルは物凄く傷ついたような顔で黙り込み、私をじっと見つめてくる。
その瞳の奥には、いつも私に向ける怯えとは違う、静かな怒りのような色さえ混じっている。
「……こ、こういう紙媒体の熱量なら、毎日僕のデスクのキャパシティを物理的に圧迫するほど届いていますから…!い、いつものことだからリノが受け取らなくていいよ。…というか、処理するだけでも大変なのに、なんで、リノまで僕にそんなタスクを押し付けてくるんですか……っ」
「えっ……?」
いつもなら怯えて引きこもるはずの彼が、怒りのあまり驚異的な早口と低めの声で、一気に捲し立ててきた。
(……あ、そうなんだ。デスクのキャパを圧迫するほど、毎日たくさん届くんだ。怒るくらい、こういうラブレターを処理するのが日常茶飯事なんだ……)
さすがは『麗人』と騒がれるだけのことはある。
私にとっては心臓が引き裂かれそうな一大事のラブレターも、彼にとってはただの「毎朝届く、処理に困る厄介ごと」に過ぎないのだ。
そうやって無数の女の子たちの好意を(オタク的にブツブツ言いながらも)当たり前のように受け流すシエルを見て、私は自分が選ばれなかった過去を突きつけられたような気がして、胸がひどく痛んだ。
「……もう、いいです。今の僕には術式の計算に充てるリソースしかありませんから、出ていってください」
シエルは手紙をデスクの隅へ乱暴に追いやると、私に背を向け、バタンッ!と激しい音を立てて自分の研究室の奥へと引きこもってしまった。
取り残された私は、ぽつんと立ち尽くす。
「……怒ること、ないじゃない」
掠れた声が、静かな部屋に響いた。
お節介を焼いた私が鬱陶しかったのだろうか。
それとも、私の知らない「モテる男のシエル」の地雷を踏んでしまったのだろうか。
私は意地を張って、自分の心にこれでもかと嘘をついた。
シエルがどれほど絶望し、怒っていたかも知らないまま。
そんな最悪に気まずい空気のまま、私たちは、国境近くの地域へ『生態系調査』の共同任務に出向くことが決まったのだった。




