その八
「ごめんなさいね。なんか誤解させたみたいで」
与野にある森下の自宅近くで、拓海は彼女を下ろした。窓越しに、申し訳なさそうな声が聞こえてくる。
「ええ、ああ……たぶん大丈夫です」
拓海は分かっていた。
大丈夫ではないことを。
それは森下も分かっていた。
「元カノか今カノか分からないけど、早めに本当のことを言うのよ。長引いたらよくないから」
「どちらでもないので……まあ……とりあえず、お疲れさまでした。また会社で」
森下は、すっかり元気がなくなった拓海の声に申し訳なさを覚えながら、手を振って別れた。
遠ざかる車を見ながら考える。
(たっくんは背の高い子が好きなのね。スタイルもよさそうだったし。しかも警察官か。にしても、片方は理沙ちゃんに少し雰囲気が似ていたな)
拓海はかなり焦っていた。
森下と別れ、早めに家へ帰ったのはいいが、会社のパソコンを開くこともなく、ずっとスマートフォンを見ている。
「やっぱり出ないか……」
拓海はすでに三回、東雲に電話をかけたが、彼女は出なかった。
怒っているのか、興味を失ったのか、悲しんでいるのかも分からない。
【言い訳しているみたいでごめんなさい。一緒にいた人は、本当に会社の先輩の森下さんで、既婚者で、子供も二人いる人です。まったくそういう関係ではありません。説明できるので、きちんと話したいです】
‘浮気だ‘と言われたわけではない。
‘誰なの、あの人‘とも言われていない。
‘どういうこと‘とも言われていない。
拓海はただ一人、誤解を解きたい一心で、余計な情報まで詰め込んだ文章を作って送る。
(読むだけでも、してもらえたら……)
その気持ちが通じたのか、意外にもメッセージにはすぐ既読がついた。
しかし、それから反応はなかった。
……
……
……
正直、あれ以降のしのちゃんは使いものにならなかった。
個人的には、あれを見たのが夕方でよかったと思うくらいだ。
話には集中しない。
書類は間違える。
飲み物はこぼす。
普段なら考えられないことばかりしていた。
「東雲、働きすぎじゃない? 少し飲みにでも行く?」
一つ上の交通課の先輩、宮原真紀さんが気を使ってくれた。
確かに、この頃私たちはずっと一緒に仕事をしていたので、そう思われても仕方がない。
それに、いい機会だとも思った。
真紀さんは若手女性警察官の間では相談役だし、合気道同好会でしのちゃんとも仲がいい。
自分がこういう相談に向いていないことはよく分かっているから、助かると思った。
「東雲、すごい店知っているね」
それで今、「ルートCA」という店に三人で来ていた。
二人の最寄り駅が蕨だったので、しのちゃんの案内で来た。
店に入ると、海外映画に出てくる犯罪者のような大柄な男がいて、私たちを見てから妙な顔をした。
その人がテーブルを指したので、座る。
雰囲気からすると、カウンターで注文するスポーツバーのような店だ。
好きになりそうだった。
ちょうど七時を回り、野球の試合もいい展開になっている。
「みんなビールでいいよね?」
真紀さんは手でオーケーの合図をし、しのちゃんは無表情のまま頭だけを縦に振る。
重症だな。
「ビール三つ、お願いしまーす」
「……お嬢さんは、彼女のお友達で?」
注文していると、大男がそう聞いてきた。
しのちゃん、もしかして常連?
「あ、はい。親友ですね」
「そうですか。店長の内田です。お見知りおきを」
やけに丁寧な態度だ。
見た目に似合わない。
太い腕がグラスを持ち、サーバーからビールを注ぐ。
しのちゃんには悪いけれど、私は面白くなってきた。
いじるネタを拾えそうだ。
「早乙女です。しのちゃん、よく来るんですか?」
「いいえ。先日、タック……いや、佐藤拓海と一緒に一度来られただけですね」
その名前に顔が固まり、しのちゃんを振り向いた。
しのちゃんは淡々と真紀さんと話している。
あいつ、この前言っていた店って、ここのこと?
どういう神経?
呆れた。
「タックをご存じで?」
「あ……はい。朝を一緒に過ごした関係、みたいな?」
別に嘘はついていない。
でも、店長は嘘だと感じたのか、軽く笑う。
「罪な男ですね。たぶん、何かやらかしたのでしょう。詰めが甘いので。でも、うちの常連ですし、私もオーナーも彼のことを気に入っているので、お手柔らかにお願いします」
軽い圧を感じる。
この人、場を制するのがうまい。
その空気に、自然と舌が唇をなぞってしまった。
それに気づいたのか、店長は似合わないウインクをする。
「この後の会話次第ですね」
「だから今、お伝えしているんです」
察しもいい。
勘もいい。
余裕まである。
こんな人、どこから湧いてきたんだ。
佐藤拓海、本当に危ない一面もあるんじゃないの?
……まあ、ひとまず様子を見るか。
本人には注意しているし。
私は軽く笑いながら、先に出たビール二杯を持ってテーブルへ戻る。
「真紀さん、今日ネタあるから」
そう言って、急いで店長が出してくれたもう一杯を取りに戻る。
ネタという言葉に、真紀さんは目を輝かせていた。
しのちゃんは……ずっと無表情。
「友達の話なんだけどさ。気になる人がさ――」
……
……
……
夜、早めに布団へ入った拓海は眠れなかった。
一階のリビングへ下りると、テレビの音が聞こえる。妹の美月が、まだソファで転がっていた。
キッチンから軽く飲むための酒を取り出す。
国産ウイスキーをロックで作りながら、スマートフォンを見る。
相変わらず反応はない。
食卓に座り、コンビニでのことを思い出す。
(なんであそこで、違うって言わなかったんだ……)
確かに邪魔は入った。
彼を止めたのは七海だった。
では、七海は拓海の味方なのかというと、別にそうではない。
それは拓海自身もよく分かっていた。
「拓海さー」
拓海が苦い顔をしていると、妹に呼ばれた。
「……女できた?」
軽い調子で聞かれる。
拓海がソファを見るが、美月はテレビを見たままだ。
拓海はその背中だけを見て、何も言わない。
妹は大きなため息をつく。
「夕食中に携帯見すぎ。お母さん、心配するでしょ」
拓海は母の真理子のことを考える。
確かに今日、夕食中に「ちゃんとご飯を食べなさい」と、珍しく注意されたことを思い出す。
彼は少し申し訳なく思った。
「拓海のことだし、うまくいってないんだろうけど」
余計な言葉が拓海を刺す。
ここにいても安らぐことはできないと思い、多めに残っていた酒を飲み干す。
部屋へ戻る前に、ソファ人間へ「おやすみ」と伝え、二階へ上がる。
その時、拓海のスマートフォンが鳴った。
「も、もしもし?」
慌てて電話を取りながら、部屋へ戻っていく。
『東雲です』
「はい。ごめんなさい、何回も電話して」
部屋のベッドに座り、拓海は耳を澄ませる。
何を言われるのか。
彼は不安でしかなかった。
『誰ですか?』
声に妙な圧がかかっている。
「一緒にいた人は、会社の先輩です」
拓海は、なるべく丁寧に、誤解がないように答えようとする。
『拓海さんは、ああいうのが好みなの? スーツ着て、アクセサリーつけて、大人の女性って感じの』
「いや、あれは本当にただの先輩で、好きとか好みとかではなくて。ただの先輩です」
『……なんで嘘ついたんですか?』
「決して嘘ではなくて……」
『私には、吸わないって言いましたよね』
拓海は思った。
そこか、と。
確かに彼は、東雲と初めて二人きりになった時に、タバコは吸わないと伝えた。
ある意味では嘘ではない。
普段は吸わず、付き合いなら吸える人間だった。
「はい。自分では持ち歩かないので……つい」
『私にも、灰皿を気にしていましたよね? その人とよく一緒だったから?』
それもか、と。
よく覚えているものだ。
あの時は、拓海としても東雲がどういう人か分からなかったため、先入観なく接するために確認しただけだった。
「東雲さん、それはですね……」
『この間も、その人と飲んだんですか?』
「この間は先輩と……あ、違う先輩で――」
『私も拓海さんと飲みたかったのに!』
「……ごめんなさい」
何か話すたびに裏目に出てしまう。
そこまで経験した拓海は、謝るという選択肢しかなかった。
『何がですか?』
「……誤解を招く行動をしてしまって……ごめんなさい」
『……違う』
「え? ……嘘をついてごめんなさい?」
『……違う』
拓海は考える。
しかし、先ほど飲んだウイスキーのせいか、頭が回らない。
何を謝ればいいのか。
『あたしを一人にしたことで――はい、電話代わりました。七海でーす』
途中で東雲の声が、七海の声に変わった。
拓海はすぐには理解できず、東雲の最後の言葉だけが頭の中を巡る。
(一人にした……? 俺が?)
「七海さん、どういうことか教えてもらえます?」
引っかかるところはあるが、まず普通の状況ではないと思った拓海は、七海に説明を求めた。
『ちょっと、しのちゃんに飲ませすぎた』
「どこですか? 迎えに行きましょうか?」
『彼氏面するね、拓海さんよ』
七海の嫌味な言葉に拓海は少しむっとするが、そのまま流す。
七海の声が続く。
『迎えはいらない。ここ、ルートCAだから。しのちゃんの家も知っているし、今日、私がしのちゃんの家に泊まるから、その辺は安心していいよ』
拓海は馴染みの店の名前に少し驚く。
‘なんでそんなところで泥酔するまで‘と思うが、原因が自分にあることを思い出し、何も言えなかった。
『一個だけ、いいこと教えるよ。今日の店、しのちゃんが選んだんだけどさ、あんたに会えるかもしれないからだって。まだ可能性あるよ、タック』
声の大きさにも、その内容にも、拓海はついていけなかった。
後ろから東雲の声も少し聞こえ、七海がけらけら笑い、店長が呼ぶあだ名で呼ばれる。
自宅のベッドの上で聞くには、つらいものがある状況だった。
『あと、タック。たぶん、しのちゃんはこの電話のことを覚えていないからさ、履歴は消しておくわ。ちゃんと、しのちゃんと話しなよ』
「……ありがとう」
七海の言っていることが、お礼を言うほどのことなのかは分からない。
それでも拓海は、経緯はどうあれ、自分のことをそれほど好きではない人が妙に助けてくれることに対して、礼を言いたかったのだ。
そして電話は切れた。
改めて謝りに行き、話をしなくてはならないと拓海は思う。
しかし、それと同時に不安もあり、内田店長へ電話をかけた。
『タック、なんだ? 彼女たちは帰ろうとしているよ』
「嫌味はいいんで。申し訳ないですけど、タクシーを呼んでもらえませんか。後で俺の方で精算しますので」
『ああ、それなら、しのちゃんが‘今日は全部タックにつけておいてください‘と言うから、そうしておいたよ』
その言葉を最後に、電話は切れた。




