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第1話 白帆港の朝と、粥の湯気



港から診療所までの坂道というのは、元気な時に歩けば海がきらきら見えて気分のいい道なんだけどね、熱のある商人を担架に乗せて運ぶとなると、まあこれがなかなか骨の折れる道になるんだよ。


白帆港を見下ろす石畳は朝の潮で少し湿っていて、靴の裏に細かな砂が噛むし、右手にはアドリア海がこれでもかというほど青く広がっていて、左手には白い石壁の家々が段々に並びながら窓辺には干した海藻や洗い布が揺れている。遠くで鴎が鳴いて、漁師たちの掛け声が波の音に混ざって、まだ焼き立ての魚の匂いまで流れてくるから、観光で来た人なら「まあ素敵な島ですねぇ」なんて目を細めるところなんだろうけど、こっちは担架の上のマルコさんの呼吸を数えながら歩いているんだから、景色にうっとりしている暇なんてありゃしない。


「セラ、もう少しゆっくりでいいよ。担架は揺らさない。リアン、あんたは荷物だけ持つ。患者を担ごうなんて考えたら、その包帯ごと柱に縛るからね」


「俺、まだ何も言ってないのに」


「言おうとした顔をしてたんだよ。あんたは顔が大声だからね」


リアンは不服そうに口を尖らせたけれど、包帯を巻いた左手を背中に隠したまま、渋々と私の薬箱を抱え直した。まったく、この子は悪い子じゃないんだよ。むしろ島の若い衆の中じゃ気が利く方で船の扱いも上手いし、子どもや年寄りの面倒もよく見る。問題は気が利くのと同じくらい無茶も利くと思っているところでね、そういう若者は前世の救急外来にもたくさんいた。


「大丈夫です、先生」なんて言いながら、顔色は真っ白で、冷や汗をかいていて、血圧を測ったら全然大丈夫じゃない若い男の子。

「ちょっと転んだだけです」と笑っているのに、肘の骨がいやな方向を向いているお父さん。

「家族に迷惑をかけたくなくて」と熱を三日も我慢して、結局、家族総出で救急に来るおばあさん。

人というのは、痛みや苦しさを軽く見積もる才能だけは、どういう世界でも変わらないらしいねぇ。


診療所の前まで来ると、エマが先回りして寝台を一つ空けてくれていた。窓は半分だけ開けて、海風が直接患者さんの顔に当たらないよう布を垂らし、寝台には煮て干した布を敷いてある。薬草師の娘らしく、こういう時の手際は本当にいい。口はきついし、私としょっちゅう言い合いをするし、薬草の量についてはまだまだ譲らないところもあるけれど、患者のために動く時のエマは頼りになる。


「マルコさん、少し身体を起こすよ。横になるより、こっちの方が息が楽だと思うからね。セラ、背中に丸めた布を入れて。リアン、薬箱はそこ。ハク、寝台の下に潜らない。あんたが入ると布が毛だらけ……いや、鱗だらけになる」


「きゅう」


「寂しそうな声を出しても駄目。患者さんを温める係は、もう少し落ち着いてから」


ハクは不満げに鼻を鳴らしたけれど、私の足元にぺたりと座った。白銀の小さな竜が、診療所の床に行儀よく座っている光景なんて、前世の私が見たら腰を抜かすどころか、病院の休憩室で飲んでいたインスタントコーヒーを吹き出したに違いない。あの頃の私は、竜なんてテレビの中か、孫の持っていた絵本の中にしかいないと思っていたんだからね。


マルコさんの額に触れると、熱は高い。手足は少し冷えていて、汗は出ている。咳は深いけれど、呼吸のたびに胸を押さえるほどではない。喉は赤く、舌は乾き、目の下には疲れが溜まっている。船の中で飲んだ水の匂いを確認すると、少し樽臭くて、長く揺られていた水にありがちな嫌なぬめりがあった。


「エマ、薄めた渋葉液と白湯。セラ、船の人たちに、同じ水樽を飲んだ者の名前を聞いてきて。港の人には荷に触らないようもう一度言って。リアンは……」


「俺は?」


「座ってなさい。働こうとする怪我人は、座って見張られるのが仕事だよ」


「そんな仕事ある?」


「今できた」


リアンは不満そうに椅子へ座った。座っただけで偉いと思えるくらい、この島の若い漁師たちはじっとしていない。前世の昭和の男の人たちにも少し似ているねぇ。熱があっても仕事へ行く、腰が痛くても米俵を担ぐ、医者に行けと言われても「寝れば治る」と言い張る。あの時代は、根性という言葉がずいぶん幅を利かせていた。根性で洗濯物は乾かないし、根性で肺炎は治らないし、根性で骨はまっすぐくっつかないのに、どういうわけか皆、根性に万能薬みたいな顔をさせていたんだよ。


私が子どもの頃の町は、今の若い人には想像しにくいかもしれないねぇ。

家々は今より低くて、夕方になると七輪や煮物の匂いが路地に流れて、魚屋の前には木箱が積まれて、豆腐屋のラッパがぷうぷう鳴って、冬には石油ストーブの匂いがして、夏には開け放した窓から扇風機の音と野球中継が聞こえた。道路は今ほどきれいじゃなくて、雨が降れば泥が跳ね、子どもたちは膝小僧を擦りむきながら走り回り、どこの家のおばちゃんもよその子を平気で叱った。


あの頃は不便だったよ。

冷蔵庫だって小さかったし、洗濯機も今ほど賢くなかったし、電話は家に一台あるかどうかで、病院の記録だって紙ばかりだった。注射器を煮沸する匂い、消毒液のつんとした匂い、白衣の糊の硬さ、夜勤明けのぼんやりした空、そういうものが今でもふっと鼻の奥に蘇ることがある。


ルカ島の朝は、その昭和の町にどこか似ている。

誰かの家の竈から煙が上がり、井戸端で女たちが噂話をし、子どもは裸足で走り、魚屋ならぬ魚市場の婆さんたちが若い漁師を怒鳴り、洗った布は潮風に揺れ、食べ物は無駄にせず、壊れた物は直して使い、病人が出れば隣の家から粥が届く。もちろん、こちらには魔石灯も竜も薬草もあるし、港の向こうにはアドリア海という広い内海が横たわっているんだから同じはずはないんだけど、人が暮らす匂いというのは、世界が変わってもどこか似るものなんだろうねぇ。


「ミオさん、マルコさんの船の水夫は八人で、同じ水樽を飲んだ者が五人、そのうち顔色の悪い若い水夫が一人、軽い咳をしている者がもう一人います」


セラが戻ってきて、神官らしい丁寧な声で報告してくれた。こういう時、セラは本当に助かる。最初の頃は病人のそばで祈ることを何より大事にしていて、私が「祈る前に手を洗いなさい」と言ったら雷に打たれたような顔をしていたけれど、今では自分から桶と布を持って走るんだから、人は変わるものだよ。


「よし。水樽は使わせない。飲み水は全部沸かす。若い水夫は診療所の裏の物置を空けて休ませる。軽い咳の人は港の倉庫で他の人と離して様子を見る。怖がらせる必要はないけれど、同じ器で回し飲みはしない。船長には、私が許すまで荷下ろししないと伝えて」


「船長が怒ります」


「怒る元気があるなら聞く耳もあるだろうよ。私があとで直接話す」


「はい」


セラはうなずいて、また走っていった。白い神官服の裾が風でひらりと揺れるのを見ながら、私は若い人の素直さというのは貴重だねぇと思った。素直なだけでは世の中渡れないけれど、素直さを失った年寄りはもっと厄介になる。私も気をつけないといけない。


マルコさんには白湯を少しずつ飲ませた。ごくごく飲ませるとむせるから、唇を湿らせるように、少しずつ、少しずつ。エマが用意した薬草液は苦いので、本人が顔をしかめた。気持ちは分かるよ。前世でも苦い薬を嫌がる患者さんは多かったし、子どもなんて全身で拒否する。甘いシロップならまだしも、粉薬を水で飲めと言われた時の子どもの絶望顔といったら、こちらまで申し訳なくなるくらいだった。


「苦いだろうけど、少しだけ飲みなさい。商人さんなら苦い取引くらい経験しているだろう?」


マルコさんは苦しそうに笑った。


「薬より、税吏の方が苦い」


「それを言えるなら、まだ口は達者だね。よろしい」


私はそう言って、額の汗を拭いた。

この世界の医療は、魔法がある分だけ華やかに見えるけれど、辺境の診療所で毎日やっていることは、前世の看護とよく似ている。体位を整える。水分を取れる形にする。汗を拭く。寝具を替える。熱の上がり下がりを見る。排泄を見る。顔色を見る。家族や周りの人が慌てすぎないように声をかける。そういう地味なことを積み重ねて、身体が戻る力を邪魔しないようにする。


医療というと、どうしても派手な治療に目が行くんだよ。

光る魔法、珍しい薬、高価な器具、立派な先生の診断。もちろん、そういうものが必要な時はある。あるどころか、あれば助かる命だって山ほどある。けれどね、命というのは、治療の瞬間だけで支えられているわけじゃない。温かい布団、清潔な水、消化のいい食べ物、安心して眠れる場所、誰かが見ていてくれるという心強さ、そういうものも全部、命の足場になるんだよ。


昼前になると、診療所の窓から見えるアドリア海の色が変わった。

朝は銀を散らした青だった海が、太陽が高くなるにつれて、白帆港の近くでは翡翠色になり、沖へ行くほど深い藍になって、船の影がゆっくり揺れている。港の突堤には漁師たちが並び、白い帆を畳む手つきが遠目にも分かる。風に乗って魚を焼く匂いと、潮に濡れた縄の匂いと、魚市場のニナ婆さんの怒鳴り声が届く。


「ほら、見てごらん、ハク。今日の海は機嫌がいいねぇ」


ハクは窓の下に前足をかけて、海を見た。金色の目に青い光が映って、しばらく黙っていたと思ったら、鼻をひくひくさせた。


「魚の匂いじゃないよ。海を見なさい、海を」


「きゅう」


「分かっているような、分かっていないような返事だねぇ」


アドリア海は大きい。

私が流れ着いたこのルカ島は、その東の果てに浮かぶ小さな島にすぎないけれど、海の向こうには王都があり、北の鉱山があり、南の香辛料の島々があり、東の霧深い航路があるらしい。らしい、というのは、私自身がまだそのほとんどを見たことがないからだよ。前世の日本では、テレビをつければ世界中の景色が映って、地図アプリを開けば知らない町の道まで見られた。こちらでは、世界は船が運んでくる噂と、商人の荷と、神官の本と、旅人の誇張の中にある。


それでも、遠い世界は確かにこの島へ届く。

マルコさんの荷には南の香料が入っていたし、診療所の小さな棚には北から来た鉄の針があるし、エマが大事にしている薄い薬包紙は東方のものだという。白帆港に船が着くたびに、島には魚以外の匂いが混ざる。甘い香り、薬の苦い香り、見知らぬ布の匂い、油の匂い、時には病の匂い。海は恵みも災いも同じ船に積んで運んでくるんだから、本当に油断ならない。


昼食は、患者用の薄い粥と、私たち用の芋入りの魚汁だった。

粥には、昨日ニナ婆さんが置いていった小魚で取った出汁を使った。小魚は身をほぐして患者に少し、骨はもう一度煮てハクの分に回す。芋の皮はよく洗って刻み、竈の灰で汚れたところだけ落とし、食べられる部分は捨てない。昭和の台所では、こういうことを当たり前にやっていたものだよ。大根の葉は刻んで炒める、魚の骨は炙るか出汁にする、冷やご飯は雑炊か焼き飯にする、着られなくなった浴衣はほどいて雑巾にする。今の人が見たら貧乏くさいと言うかもしれないけれど、物を最後まで使うというのは、暮らしの背骨みたいなものだと私は思う。


「ミオ、また芋の皮まで入ってる」


エマが椀を覗き込みながら言った。


「よく洗ってあるから大丈夫。皮の近くは栄養もあるんだよ」


「栄養って、ミオがよく言うやつ?」


「そう。身体を作る材料だね。肉や魚ばかりでも駄目、芋や豆ばかりでも駄目。色々食べるのがいいんだよ。まあ、ここじゃ色々なんて贅沢な日も多いけど、それでも工夫はできる」


「うちの婆ちゃんも、薬草より飯を食えってよく言う」


「その婆ちゃんは正しい。薬は助けになるけど、毎日のご飯の代わりにはならないからね」


ハクが自分の椀に顔を突っ込もうとしたので、私は片手で鼻先を押さえた。


「あんたは待つ。熱いまま食べて口の中を火傷しても、竜用の軟膏なんてうちにはないからね」


「きゅうう」


「自分で火を吐くくせに、熱い汁で舌を火傷するんだから、不思議な生き物だよ」


昼の診療所は少し落ち着いた。

マルコさんは薬草液を飲んで眠り、若い水夫は裏の物置で毛布にくるまり、軽い咳の船員は港の倉庫で様子を見ることになった。流行り病と決まったわけではないけれど、咳と熱のある人を人混みに混ぜないのは大事なことだ。こういう時に怖がりすぎると人は隠すし、甘く見ると広がる。怖さに名前をつけて、することを決めて、皆で同じ手順を守る。それが一番落ち着くんだ。


午後になると、診療所にはいつもの顔ぶれがぽつぽつやって来た。

ガルドさんは「通りがかっただけだ」と言いながら、どう見ても腰を押さえていたし、ララさんは妊婦さんの足のむくみを心配して相談に来たし、双子のルゥとタムは「鼻をほじってない」と報告しに来た。報告しに来る時点で、たぶん一回はやっている。まあ、子どもの自己申告なんてそんなものだねぇ。


「ガルドさん、腰は?」


「平気だ」


「平気な人は、椅子に座る時にそんな顔をしないよ。朝、重い網を一人で持ったね?」


「少しだけだ」


「少しだけで腰が怒ってるんだから、腰から見たら少しじゃないんだよ。温める。今日は長く座りすぎない。あと、教えた体操をさぼったね」


ガルドさんは白い髭を撫でて、海の方を見た。図星の時に遠くを見るのは、老若男女問わず同じである。


「朝は忙しい」


「忙しい人ほど、身体を壊した時にもっと忙しくなるんだよ。歯を磨くのと同じで、体操も暮らしの中に入れなさい。朝の船を見る前に一回、寝る前に一回。それだけでいい」


「ミオは若いのに、言うことが年寄りだな」


「中身は年寄りだからね」


「またそれを言う」


「冗談に聞こえるなら、それでいいよ」


私は笑いながら、温めた布をガルドさんの腰へ当てた。前世の病院では、温罨法なんて言葉を使っていたけれど、要は気持ちよく温めることだ。難しい言葉にすると立派に聞こえることでも、暮らしの中では「冷やさない」「無理しない」「同じ姿勢で固まらない」という、昔からのおばあちゃんの知恵になる。


ララさんの相談は、若い妊婦の足のむくみだった。

島では妊婦さんでもよく働く。水を汲み、芋を洗い、魚を干し、上の子を追いかける。働かなければ暮らしが回らないのは分かる。分かるからこそ、周りが少しずつ手を貸さないといけない。


「足を少し高くして休む時間を作って。塩辛い干物ばかり食べない。水は我慢しない。急に頭が痛いとか、目がちかちかするとか、胸が苦しいとか、そういうことがあったらすぐ呼びに来て」


「若い子は、休むと怠けてると思われるのを気にするんだよ」


「それを言う人がいたら、私のところへ連れておいで。妊婦さんを休ませるのは怠けじゃなくて、島の未来を守る仕事だって、こんこんと話してあげる」


ララさんは声を立てて笑った。


「ミオに説教されたら、誰でも黙るね」


「説教じゃないよ。生活指導だよ」


「同じじゃないかい」


「響きが違う」


こういうやりとりをしている時、私は時々、前世の外来を思い出す。

外来の椅子に座っていたおばあちゃんたち。薬の袋を何枚も持って、血圧の手帳を広げて、「先生には言ってないんだけどね」と看護師の私にこっそり話す人たち。湿布を貼る場所を間違えていた人、薬を朝昼晩で勝手にまとめて飲んでいた人、家では誰にも弱音を吐けない人。昭和から平成へ時代が変わっても、暮らしの中で病気を抱える人の苦労はずっとそこにあった。


病院という場所は、病気そのものを見るところだと思われがちだけど、看護師はその人の暮らしを見る。

薬を飲めと言われても、食事が一日一回ならどうするのか。安静にと言われても、家に寝る場所がなければどうするのか。通院と言われても、船が出なければどうするのか。清潔にと言われても、水を汲むだけで半日かかる家ではどうするのか。正しいことを言うだけなら簡単だよ。難しいのは、その人の暮らしの中で続けられる形にすることなんだ。


ルカ島に来てから、私はそのことを前より強く思うようになった。

ここでは、診療所の中だけきれいにしても駄目なんだよ。井戸が汚れたら腹を壊す。燻製小屋に鼠が出たら病気が広がる。港で怪我を隠せば膿む。妊婦さんが倒れるまで働けば母子ともに危ない。子どもが裸足で貝殻を踏めば傷になる。だから私は、診療所の中だけでなく、井戸端でも市場でも港でも畑でも小言を言う。島中が私の病棟みたいなものだねぇ。まあ、島民に言わせれば、島中が私の説教部屋らしいけど。


夕方近く、マルコさんの熱は少し落ち着いた。まだ油断はできないけれど、呼吸は朝より楽そうで、白湯も少し飲めた。若い水夫は腹を壊していたので、船の水樽が原因の一つかもしれない。完全にそうと決めつけるつもりはないけれど、水を替え、樽を洗い、しばらく様子を見る必要はある。


船長は案の定、怒った。


「荷を一日止めるだと? 香料は湿気を嫌う。損が出る」


「命を損なうより安いだろう」


「商売を知らない女だな」


「ええ、商売は詳しくないよ。人が倒れる前の顔色と、倒れた後に周りがどれだけ慌てるかなら、嫌というほど知っているけどね」


「こちらにも都合がある」


「病にも都合はあるんだよ。人が集まる港、汚れた水、疲れた船員、寝不足の商人。広がるなら、そういう隙間から広がる。あんたが荷を守りたいのは分かる。私は人を守りたい。荷も人も守りたいなら、今日だけは言うことを聞きなさい」


船長は口をへの字に曲げて、しばらく黙った。こういう人は、頭ごなしに叩くだけでは意地になる。荷が大事なのも本当だ。商人には商人の暮らしがあり、船長には船長の責任がある。だから、相手の大事なものを踏みつけにせず、こちらの守るものをはっきり伝える。前世の病棟でも、家族説明の時によく必要だったことだよ。


「一日だけだ」


「今のところはね。明日の朝、患者さんの様子と船員の状態を見て決める」


「強情な女だ」


「長生きしたからね」


「若く見えるが」


「見えるだけなら得だねぇ」


船長は理解できないという顔をした。無理もない。私だって、鏡に映る自分の若い顔を見るたびに、いまだに少し他人みたいだと思う。頬には張りがあり、髪には艶があり、手の甲には前世ほどの皺も血管の浮きもない。けれど、野菜の端を捨てるのが惜しいと思う心や、濡れた靴下をそのままにしている子を見ると叱りたくなる癖や、熱のある人の寝息を聞き分けようとする耳は、年を取った私のままだ。


日が傾くと、ルカ島はまた違う顔になる。

アドリア海の青は少しずつ金色を帯び、港の水面には帆柱の影が長く伸びる。白い石壁の家々は夕日に染まって蜂蜜色になり、神殿坂の上ではセラが灯を整え、中央井戸のそばでは女たちが水瓶を抱えて帰り支度をする。潮見畑からは芋を積んだ籠を背負った人たちが戻り、漁師通りでは干物を取り込む手が忙しく動き、どこかの家から子どもを呼ぶ声が響く。


この時間のルカ島は、本当にきれいだよ。

きれいなんだけど、きれいだけでは済まない。夕飯を作らなきゃならないし、患者さんの熱を見なきゃならないし、包帯を洗わなきゃならないし、ハクに魚をやらなきゃならない。美しい景色というものは、暮らしの仕事を代わりにやってはくれないからねぇ。


私は裏庭で包帯を洗った。

まず汚れの強いものを分ける。水で軽く落とす。灰を使った洗い液につける。よくすすぐ。煮る。干す。前世の病院では使い捨てが当たり前になっていたものも多かったけれど、こちらでは布一枚が貴重品だ。洗って、煮て、干して、また使う。古い知恵と清潔の考え方を、うまく折り合わせる必要がある。


「昔もねぇ、布おむつなんて毎日洗ったもんだよ」


私は誰にともなく言った。


ハクが首を傾げた。


「あんたには分からないか。前の世界ではね、赤ちゃんのおむつも、雑巾も、布巾も、毎日のように洗って干していたんだよ。冬なんて手が冷たくてねぇ。洗濯機があっても、干すのは人の手だった。お日様に当てた布はいい匂いがして、取り込むと少し温かくて、それを畳むと、家がちゃんと回っている気がしたものだよ」


「きゅう」


「そうそう。布は焦がさない。そこが大事」


ハクは分かっているのかいないのか、尻尾をゆらゆら振った。

その尻尾の先が洗い桶に当たりそうになったので、私は無言で持ち上げた。言わなくても伝わることもある。尻尾の管理は、今のところ本人より私の方が上手い。


夕飯は、患者さんには薄い粥、私たちには魚汁と焼き芋だった。

リアンが診療所の戸口に小魚を置いていったらしく、包帯を濡らさないよう気をつけた形跡があった。こういうところは本当にかわいい。エマは「どうせまた明日には怪我をする」と言っていたけれど、それでも小魚をさばく手つきは優しかった。


「エマ、塩は控えめにね」


「分かってる。ミオが言う前に分かってる」


「分かっている人にこそ言うんだよ。分かっていない人は、言っても聞かないからね」


「それ、ひどくない?」


「現実だねぇ」


診療所の小さな食卓に、エマとセラと私、それから床にハクが座った。ハクは自分の分の焼き魚を見つめて、待てと言われた犬みたいに震えている。竜なのに、こういうところは犬に近い。セラが食前の短い祈りを捧げ、私は心の中で、前世の母が食卓で言っていた「いただきます」の声を思い出した。


昭和の夕飯は家によって違うけれど、私の家では魚が多かった。

焼き魚、味噌汁、漬物、煮物、麦飯。テレビでは歌番組が流れて、父は新聞を広げ、母は台所と食卓を行ったり来たりして、子どもの私は魚の小骨をうまく取れずに叱られた。冷蔵庫の音、茶碗の触れる音、外を通る自転車のベル、近所の犬の声。あの時は何とも思っていなかったものが、今になるとやけに懐かしい。


人は、失ってから暮らしの音を覚えていることに気づくんだねぇ。


こちらの世界へ来てから、私は前世の家へ帰れない。

たぶん、あちらの私はもう死んだのだろうし、もし葬式があったなら、職場の誰かが来てくれただろうかとか、古い友人は驚いただろうかとか、そんなことを考える夜もある。子どもはいなかったけれど、長く働いた病院には、家族みたいに顔を見てきた人たちがいた。最後の夜勤で申し送りした新人さんは、ちゃんと一人でやれているだろうか。私がロッカーに置きっぱなしにした飴の袋は、誰かが見つけて笑っただろうか。


寂しくないと言えば嘘になる。

それでも、寂しさだけで一日を終わらせるには、ルカ島は少々騒がしすぎる。熱を出す人がいる。怪我をする人がいる。魚をくれる人がいる。小言を待っているような顔で無茶をする若者がいる。薬草を抱えて文句を言いに来る娘がいる。手洗い桶を抱えて走る神官がいる。お腹を空かせた小竜が、私の焼き芋を狙っている。


「ハク、それは私の芋だよ」


ハクの鼻先がぴたりと止まった。


「見ていなければいいと思ったね? 看護師はね、夜勤中に暗い病室で患者さんが点滴の管を触っている気配まで察するんだよ。芋を狙う竜くらい、目をつぶっていても分かる」


「きゅう……」


「半分だけ。熱いから冷ましてから」


「きゅ!」


エマが笑い、セラも口元を緩めた。

診療所の窓の外では、夕焼けが海へ溶けていく。旧灯台の方角に小さな灯がともり、神殿の鐘が静かに鳴る。遠くで誰かが歌っている。たぶん漁師通りの酒場だろう。今日の魚の出来が良かったのか、声に少し浮かれた調子がある。


夜の診療所は、昼よりも音がよく聞こえる。

マルコさんの寝息。若い水夫の咳。竈の火が小さく爆ぜる音。ハクが床で丸くなって喉を鳴らす音。棚の薬草が風に擦れる音。窓の外の波。そういう音を聞きながら、私は木札に今日の記録をつけた。


マルコ、香料商。高熱、咳、疲労強い。水分少量可。船水に異臭あり。

若い水夫、腹下し、寒気。隔てて休ませる。白湯。

船長、不満強い。明朝再説明。

リアン、左手毒棘。包帯濡らす危険あり。要監視。

ハク、朝食横取り一回、夕食未遂一回。要監視。


最後の記録は医療記録ではないけれど、診療所運営には大事な情報だよ。


書き終えてから、私は窓辺に立った。

夜のアドリア海は、昼とはまるで違う。黒い布のように広がり、波の頭だけが月明かりを受けて白く光る。沖の方には、停泊している小型船の灯が一つ、頼りなく揺れている。あの灯の向こうに、王都があり、知らない大陸があり、私の知らない人たちの暮らしがある。海は広くて、世界は遠い。遠いけれど、船一艘で熱も噂も香料も運ばれてくるのだから、まったく油断のならない広さだ。


昭和の町の夜も、こんなふうに静かな時があった。

街灯の下に蛾が集まり、遠くで電車の音がして、夏なら蚊取り線香の匂いがして、冬なら湯たんぽを布団に入れた。母はよく、寝る前に火の元と戸締まりを確認していた。水道の蛇口、ガスの元栓、玄関の鍵、雨戸。何度も何度も確認するから、子どもの頃の私は心配性だと思っていたけれど、今なら分かる。暮らしを守るというのは、そういう小さな確認の積み重ねなんだよ。


私は診療所の火を見て、水瓶の蓋を確認し、患者さんの布を直し、裏庭の洗い桶を伏せ、戸口の木札を確かめた。

手を洗う。水を沸かす。食べ物を無駄にしない。身体を冷やさない。怪我を隠さない。困った時は早めに言う。どれも立派な魔法ではないけれど、暮らしを守るには十分すぎるほど大事なことだ。


ハクが足元に寄ってきて、私の膝に額を擦りつけた。


「どうしたんだい。今日は魚も芋も食べただろう?」


「きゅう」


「甘えたいだけかい。まったく、竜のくせに赤ん坊みたいだねぇ」


私はハクの頭を撫でた。鱗はひんやりしているのに、その下には温かい命がある。前世の病棟で、熱のある子どもの手を握った時のことを少し思い出した。小さな手は不安で汗ばんでいて、こちらが握り返すと少し力が抜ける。人でも竜でも、生き物は見守られると安心するのかもしれない。


「さて、明日も忙しくなるよ。船長に小言を言わなきゃならないし、水樽を洗わせなきゃならないし、マルコさんの熱も見なきゃならないし、リアンの包帯も確認しなきゃならない。ハク、あんたは患者さんの粥を狙わない。いいね」


「きゅ」


「返事だけは本当にいい子だねぇ」


私は笑って、診療所の灯を少しだけ落とした。


海辺の小さな診療所は、今日も何とか一日を終えた。

王都の大きな医術院から見れば、ここはきっと頼りない場所だろう。寝台は三つ、薬は少し、器具は古く、雨の日には屋根の隅から雫が落ちる。けれど、この島の人たちはこの灯を見て、何かあれば駆け込める場所があると思ってくれる。私には、それがありがたくて、少し怖くて、やっぱり嬉しい。


若い身体になっても、心は年寄りのままだ。

年寄りの心というのは、失くしたものを数えるのが上手くなる代わりに、残っているものを大事にするのも上手くなる。

今日の粥の湯気。

洗って干した布。

港の夕焼け。

子どもの笑い声。

苦い薬を飲んで眠った患者さんの寝息。

半分だけ分けた焼き芋を、宝物みたいに食べた小竜。


そういうものを一つずつ数えていると、知らない世界での暮らしも、案外悪くないと思えてくる。


まったく、明日も朝から小言を言うことになるんだろうねぇ。

それでも私は、きっとまた湯を沸かし、布を干し、魚を焼き、診療所の戸を開ける。

だってここには、私を待っている人たちと、私の朝ごはんを狙う小竜がいるんだから。


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