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――それから、10年近くの歳月が流れた。
一時期、シエルはさらなる学問を修めるために華人の国へと留学し、私たちは数年ほど別々の人生を送る期間もあった。
けれど、私はシエルの足を引っ張るだけの存在になりたくなくて人間の職業訓練校で死に物狂いで勉強したし、シエルもまた、私と離れるのが辛くて死に物狂いで勉強に打ち込んでくれていたらしい。
その結果、お互いに狙い通り、この国で最も権威のある国家共同の薬物・魔法式研究施設へと就職。
私たちはそれぞれ立派な『研究員』として、同じ職場で再び机を並べることになったのだ。
人間の私とは違い、魔族であるシエルの成長速度は凄まじかった。
15歳を過ぎた頃には身体的にも精神的にも成熟するとは聞いていたけれど……。
「……はぁ。なんでこうなったのかしら」
施設の自室で、私は頭を抱えていた。
目の前にある、幼少期にシエルが使っていた小さな木剣を見つめながら、深いため息をつく。
結論から言おう。
私の「プロテイン熱血マッチョ教育」は、見事なまでに大失敗に終わった。
シエルは私の理想だった「ゴリゴリの頼れる武闘派マッチョ」とは宇宙の彼方ほども遠い方向へ、マッハのスピードで突き抜けていってしまったのだ。
現在のシエルは、誰もが二度見――いや、五度見はするレベルの、おそろしく線の細い、儚げな超絶美青年だ。たまに女性と間違われている。
色素の薄いふわふわの薄緑の髪は肩先まで伸び、涼しげな目元。
施設の廊下を歩けば、すれ違う女の子たちが黄色い悲鳴をあげるか、尊さのあまり拝みだす始末だ。
華人は見目麗しくなる者が多いというあの職員の言葉は、1ミリの誇張もない真実だった。
そう、彼はスラリとした『顔が良い男』になってしまったのだ。
おかしい、きちんと留学前に大量のプロテインも彼のバックに仕込んでおいたし、筋トレも欠かさぬよう念を押して伝えていたのに……。
美しすぎて、逆に近づけない。
あの整った顔を見ていると、ぼんやりとした不貞の記憶が呼び覚まされて、どうしても胃が痛くなる。
あんな顔の男に甘い言葉を囁かれたら、世の女性は一コロだろう。
シエルは変わらず接してくれているのに、私は最近、彼に対してどうしてもよそよそしい態度をとってしまっていた。
あんなモテ男が、私を特別な目で見るはずがない。
今でも一緒にいて私を気遣ってくれるのは、ただ単に「5歳の時に卵を孵化した契約者だから」
――いわば、家族みたいなものだと思ってくれているからに違いない。
そう自分に言い聞かせ、必死に心の防壁を築いていた。
そんなある日の夕方。
シエルの部屋に用事があり、ノックもそこそこにドアを開けた時のことだ。
「し、シエル、明日の提出書類の件なんだけど――」
開け放った扉の先で、私は信じられない光景を目撃した。
「……くっ、ふ、ふん……っ!!」
そこには、おそろしく綺麗な顔を歪ませ、床に両手をついて必死に身体を上下させているシエルの姿があった。
……腕立て伏せ、だ。多分。
しかし、そのフォームはガタガタだった。
細い腕は生まれたての小鹿のようにプルプルと震えており、見ていて不安になるほど頼りない。
「ちょっとシエル、大丈夫!?」
思わず本音が口から飛び出した。
「え、うわっ!?」
私の声に飛び起きたシエルは、完全にパニックを起こした。
「見られた」という恥ずかしさが限界突破したのだろう。彼はベッドの上へと転がり込むと、光速で膝を抱え、頭を股の間にうずめて丸くなった。
見事なオジギソウモードである。大人になっても、私にパニックを起こされた時のこの引きこもり防衛本能は健在だった。
解せぬ。施設の連中は彼のことを『物静かで知的な、女神のように落ち着いた麗人』なんて噂しているけれど、今の彼には知的のちの字もない。
「な、何を見てるんですか、不法侵入ですよ! 僕は今、重力加速度における肉体の反発エネルギーの限界値を測定していただけで、決して、決して不純な動機で筋繊維の破壊を試みていたわけでは……っ!」
丸まった姿勢のまま、相変わらずの驚異的な早口オタクトークで言い訳を捲し立てるシエル。
その必死な姿と、たった数回で潰れたガタガタの腕立て伏せの残像が脳裏で結びついた瞬間、私はすべてを察した。
――まさか、今も素直にマッチョトレーニングを続けているとは…
線の細いイケメンに育ってしまったことを、彼なりに気に病んでいたのだろうか。
運動音痴のくせに、私に少しでも歩み寄ろうと、裏でずっとこんな涙ぐましい努力を……。
「……ぷっ、あはははは!」
堪えきれず、私のお腹から笑いが吹き出した。
イケメンへの強い警戒心も、あの不快な記憶の残像も、そのあまりにも不器用で、愛おしすぎる大失敗のせいで一瞬で吹き飛んでしまった。
「な、何で笑うんですか……! 僕は真剣に、その、リノの、好みに……っ」
「何やってんのよ、バカ。あんたは筋肉なんかつけなくていいわよ」
私は呆れ半分、ときめき半分で歩み寄り、ベッドの上の大きなオジギソウを見下ろした。
からかうつもりで言ったのに、口にしてみると、自分の顔が急激に熱くなっていくのがわかった。
「……え?」
シエルが、膝の隙間から恐る恐る顔を上げた。
大人びたはずの綺麗な瞳が、今は子供のように丸くなっている。
「……だって、あんたがゴリゴリのマッチョになったら、私のシエルじゃなくなっちゃうじゃない。あんたは、あんたのままでいいの」
柄にもないことを言ってしまい、私は慌てて視線を逸らした。
その時だった。
「あ――」
シエルの頭のてっぺん、普段は髪と同化してあんまり目立たないが、成人して立派に色づいたオジギソウのピンクの花が、ポンッ、ポンッと音を立てるかのように勢いよく大輪に咲き誇った。よく見ると首や腕からも生えてきている。
それだけではない。
彼の全身から、これまでに嗅いだこともないほど甘い香りが溢れ出したかと思うと――。
輝いた。
文字通り、シエルの身体が、まばゆいばかりにキラキラと物理的に発光し始めたのだ。
「ちょ、ちょっとシエル!? めちゃくちゃ輝いてるんだけど! ?眩しい!」
「ひゃあああっ! な、何でですか、制御装置が言うことを聞かなくて、光の放出量が二乗則で増幅して……っ! 見ないで、リノ、僕を見ないでくださいぃぃ!!」
顔を真っ赤にして、発光しながらベッドの上でジタバタと悶絶するシエル。
華人の特性――『特に好きな人ができるとね、身体の花からフェロモンを出して、本人自身がキラキラと輝きだしてしまう性質もあるのよ。――』
(家族だから優しくしてくれてるだけ、じゃなかったの……?)
部屋中を照らすまばゆい光の真ん中で、私は己の心臓が、かつてないほどの爆音を立てて鐘を鳴らし始めたのを、確かに自覚していた。




