その七
【ごめんなさい……その日もダメそうです】
夕方の会議後、会議室に残っていた拓海は、携帯を見てため息をつくしかなかった。
最近、東雲と拓海は不定期ではあるが、朝一緒にランニングをしていた。拓海としては走る距離も増えて健康的になり、東雲と楽しく過ごす時間も増え、かなりいい雰囲気だと感じていた。
しかもその流れで、真っ赤なウインドブレーカーに、まともなランニングウェアやシューズを持っていない拓海のために、東雲が一緒に買い物へ行くことも提案してくれて、上々な気分になっていたのだ。
しかし、五月の大型連休が近づいた四月末、警察官である彼女は忙しいらしく、何度か予定が変更になってしまった。
「どうした、拓海。振られたか?」
黒川の声に、拓海は思わずびくっとしてしまった。黒川がいたずらっぽい顔で拓海を見る。会議室にいた森下と水野も、拓海へ視線を向けていた。
「いや、姉から厳しいメッセージが届いていまして」
「おお、会計士で、美人で、バツ四の姉か!」
「合っているのは会計士だけですよ」
拓海はごまかすために、家を出ている姉を売った。困った時に使うカードだったため、逆にネタにされるようにもなってしまった。
「まあ、どうでもいいけどさ。明日、綾子さんとよろしく頼むよ。俺は理沙ちゃんと実験室で遊んでいるからさ」
先ほどの会議では、明日黒川が行く予定だった外部研究機関との会議について話していた。
水野がまとめている研究で急な実験対応が発生し、黒川が外出できなくなったため、代わりに森下綾子と拓海が行くことになったのだ。
二人は比較的家が近く、車一台で移動できるからと言われたが、実際には一番信頼できる森下と、黒川と知見が似ている拓海を行かせた方がいいという判断だった。
余計な仕事が差し込まれたことと、東雲に会えないことで、拓海はストレスを感じていた。
「やっぱり黒川さん、今日はおごりでお願いします!」
「おお、いいね。お前は折半だけどな。理沙ちゃん、綾子さんはどうする?」
「無理ですよ。今からじゃ、子供が待っているから」
「私もパスで」
つれない二人に、黒川が悔しそうな顔をする。しかし、拓海が会議室の窓からこちらを見ている若い女性を指差すと、黒川が少し笑った。
「やっぱり、ひなちゃんしかいないよな!」
会議室を後にして、三人は品川の飲み屋街へ消えていった。
【分かりました。無理しないで、落ち着いたら教えてください】
【あと、明日は走れません。これから先輩と飲みです】
夜、家に着いた東雲はその場に崩れ落ち、拓海からの返信をもう一度読む。
(あたしだって、拓海さんと飲みたいのに)
東雲は最近忙しい。
毎年この時期は、大型連休の事前対応の準備や、増加する春の街頭犯罪への対応に追われる。新生活の時期ということで住民からの相談も多く、今年は特に新人の佐久間の教育もあり、まともに休めない状況が続いていた。
(普通の社会人だったら……違ったのかも)
初めて浮かんだ考えに、東雲は自分自身でも驚く。
なりたくてなった職業を、こんなふうに考えることになるとは、東雲にとっても複雑な気分だった。子供たちに自分と同じ思いをしてほしくないから、警察官になったのに。
(ダメだな、あたし)
床に横たわったまま、もう一度拓海とのメッセージを読み返す。それから、仕事中のような無表情で立ち上がった。
会える時はそのうち来る。それまでは頑張ろう。
そう決めた東雲だった。
夕方の五時半を過ぎた頃、拓海は森下綾子と一緒に車に乗っていた。
二人とも、会社にいる時よりややかしこまったオフィスカジュアルを着ている。午前から外部との会議があったため、拓海が自宅近くで車を借り、森下を迎えに行ってから目的地へ向かった。
今は用事が終わり、逆の順番で帰っているところだった。
荒川と彩湖を越え、二人を乗せた車は、まず与野へ向かう。
「学会みたいだったね」
「本当ですよ。軽いのを二、三件って言われたのに、二時間の会議が三件連続ってつらいですよ」
一緒に文句を言ってくれる可愛い後輩を、森下は見る。
「でも、たっくんは今日もよくやってくれたよ。毎度助かるよ。黒川さんの無茶振りを、要領よくこなしてくれるから」
「すべては綾子様のおかげです」
やっぱり可愛いことを言うな、と森下は考えた。同時に、どうして彼女がいないのだろう、とも考えてしまう。
実は今日は久しぶりに拓海との同行だったため、それを探ることを森下は密かな任務として決めていた。任務を遂行できる最後の機会は、目の前にある。
「あそこの新幹線下のコンビニに寄ってもらえる? 最後にニコチンを補充したい」
拓海は迷わず指定されたコンビニへ入り、車を止める。二人は車から降り、自然と灰皿が置かれている場所へ向かった。
森下は小さな花柄のポーチからタバコを取り出し、一本を口にくわえる。同じポーチから、大きな蝶が刻印されたジッポライターも取り出し、火をつけた。それから二つとも拓海に渡す。
「え、今日かなり借りていますよ」
「いいの。こんな年の女が一人で吸っていると、やばい人に見えるから」
「じゃあ、また借ります。今度ちゃんと補充します」
森下から笑顔で了承の合図をもらい、拓海も自然にタバコへ火をつけた。
夕焼けの中で男女二人が紙巻きタバコを吸っている姿は、なぜか絵になっていた。
「たっくんは彼女を作らないの?」
森下の本題が始まった。
拓海は左手を上げ、左右に振る。今はここで東雲のことを話すつもりはない。
「誰も実家暮らしの男には興味ありませんよ」
「またまた。誰かいるんでしょう?」
「いや、いませんね。隣が寂しいですよ」
「そんなこと言っているけど、ほかのチームの子からも、この前のバレンタインにチョコをもらっていたじゃない」
拓海はこの話題から逃げたかった。しかし、森下はなかなか流してくれない。拓海は深くタバコを吸い込む。
「外にいないなら、内側で探してもいいじゃない?」
「内側って、水野と西村ですか? 完全にないですね」
「なんでよ。ひなちゃんは可愛いし、理沙ちゃんも美人じゃない?」
困った顔をする拓海を、森下は楽しそうに笑いながらいじり続ける。
一本目のタバコが終わりそうになったため、拓海は灰皿へ捨てる。
「まず、西村さんは人として見ていません。酒の精霊だと思っています」
「え? 理沙ちゃんはあり? 私、たっくんと理沙ちゃん、すごくいいと思うんだよね」
そう言いながら、森下もタバコを捨てる。それから再び二本取り出し、拓海へ一本渡した。
「いや、水野さんは俺のことを嫌っていますよ」
「そうかな? 理沙ちゃん、そんなこと言っていないよ」
そう言いながら火をつけようとしたが、なかなかライターがつかなかった。
拓海は一度ため息をつき、ライターを借りて森下のタバコに火をつける。その後、自分のタバコにも火をつけた。
「理沙ちゃん、クールな美人って感じで、性格もしっかりしているじゃない。仕事はできるけど、少し詰めが甘いたっくんとは相性抜群だと思うけどね。二人が並ぶと結構様になるし、ほかのチームから言われたこともあるよ。あの二人、付き合っているのかって」
拓海はタバコを深く吸い込む。
森下には申し訳ないが、拓海にとってはありえない選択肢だった。東雲との関係以前に、水野は自分を邪魔者として見ていると、拓海は考えている。
「森下さん、頼みますから、それを水野さんには絶対に言わないでください。たぶん、俺は男としても見られていないので」
「そうなの?……ん?あれ?」
拓海が森下へ一層近づいて訴えたところ、森下は妙な声を出して拓海の後ろを見た。
拓海も自然にそちらを振り向く。
警察官が二人。背の高い人と、平均的な身長の人の組み合わせ。
七海と東雲だった。
「さっきからすごく見られているけど、知り合――」
「拓海さんじゃん!」
森下の声をかき消す勢いで、七海の声が聞こえた。
拓海は、今はタイミングがよくないと思いながら、森下へ少し待つように伝え、タバコを捨てて二人の方へ向かう。
東雲は無表情で、七海は少しいら立っているように見えた。
「拓海さん、タバコ吸うんだ?」
七海が嫌味のような口調で話す。
拓海はまだ状況を整理できていない。なぜこんなところに二人がいるのかと思っている。
ひとまず、‘お疲れさまです‘と声をかける。一度東雲を見ると、彼女は目を合わせず、無表情のまま話した。
「管轄内のパトロール中です。拓海さんは何をしているんですか?」
東雲のこの顔を、拓海は知っている。
仕事中の、柔らかさのない顔だ。ここ最近会っていた東雲とは違う。
拓海は今、かなりよくない状況に置かれていることを察した。
「今、会社の先輩と外出した帰りです。タバコを吸いたいということで、こちらへ寄ったところです」
拓海が言い訳のように早口で話している間、七海は拓海の肩越しに、まだ一人でタバコを吸っている森下へ視線を送る。
細身で、身長はやや高め。グレーのロングスカートに、同色の大きめのジャケット。ヒールのあるパンプスや金属のアクセサリーが、品のよさを醸し出していた。
森下はタバコを吸いながら、無言で拓海を見ていた。
東雲もまた無表情のまま森下をちらりと見てから、左手を軽く握る。
「そうですか。分かりました。また連絡します」
東雲はその言葉だけを残し、コンビニへ入った。
理解してくれたのかどうか、拓海には分からなかった。
しかし、今‘違う‘と言わなければと思い、振り向こうとした時、七海が拓海の肩をつかんだ。
「応援するつもりはないけど、言い訳するなら後で、ちゃんと二人の時にしなよ。私たち、あんたが火をつけてあげるところから見ていたから。あれ、マジで怒った時だから」
そう言ってから、七海は拳で拓海の胸の辺りを軽く叩き、コンビニへ入っていった。
拓海は痛くなかった。
しかし、心臓の下辺りで、苦い何かが左右に激しく揺れていた。




