プロローグ
まったく、若い身体というのは便利なもんだねぇ。
腰は痛くないし、目もかすまない。階段だってすいすい登れる。
けれどね、身体が若くなったからって、心まで若返るわけじゃないんだよ。
私ゃもう、無茶する患者と、言うことを聞かない家族と、夜勤明けのナースコールには散々鍛えられてきたんだから。
だからね、朝っぱらから診療所の裏庭で腹を空かせた小竜に前掛けを引っぱられようが、港の方から「ミオ先生、またリアンがやらかしたぞう」なんて、馬鹿みたいに明るい声が飛んでこようが、神殿坂の鐘が一つ半みたいな変な鳴り方をしようが、もういちいち腰を抜かしたりはしないんだよ。
腰は抜かさない。
その代わり、眉間には皺が寄る。
若い娘の顔に皺を刻むなんてもったいないと、宿屋のユーリィなんかは言うけれどね、こちとら前世で六十七年も生きて、看護師として四十年以上、夜勤のたびにナースコールの音だの、心電図の警告音だの、患者さんの「ちょっとだけトイレ」のちっとも「ちょっと」じゃ済まない事件だのに付き合ってきた身なんだから、皺の一本や二本で済んでいるなら、むしろ上出来というものだよ。
「ハク、前掛けを離しなさい。朝ごはんは今から焼くって、さっきから言ってるでしょうに。あんたの胃袋は港の倉庫かい。入れても入れても、ちっとも底が見えやしないねぇ」
私がそう言って、木桶の上に置いた小魚の山を指さすと、診療所の裏庭で丸くなっていた白銀の小竜は、つぶらな金色の目をこれでもかというくらい潤ませて、喉の奥から「きゅるる」と、まあ情けない声を出した。
最初に浜で拾った頃は、犬より少し大きいくらいだったのにねぇ。
今じゃ小さな山羊くらいの体格になって、翼を広げれば干してある包帯の端を引っかけるし、尻尾を振れば煮沸用の大鍋に当たってごんごん鳴るし、くしゃみひとつで焚きつけの薪に火をつける便利さと、洗ったばかりの布を焦がす迷惑さを同じ顔でやってのけるんだから、竜という生き物は本当に手がかかる。
「その顔をしても駄目。昨日の夜、ガルドさんがくれた干物を樽ごと食べたのを、私はちゃんと見てるんだからね。あんたは診療所の看板竜なのか、食費を飲み込む底なし井戸なのか、そろそろはっきりしておくれ」
「きゅう」
「返事だけはいい子だねぇ。返事だけなら、前世の新人さんたちにも勝てるよ。返事だけならね」
ハクは褒められたと思ったらしく、胸を張って鼻先からぷすんと白い煙を出したもんだから、私は慌てて干し場の包帯を一束抱え込み、乾いた布というものが辺境の診療所でどれだけ貴重か、ついでに火の粉が飛んだ時の後始末を誰がすると思っているのかを、朝の説教として丁寧に語って聞かせた。
このルカ診療所の朝は、だいたいこんな具合に始まる。
海から上がる風は、いつも塩の匂いを連れてくる。
赤茶けた屋根の上を撫でて、白い石壁の隙間を抜けて、診察室の窓から入り込んで、天井から吊るした薬草の束をゆらゆら揺らすんだよ。竈では湯が沸いていて、洗い桶には昨日のうちに煮ておいた布が干される順番を待っていて、診察机の上には木札の患者記録と、エマが昨日森から持ってきた青鈴草と、誰が置いていったのか分からない芋が三つ、まるで自分たちも診察待ちですと言わんばかりに並んでいる。
この島の人たちは、礼を言うのが少し下手でねぇ。
診療代の代わりに、朝になると戸口に魚が吊るされていたり、薪が積まれていたり、卵が二つだけ籠に入っていたり、薬草師のマーヤ婆が「余った」と言いながら、どう見ても余り物ではない上等な乾燥葉を置いていったりする。そういう時に正面から礼を言うと、皆そろって照れくさそうに逃げるから、私は気づかないふりをして鍋に入れたり、必要な患者に回したり、あとで市場のニナ婆さんに「最近、魚が勝手に診療所へ泳いでくるねぇ」と言っておいたりする。
こちらへ来たばかりの頃、私はこの島の人間ではなかった。
若い娘の姿で浜に流れ着いて、名前以外の身元はあやふやで、妙に年寄りくさい口をきいて、怪我人を見ると勝手に手を出すよそ者だったんだよ。今になって思えば、よく追い出されなかったもんだと感心するけれど、ルカ島の人たちは疑い深いくせに放っておけない性分で、怪しいと言いながら粥をくれて、不審だと言いながら毛布を貸して、変な女だと言いながら空き家だったこの診療所の鍵を押しつけてきた。
おかげで私は、二十代の身体で六十代の経験を振り回し、魔法もまともに使えないまま、海辺の小さな診療所で、傷を洗い、熱を測り、粥を炊き、包帯を煮て、腹を空かせたドラゴンの食費に頭を抱える毎日を送っている。
人生というものは、年を取ってからの方が思いもよらないことが起きるもんだねぇ。
前世の私は、たしか夜勤明けだった。
駅前の横断歩道を渡って、コンビニで買った安いおにぎりを鞄に入れて、家に帰ったら洗濯物を回して、そのまま昼まで寝ようなんて考えていた。信号の音と、雨上がりのアスファルトの匂いと、背中の奥に残った疲れだけは覚えているんだけど、そこから先は白い霧の中を歩いたみたいに曖昧で、目が覚めた時にはルカ島の砂浜で、口の中は砂だらけ、服は見たこともない布切れ、目の前では腹を空かせた小さなハクが私の袖を噛んでいた。
転生なんて言葉は、こちらの世界にも古い物語としてあるらしい。
神官のセラにそれとなく聞いてみたら、魂は灯のように巡り、神の手によって別の器へ移されることがある、なんて大層きれいな説明をしてくれたよ。神様の采配なのか、海の竜の気まぐれなのか、私の前世で積み残した仕事がよほど多かったのか、詳しい理屈は今も分からない。分からないものを無理に分かったふりで扱うと、医療でも人生でも、だいたいろくなことにならないからね。私は「起きてしまったことは観察し、記録し、今日できることをする」という、看護師時代からの癖に従って暮らしている。
「ミオ先生ぇ!」
港の方から、また声がした。
今度はさっきより近くて、石畳をばたばた踏む足音と、慌てた鴎みたいな呼吸が混ざっていたから、私は魚を焼くために持っていた火箸を竈の横へ置いて、洗い桶の水で手をすすいで、前掛けの端で拭きそうになった手を寸前で止めて、ちゃんと清潔な布で拭いた。
こういう小さいところで手を抜くと、あとで自分に腹が立つんだよ。
診療所の扉が開くより早く、リアンが半分転がるように入ってきた。潮風で焼けた顔、跳ねた髪、やけに人懐っこい笑み、そして左手を右手で押さえた姿を見ただけで、私はため息をつきながら処置台を顎で示した。
「座りなさい」
「まだ何も言ってないんだけどな」
「言わなくても分かる顔をしてるんだよ、あんたは。釣り針か、包丁か、貝殻か、魔物の子どもに噛まれたか、その四つのどれかだね」
「すごいな、ミオ先生。今日は五つ目だ」
「聞きたくないけど聞くしかないね。何をした」
リアンは妙に誇らしげに笑って、懐から手のひらほどの丸い貝を出そうとして、痛みで顔をしかめた。左手の親指の付け根には、細く赤い棘が刺さっていて、周りの皮膚がじわじわ腫れ始めている。毒棘か、異物反応か、海水に浸かった傷の面倒くささか、若い漁師の明るい顔より先に、私の頭の中では嫌な候補が行儀よく整列した。
「浜に珍しい貝がいてさ、ルゥとタムが触ろうとしたから、俺が先に取ってやろうと思って」
「子どもを止めたところまでは偉い。素手で触ったところから馬鹿だね」
「褒めるのと叱るの、同じ息でできるの器用すぎない?」
「前世で散々鍛えられたんだよ。患者さんというのは、褒めて伸ばしても、叱って止めても、結局また同じことをする生き物だからね」
私は木箱から細い鉗子に似た道具と、煮沸して乾かしておいた布と、消毒に使う酒と、エマ特製の渋葉液を取り出した。こちらの世界には便利な回復魔法があると聞くけれど、ルカ島の診療所には腕の良い回復術師なんて常駐していないし、魔法薬も高いし、そもそも汚い傷を光で塞いでしまったら、中に悪いものを閉じ込めることがある。魔法が悪いわけじゃない。使いどころを間違える人間が悪いんだよ。これは包丁も薬も小言も同じだね。
「痛い?」
「ちょっと」
「ちょっとの顔じゃないね。嘘の単位を統一しなさい」
「じゃあ、かなり」
「よろしい。痛みを正直に言える患者は長生きするよ。ハク、そこへ鼻を突っ込まない。これは魚じゃない」
ハクは処置台の下から顔を出して、リアンの手をじっと見つめていた。心配しているのか、棘を食べられるか確認しているのか、判断に迷う真剣さである。私はハクの額を軽く押し返し、リアンの手を洗い、棘の向きを確認して、深呼吸をさせてから慎重に抜いた。
リアンは天井の梁を見つめたまま、妙な声を出した。
「うおっ、母ちゃんに耳掃除された時みたいな嫌な痛みがした」
「分かるような分からないような例えをしない。血は少し出すよ。悪いものを押し流すためだから、勝手に止めようとしない」
「血って、出たら止めるもんじゃないの?」
「止める時と、少し出した方がいい時がある。これを聞いて、次から自分で判断しようなんて思わないこと。あんたの判断は、今この棘を抜かれている時点で信用残高が赤字だからね」
リアンは神妙な顔で頷いたものの、三日も経てばきれいに忘れる顔をしていた。こういう顔を、私は前世で何百回も見てきたんだよ。退院指導の時に「分かりました」と言いながら、退院したその日に揚げ物を食べて戻ってくる人たちと同じ顔だ。世界が変わっても、人間の「自分だけは大丈夫」は本当に変わらない。
処置を終えて、渋葉液を薄く塗って、清潔な布で軽く巻いたところで、診療所の扉がまた開いた。入ってきたのはエマで、腕に薬草の籠を抱えて、眉間に皺を寄せて、いかにも朝から面倒なものを見つけた顔をしている。
「ミオ、森の小径に冒険者っぽい連中がいた。薬草を根ごと引っこ抜いていたから怒鳴ったら、王都ではこれが高く売れるとか言って、私を子ども扱いした」
「それで?」
「一人の足首が倍くらいに腫れてた。毒草を踏んだんだと思う」
「連れてきたのかい?」
「連れてきてない。腹が立ったから、診療所の場所だけ教えて歩かせた」
「エマ、気持ちは分かるけど、毒が回って倒れたら担いでくる人手が増えるだけだからね」
「それもそうだった」
エマは真面目な顔で頷いて、リアンの巻かれた手を見て、またあんたかという表情をした。リアンは爽やかに笑って包帯を振ろうとしたから、私とエマの両方から同時に「動かすな」と言われて、肩をすくめるしかなかった。
ルカ島ではね、こんなふうに一つの怪我が終わる前に、次の面倒が戸口までやって来るんだよ。
釣り針、腹痛、熱、咳、出産、腰痛、切り傷、毒草、酒場の喧嘩、船酔い、薬の飲み間違い、子どもの鼻に入った豆、老人の「大丈夫」はたいてい大丈夫じゃない問題。王都の医術院にあるような立派な器具も、清潔な白い部屋も、十分な薬棚も、ここにはない。あるのは、海風で軋む古い建物と、欠けた器具と、鍋で煮た布と、薬草師の知恵と、神官の祈りと、漁師たちの無駄に大きな声と、私の年季の入った小言だけだ。
それでも不思議なことに、この場所はちゃんと診療所になっている。
最初は空き家同然だった建物に、今では島民が自分で作った棚がある。ポルが直してくれた器具箱がある。セラが書いた手洗いの木札がある。マーヤ婆が薬草の束を吊るす紐を張ってくれた。ユーリィが古布を縫って寝台覆いを作ってくれた。ハクが焦がした壁の跡も三つある。最後のは別に必要ないけれど、あれを見て子どもたちが笑うもんだから、塗り直す機会を逃している。
「先生、俺はもう帰っていい?」
リアンが処置台から降りようとしたので、私はその肩を押さえた。
「いいわけないでしょう。半日は海に入らない。包帯を濡らさない。赤く腫れが広がったらすぐ来る。熱が出てもすぐ来る。痛みが増してもすぐ来る。あと、珍しいものを見つけたら、まず棒でつつくか、エマを呼ぶ」
「棒でつつくのはいいんだ」
「素手よりは百倍ましだよ。もちろん、棒でつついて爆発するものもあるだろうけどね」
「怖いこと言わないでくれよ」
「怖いと思えるなら、まだ助かる見込みがある」
私は記録用の木札に、日付、名前、傷の場所、原因、処置、注意を書きつけた。文字は相変わらずこちらの世界の形に慣れきらず、前世の癖でところどころ変な線を足しそうになる。読めればいいんだよ。前世の病院で、達筆すぎる医師の字を暗号解読みたいに読んできた私からすれば、多少不格好な字なんてかわいいものだ。
リアンが診療所を出ていって、エマが薬草を棚に広げて、ハクがようやく焼けた小魚をもらって機嫌よく尻尾を揺らし始めた頃、神殿坂の方からセラがやって来た。白い神官服の裾を両手で持ち上げて、真面目な顔をさらに真面目にしている。こういう顔で来る時は、祈りの相談じゃない。たいてい、人間の身体に関わる困り事を抱えている。
「ミオさん、港に本土からの小型船が入りました。乗っていた商人の一人が高い熱を出していて、船長が神殿へ運び込もうとしたのですが、咳も強く、同じ船に乗っていた若い水夫も顔色が悪いようです」
エマの手が止まった。
ハクが魚をくわえたまま顔を上げた。
私は木札を置いて、洗い桶の水を見た。
朝の光が窓から差し込んで、診療所の床に四角い明るさを落としている。外では鴎が鳴いて、港の方から人のざわめきがかすかに聞こえる。島の日常は、いつも通りに見える。いつも通りに見える時ほど、油断してはいけないんだよ。
「船はどこに?」
「白帆港の東桟橋です。船長は早く荷を下ろしたがっています」
「荷はまだ下ろさせない。乗っていた人も勝手に降ろさない。セラ、神殿の手洗い桶を港へ持っていって。エマは渋葉と清潔な布を追加で用意。ハクは魚を飲み込んでから来なさい。くわえたまま走るんじゃないよ」
「きゅっ」
「返事はいいけど、今くわえているそれは私の朝ごはんの分だね?」
ハクは目をそらした。
そういうところだけ妙に人間くさいんだから、困った子だよ。
私はため息をついて、棚から古布で作った口覆いを取り出した。前世のような上等なマスクではないし、こちらの世界の人たちに理屈を説明するには時間がかかる。熱、咳、船、港、荷、人の集まり。頭の中で、嫌な組み合わせが静かに並ぶ。病というものは、剣を抜いて名乗りを上げたりしない。招かれなくても船に乗り、挨拶もなく家に入り、気づいた頃には寝床のそばに座っている。
「ミオ、まさか流行り病?」
エマが低い声で尋ねた。
「まだ決めつけない。決めつけると目が曇る。熱の原因なんて山ほどあるし、咳だって潮風で悪くなることもある。まず見る。聞く。触れる前に考える。必要なら隔てる。怖がらせすぎず、甘く見すぎず、できることを順番にやる」
「それ、いつものやつ」
「いつものやつが一番大事なんだよ」
私は前掛けを結び直して、診療所の戸口に掛けた木札を裏返した。そこにはセラの美しい字で、「急患対応中、勝手に入らないこと」と書いてある。最初にこの札を作った時、島民たちは大げさだと笑った。今では子どもでさえ、その札が出ている時は戸口から顔だけ出して「入っていい?」と聞く。
外へ出ると、潮風が頬を打った。
若い身体は本当に便利だねぇ。坂道を走っても膝が笑わない。息が上がってもすぐ戻る。視界は明るく、足元の石の段差までよく見える。前世の私なら、夜勤明けにこの坂を駆け下りるだけで翌日湿布のお世話になったに違いない。
それでもね、胸の奥にあるものは若返らない。
急患の知らせを聞いた時の、腹の底がすっと冷える感覚。患者の家族が期待と不安を一緒に抱えてこちらを見る時の重さ。助かるかもしれない命と、どうしても届かない命の境目に立つ怖さ。何年働いても慣れきることなんてなくて、慣れたふりだけが少しずつうまくなる。看護師という仕事は、人の命に触れながら、同時に自分の無力さにも毎日触る仕事だった。
港へ向かう道の途中、中央井戸のそばで双子のルゥとタムがこちらを見つけて、ぱっと顔を輝かせた。
「ミオ先生、ハクも行くの?」
「行くよ。あんたたちは井戸のそばから動かない。港へは近づかない。手を洗う。鼻をほじらない。お昼までに一回は水を飲む」
「多い!」
「命を守る注意は多いものだよ。覚えきれないなら、まず鼻をほじらないところから始めなさい」
双子は真剣に頷いた。
どうしてそこが一番響くのか分からない。子どもというのは、本当に不思議な生き物だねぇ。
白帆港に着くと、東桟橋には小さな商船が停まっていた。帆は畳まれて、甲板には樽と布包みが積まれて、船員たちは落ち着かない様子でこちらを見ている。船長らしき男は苛立った顔で腕を組み、港の者たちは距離を取りながらも好奇心で首を伸ばしていた。こういう時、見物人というのは悪気なく一番厄介なんだよ。
「離れて。みんな三歩、いや五歩下がりなさい。見ても熱は下がらないし、近づいても荷は安くならないよ」
私が声を張ると、港の人間は渋々下がった。日頃から小言を撒いておくと、こういう時に声が通る。小言は貯金だね。利子は信用として返ってくる。
船長が不満げに口を開いた。
「荷を下ろさないと困る。こっちは王都へ戻る日程がある」
「熱を出した人間を乗せてきて、咳のある水夫もいる船の荷を、そのまま市場へ運ばせる方がよっぽど困るんだよ。日程と命を天秤にかけるなら、私の前では命の方に重りを乗せなさい」
「お前は医師なのか?」
「看る者だよ。この島では、それで通じる」
船長は言い返そうとしたけれど、背後で咳き込む商人の苦しそうな音が響いて、言葉を飲み込んだ。甲板の陰に座り込んでいる中年の男は顔が赤く、目が潤み、額には汗が浮かんでいる。咳は深くて、胸の奥で絡むような音がした。若い水夫は青白く、唇が乾いて、やけに寒そうに肩を抱いている。
私は甲板へ上がる前に港の桶で手を洗い、口覆いをつけ、セラにも同じようにさせた。船員たちは奇妙なものを見る顔をしたけれど、私は気にしない。前世でも手袋を面倒がる人、マスクを鼻だけ出してつける人、手洗いを水で濡らすだけで済ませる人を山ほど見てきた。人間は世界が変わっても、面倒なことを面倒がる才能だけはたいへん豊かだ。
「名前は?」
「マルコ。香料商だ」
「熱はいつから?」
「昨日の夜からだ。寒気がして、朝には咳が出た」
「水は飲めてる?」
「少し」
「胸は痛む? 息は苦しい? 腹は? 吐き気は? 同じ船で他に具合の悪い人は?」
私は問いながら、商人の顔色、呼吸、汗、舌、手の震え、荷の状態、船内の風通しを見た。診断名をぱっと言い当てる魔法の目なんて、私にはない。あるのは前世で積み上げた観察の癖と、分からない時に分からないまま手順を崩さないしつこさだけだよ。
ハクが桟橋の下から顔を出して、商船の船底を嗅いだ。白銀の鱗が朝日に光って、船員たちがぎょっとして後ずさる。
「あ、あれは何だ」
「うちの子だよ。噛まない。魚は食べる。荷の干し魚を隠しているなら諦めなさい」
「竜じゃないか!」
「小竜だね。今はまだ食費以外は小さいよ」
ハクは褒められたのか紹介されたのか分からない顔で胸を張り、くしゃみをしそうになったので、私は振り向きもせずに言った。
「ハク、火は駄目」
「きゅ……」
しょんぼりした声がした。見なくても分かる。育児経験はないはずなのに、ドラゴンの気配だけは妙に読めるようになってしまった。人生は何を習得するか分からないものだねぇ。
商人の熱は高く、咳も重い。すぐに診療所へ運びたい。若い水夫も別にして休ませる必要がある。船内の水樽を確認して、食事を聞いて、同じ寝床を使った者を調べて、荷をしばらく止める必要もある。市場の連中は文句を言うだろう。船長も騒ぐだろう。領主代理のディモスは胃を押さえながら規則の本を開くだろう。私はたぶん、全員に小言を言うことになる。
まったく、朝ごはんの小魚さえ、まだ一匹も食べていないというのにねぇ。
それでも私は、胸の奥に小さく火が灯るのを感じていた。嫌な予感の火じゃない。忙しくなる、面倒になる、叱る相手が増える、眠れないかもしれない、そういう現実をまとめて引き受ける時の、古びた仕事用の火だ。前世の夜勤前、白衣の袖を通した時にどこかで点いていた火と、たぶん同じものなんだろう。
「セラ、担架を。エマ、診療所へ先に戻って寝台を一つ空けて。リアンは……帰ったはずなのにそこにいるね。あんたは港に近づくなと言わなかった私も悪いけど、せめてその手を上げて走るんじゃないよ」
人垣の後ろでこっそり見ていたリアンが、包帯を巻いた手を背中へ隠した。隠せば無かったことになると思うところが若い。若いというより、馬鹿である。
私は商人の肩に布を掛けて、なるべく息が楽な姿勢を取らせて、港の者たちへもう一度声を張った。
「みんな聞きなさい。怖がって逃げ回る必要はない。近づいて覗き込む必要もない。今日は港の水を勝手に飲まない。手を洗う。荷には触らない。熱や咳がある者は隠さず診療所へ来る。隠したら、治療の前に私の説教が一刻増えると思いなさい」
港の空気が少し緩んだ。誰かが笑って、誰かが真面目に頷いて、ニナ婆さんが「説教一刻は死ぬよりつらいね」と言った。失礼な話だよ、まったく。
商人を担架に乗せて診療所へ向かう時、私はふと東の空を見た。竜骨の断崖の方角に、薄い雲が白く長く伸びている。その形が、眠る竜の背のように見えたのは、きっと寝不足と空腹のせいだろう。そういうことにしておく。見えたものすべてに意味をつけていたら、辺境の診療所なんてやっていられないからね。
けれどハクはその雲を見上げて、喉の奥で低く鳴いた。
魚をねだる時とも、子どもに撫でられる時とも違う、聞いたことのない音だった。
私はハクの頭を軽く撫でて、商人の呼吸を確かめて、港から診療所へ続く坂道を歩き出した。海風は相変わらず塩辛く、白帆港では人々の声が波の音と混ざって、ルカ島の朝は騒がしいまま続いている。
この世界には、王都の魔法医師も、古代の竜も、沈んだ都も、まだ見ぬ外洋もあるらしい。
それはそれで、大事なことなんだろうねぇ。
けれど私の今日の仕事は、まず熱のある商人を寝かせて、若い水夫に水を飲ませて、港の人間を手洗いへ追い込んで、リアンの包帯が濡れていないか監視して、ハクが患者用の粥を横取りしないよう見張ることだ。
世界を救うなんて大きな話は、若い勇者と立派な魔法使いに任せておけばいい。
私はただ目の前の人の熱を見て、傷を洗い、眠れる場所を作り、泣いている子の背中をさすり、空腹の小竜に魚を焼く。
海辺の小さな診療所の一日は、そうやって始まる。
まったく、転生してまで働き者とは、我ながら損な性分だねぇ。




