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その六

 七海は警察署に戻り、少し休憩してから当番の引き継ぎ業務を終えた。退勤のために着替える前に、東雲がいる地域課へ向かう。


 「おー、早乙女。どうした? 朝から」


 東雲がいる班で唯一明るい性格の中原浩二が迎えてくれる。奥のデスクにいる牧野建一班長と小杉慎一郎主任は、七海に軽く視線だけを送り、挨拶を済ませる。


 「しのちゃん、まだ来ていないですか?」

 「佐久間君の座学中」


 中原は後ろの簡易打ち合わせスペースを指差す。七海は軽く頭を下げてから、そちらへ向かう。


 「おはようございます!」


 東雲の前に座っていた若い好青年、新人の佐久間は、七海の登場に立ち上がって挨拶する。彼は配属が遅かったので、東雲から座学の特訓を受けていた。

 大きすぎる彼の声に、七海は耳が痛いふりをしながら、奥にいる東雲に外へ出るように話す。


 「何ですか? 今、教育中なん――」

 「取り締まり、外国人、眼鏡、佐藤拓海」


 東雲が不満を言い出す前に、七海は早口言葉のように単語を並べた。東雲はそれに即座に反応して立ち上がり、佐久間に本を読むよう指示して、七海を連れて外へ出た。


 「何で名前を知っているんですか?」

 「今朝会って、話した」


 人通りの少ない廊下で東雲が問い詰めていくが、七海は軽くかわす。


 「会ったって何? え、余計なこと言ったんですか?」

 「違うよ。巡回してたらさ、偶然見かけてさ。しのちゃん知ってる? って聞いただけ」

 「絶対嘘ですね。巡回? 浦和競馬場で見張ってたの?!」


 声が大きくなる東雲。それを見て、七海は余計なところで頭が回る子だと考えた。それから、この勢いに負けると余計に怒られる。


 「しのちゃんが走る場所、言っといたから。明日行くって」


 東雲は戸惑う。七海が自分のためにわざわざきっかけを作りに行ってくれたことは分かる。しかし、東雲はただ舞い上がることはできなかった。


 (会って……何をすれば)


 その答えを、東雲は持ち合わせていない。それに気づいている七海は、隣に立って小さな声で話し出した。


 「行かないの? 会いたいんでしょう? それとも怖くなった? やめとく?」


 七海は、本当のところは違うことを言いたかった。

 あの男には少し注意してね。あまりハマりすぎないでね。何でもかんでも与えないでね、と。

 でも、分かっていた。それを今言ってはいけない。

 選ぶのは、東雲自身でなければならない。たとえよくない結果になっても、自分が帰る場所になれればいいと考えた。


 「……行きます。会って、話したいの」


 その言葉に、七海は妙に喉が渇く気がした。しかし、友人に知られるわけにはいかない。七海は満足そうな笑顔を作り、東雲の背中を叩いた。


 「あんまり走りすぎるなよ。ついてこられないかもしれないし」




 土曜の昼過ぎ、拓海は赤羽駅で乗り換えを待っていた。少し明るめの色落ちデニムに、カジュアルな赤系のチェックシャツ、ワークブーツ。なるべくきれいめな印象になるようにした。

 出かける前、妹の美月からは「それで出るのか」という目で見られたが、いつものことなので拓海は無視した。

 彼は今、デートへ向かおうとしている。


 (まともなデートって、いつぶりだ?)


 彼は信野医薬に入社してから、恋愛をする暇がなかった。学会からのスカウトに近い形での採用だったうえに、配属先の上長である黒川は、酒好きという印象とは違い、純粋に結果を求める人でもあり、期待に応える必要があったからだ。

 留学時代は、向こうの文化や友人の紹介などもあり、コーヒーデートくらいは何度かしたが、日本でいうデートとは重みが違った。

 それ以前となると、大学一年か二年の頃まで遡る必要があり、拓海は考えるのをやめた。



 七海がかき回した翌日の朝六時、二人は上谷沼運動広場で確かに出会った。

 ただ、話せた時間はあまり長くなかった。挨拶をして、東雲が七海のことについて慌てながら説明していたら、帰らなければならない時間になっていたのだ。

 大人には予定がある。

 拓海は、時間を決めた自分に腹が立った。今までも周囲から詰めが甘いと言われることはあったが、この時ほど実感したのは初めてだった。


 「今度、デートしましょう。腰を据えて話せるところで!」

 「池袋に落ち着けるカフェがあるんです。そこならゆっくり話せます」


 慌てて拓海が申し出ると、東雲は待っていたかのように答えた。

 細かなことは、「連絡をちゃんとする」ことを約束して別れた。



 そして今、拓海は池袋の「Ina flower」という花屋の前に立っている。東雲から送られてきた地図にある建物は、ここで合っている。

 二階にカフェらしきものが見えるが、階段が見つけられない。


 「カフェへの階段は、左奥です」


 花屋の中から女性の声がして、階段の場所を教えてくれる。拓海は礼を言い、左奥の階段を上っていく。

 木でできた手すりに沿って階段を上り、約束した場所であるカフェ「イナトマメ」に入った。

 拓海がカフェに入ると、広がるコーヒーの香りを感じた。それから、まず目に入ったのは、入り口から正面に見える壁の上部が本で埋まっていることだった。

 そして、その下の席に座り、横にある大きな窓から外を見ている東雲美咲。


 「こんにちは。早かったですね」


 拓海が声をかけると、東雲は少し驚いて拓海を振り向く。

 真っ白なスニーカー、裾の広い黒いパンツ、黒のTシャツに薄いラベンダー色のカーディガンを羽織っている。

 今まで拓海が会った時の姿よりもずっと柔らかく、よく似合う服装だと感じた。カフェの雰囲気とも相まって、彼女が一層華やかに見えていた。

 テーブルには、スマートフォンとメニューだけが置かれていた。


 「まだ頼まれていないんですか?」

 「はい、私も着いたばかりで」


 拓海はメニューを二人で見られるように置き、さっと目を通した。東雲も一緒にメニューを見るが、彼女が頼むものは決まっていた。


 「いつも何を頼まれますか?」

 「普通のホットコーヒーです。ここの酸味が好きなので。あと、チーズケーキですね」


 拓海は、どちらかといえば苦味のあるコーヒーの方が好きだった。ただ、酸味の強いものを飲む時の飲み方も決めている。

 しかし、チーズケーキはいらないと思った。もともとケーキ類はあまり好きではない。

 拓海が注文を決めたようにうなずくと、東雲が手を上げる。入り口近くの低めのカウンターに立っていた夫婦のうち、奥さんが出てくる。

 東雲は話した通り、ホットコーヒーとチーズケーキを、拓海はアイスコーヒーを注文した。

 拓海は、初めて訪れた店内をじっくり見回す。

 グレーとブラウンを基調にした内装で、太陽の光が大きな窓からよく入るためか、照明は強くない。窓際には一人用の席が六席あり、テーブルは五つ。

 大勢で来ておしゃべりをするというより、一人で時間を楽しむための空間に見えた。


 「階段、すぐ見つかりました?」

 「いや、分からなくて。花屋の方が教えてくれました」

 「たぶん澪さんですね。このカフェの娘さんです」


 話を聞いて、詳しいのだなと拓海は思う。よく行くことはメッセージのやり取りで知っていたが、かなりの常連に見えた。

 拓海には、東雲がこの場所にとても馴染んでいるように見えた。馴染めていないのは自分だけだと考えてしまう。


 「お詳しいですね。お友達とかですか?」

 「以前、気になって花屋にも寄ってみたら、私がカフェによく出入りしているのを知ってくださっていて。通っているうちに……という感じですね」


 この人は、興味のあるものや好きなものに対しては、意外ときちんと行動する人なのだと、拓海は改めて感じた。


 「パーソナルカラリスト、という資格も持っていて、個人的なアドバイスももらったんです」


 その資格は、拓海も聞いたことがある。妹の美月が持っているはずだ。

 彼女は拓海から見れば、スマートフォンを握りしめ、ソファで寝転がっているニートだが、美容やファッション系の記事を書いたり、インフルエンサーのようにフォロワーへおすすめの商品を販売したりしながら生計を立てている。

 拓海は、東雲が羽織っている薄いラベンダー色のカーディガンに視線を向ける。この間、早朝に会った時も同じ色のキャップをかぶっていた。


 「この色も、澪さんが勧めてくれて、身につけるようになりました」


 拓海の視線がカーディガンに向いていることに気づき、東雲は少し自信なさげに話し出す。


 「ファッションとかに疎くて……前は仕事着みたいな落ち着いた色をよく選んでいたんですけど、澪さんが、オフホワイトとか、ワインレッドとか、スモーキーブルーみたいな色が似合うと言ってくれて。そこからそういう色を取り入れたら、七海とかも、すごく垢抜けたと言ってくれました」


 拓海は想像してみるが、すぐに諦める。彼もまた、ファッションに詳しい人間ではない。

 留学時代の経験もあり、丈夫、汚れても大丈夫、楽、という基準で服を選んでいる。仕事では、オフィスカジュアルの既製品をそのまま着回す人間だったので、言われた色合いを具体的に想像できなかった。


 「知識がなくて分からないですが……その服、とても似合っていると思いました」


 東雲は一瞬、言葉を詰まらせる。それから、恥ずかしいのか手で顔を隠した。

 その愛らしい仕草に、拓海は思わず優しい笑顔になる。普段はこんなにも柔らかい人なのかと考えてしまった。

 そう思っているところに、注文したコーヒーなどが届く。奥さんが妙に笑みを浮かべていたのは、拓海の勘違いだろうか。


 「そういえば、東雲さんはランニングも結構本格的な感じでしたよね?」

 「あ、はい。運動関係は、周りにちゃんとしたものを買いなさいとうるさく言う人がいて」

 「七海さんですか? 確かに詳しそうですもんね」

 「いいえ。七海は適当なので、言える立場ではありません」


 食い気味に友人を否定する。

 先日の朝のことを経験した拓海としては、東雲は七海に対して少し厳しい気がした。それほど七海を信頼しているということなのか、七海がただ友人の前では頼りなくなるだけなのか。

 言い終えてから、東雲ははっと何かに気づいた顔になり、急に話し出す。


 「あたし、子供の頃から合気道をやっていて、その先生から言われたんです。女性の方なので……その……」


 言い訳がましく、東雲は語尾を濁す。

 ‘男の人から言われたわけではありません‘と言い切れない。

 それよりも、合気道という言葉に、さすが警察官だと拓海は思っていた。しかし、こういう反応は好きではないだろうとも思う。

 拓海は軽く流すことにして、ストローでコーヒーを飲んだ。その顔を見た東雲は、なぜか落ち込んだように見えた。


 「七海さんとは、いつから仲がいいんですか?」


 拓海は話題を変えるために、七海の話を使うことにした。

 拓海の口から親友の名前が出たことで、東雲は一瞬妙な気分になったが、すぐに出会った頃を思い返しながら話した。


 「警察学校で初めて会ったので……かれこれ七年くらいですかね。配属先まで近くなるとは思っていませんでしたけど」


 それから、好きなチーズケーキにフォークを入れる。

 東雲は一瞬、拓海を見上げる。猫のような目が「食べますか」と語っているようだった。拓海は手を振る。


 「俺、あまりケーキ系は食べないんですよ。気にせず食べてください」


 少し残念そうな顔をした東雲は、自分の口へケーキを運ぶ。拓海は再びアイスコーヒーを飲む。

 何となく、以前の夜のような盛り上がりとは違う雰囲気だと、二人は感じていた。

 話しやすく、一緒にいて嬉しいという意味では変わらなかった。しかし、そこには妙なぎこちなさがあるような気がしたのだ。

 わずかな静寂の中、二人はゆっくりとコーヒーを飲む。


 (拓海さんは、あたしに遠慮している?)


 ぎこちなさから、東雲はそう思ってしまう。

 彼女はカップを両手で持ちながら、拓海を盗み見た。彼は相変わらず穏やかだった。しかし今日は、以前よりも遠くから距離を測られている気がした。


 (やっぱり七海、何か言った……?)


 頭の中に、親友の笑顔が浮かぶ。不安が立ち上がる直前に、拓海の声が聞こえた。


 「……何だか、前より緊張しますね。いや、俺だけかな?」


 少し苦笑いしている拓海を見て、東雲は思わず目を丸くした。


 「前は酒と勢いに飲まれていましたけど……今回は、ちゃんとデートなんだと考えたら、逆に変に考えすぎてしまって」

 「……あ」


 東雲は小さく声を漏らした。自分も同じだったからだ。

 優しい彼に嫌われないように。変に思われないように。妙な沈黙にならないように。

 この時間を大切にしたいと考えていた。だから、うまく会話のキャッチボールができなかった。

 拓海の言葉に、東雲は心のどこかがようやく安心できる気がして、少し笑みを浮かべた。

 拓海は大きく深呼吸して、再び話し出す。


 「七海さんに、『ちゃんと連絡しろ』って怒られませんでした?」

 「怒られました」

 「俺も似たようなことを言われましたよ」

 「え?」

 「『しっかりしないと殺す』って感じでした」


 東雲が吹き出し、拓海にも自然な笑顔が戻った。

 ようやく二人は、きちんと話し合うことができそうだった。




 木でできた手すりに沿って階段を下りていくと、鮮やかな彩りが迎えてくれた。拓海と東雲は、階段の先、左手に広がる花屋へ目を向ける。


 「今日はデートですか?」


 花屋の店主が東雲美咲に気づき、優しく声をかけてきた。

 デートという言葉に、東雲が固まる。


 「ち、違……」

 「違わないですよ?」


 拓海が隣で笑いながら、すぐに突っ込む。東雲は耳まで赤くなってしまった。

 稲葉は笑みを浮かべながら、東雲のカーディガンに触れる。


 「すっかり似合う色になりましたね。彼氏さんもそう思うでしょう?」


 拓海は「彼氏」という言葉に一瞬詰まったが、首を縦に振った。

 そこからしばらく、稲葉は拓海を無視して東雲を責めていった。

 ‘もっと墨色より黒を選びなさい‘、‘今日は化粧が濃い‘、‘今度は差し色にダスティローズを入れよう‘など、気になる男性が隣にいる時には言われたくないことも含めて、小言を言われる。

 小さくなる東雲は、まるで叱られている猫のようだった。

 拓海としては、あんなにも言われるのかと思った。先ほど東雲が澪を紹介した時に抱いた、優しいお姉さんというイメージを思い出そうとしたが、できなかった。


 「彼氏さんは、もう少し柔らかい色も似合いそうですね」

 「え、私ですか?」

 「赤系もお似合いですけど、チャコールとかスモーキーブルーも絶対に似合います」


 標的が変わった。

 拓海は少し困った顔をするが、稲葉は止まらなかった。

 東雲が拓海を見る。

 ……少し、見てみたいと思った。




 帰り道、二人は夕食を一緒に取らず、そのまま池袋を後にした。

 拓海から声をかけてみたが、東雲は、まだ緊張していて何も食べられそうにないと正直に答え、「今度また一緒に行ってください」と言った。

 「ちゃんと連絡」という言葉がついていたことで、拓海は安心した。

 蕨で東雲が降りると、すぐに東雲からメッセージが届いた。


 【今度は、途中で帰らなくていいランニングもしたいです】


 「お願いします」と書かれた猫のスタンプもついており、拓海は笑みを浮かべた。すぐさま「明日でも行けます」と返す。

 そこからしばらくメッセージが続いた。

 毎日会ってもいいんですか、何時がいいですか、と、顔を見て会話したためか、次々とメッセージが重なった。

 拓海が最寄り駅で降り、自宅へ着くまで彼女とやり取りを続け、とりあえず翌日の午前に浦和競馬場の近くで落ち合うことにした。

 昼食も一緒に食べましょうという約束もできた。

 デート中に次の約束も取りつけられたので、久しぶりのまともなデートとしては悪くない出来だったのではないかと考えた。


 「ただいま」


 拓海は玄関から入り、ワークブーツを脱ぐ。脱ぎながら、玄関横にある鏡に映った自分の姿が目に入った。

 しばらくその姿を見てから、リビングへ向かう。

 リビングでは、ラフな格好で団子頭にしている妹の美月が、ソファと一体化していた。


 「美月」

 「何?」

 「……スモーキーブルーって、何色?」


 美月がスマートフォンから顔を上げた。

 数秒後。


 「お前、何があった?」

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