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その五

 東雲美咲は恥ずかしかった。

 朝、目が覚めた時間はいつもよりだいぶ遅かった。今日行くはずだったランニングに行くことは、もちろんできない。急いで支度をして、家を出なくてはいけなかった。

 こうなった理由は分かりやすい。昨日、飲みすぎたこと。そして遅くまで一人で舞い上がっていたことだ。

 出勤中、昨日のことを思い出してみる。

 自分はどれほど異常なことをしていたのか。

 見知らぬ男性に声をかけ、降りる駅を乗り過ごし、飲みに行き、話に花が咲き、連絡先を交換した。

 東雲美咲としてはありえないことが、何度も立て続けに起きていた。無論、途中で不安や怖さ、警戒心が強くなった瞬間もあった。しかし、時間が経ち我に返ると、恥ずかしいという感情が独り勝ちしてしまい、東雲を責め立てていた。

 スマートフォンに表示された、まだ馴染まない名前と一緒に。




 数日後、拓海は信野医薬のオフィスで仕事をしていた。

 夕方の日差しが少し差し込む場所で、キーボードを叩きながら作業を進めている。先ほどの打ち合わせから上がってきた宿題事項の処理も、不足資料について関係大学や官公庁に問い合わせる作業も、順番にこなしていく。

 ひと段落すると、眼鏡を少し下げ、背筋を伸ばす。それから、机に出してあるスマートフォンに目が向いた。


 (連絡、できないなあ)


 楽しかったあの夜から、すでに数日が経ち、週末も挟んでいる。東雲からは何も連絡が来ず、拓海自身もまともに連絡を送れなかった。

 理由は特にない。

 あの日、翌朝起きたら「おはよう」のメッセージを送ろうと考えながら眠ったが、朝にはそんな余裕がなかった。遅刻寸前だったので、好きでもない上野東京ラインに乗り、人に揉まれながら、いそいそと会社へ向かった。

 珍しく飲み会の翌日にきちんと出勤している黒川と、まともな仕事の話をし、出国するショーンと電話をし、研究の進捗について水野と議論し、早川への指導もしていたら、一日が終わってしまった。

 家へ帰る京浜東北線の中で、メッセージの文面は考えてみた。


 1.【昨日、ちゃんと帰れた?】

 2.【早速ですが、次に会う予定を決めませんか】

 3.【また会いたいな】


 どれも、付き合いたての不器用な彼氏のような言葉しか出てこなかった。

 それを見て、拓海は考え込んでしまったのだ。

 彼女との関係を、どう呼べばいいのか。

 少なくとも、ただの知人ではない。だからといって恋人というには、彼女との距離や関係性が曖昧で、その疑問が再び拓海の動きを止めた。

 あの日の反応から、こちらに好意があることは確信している。しかし、その好意が男として向けられているのか、人として向けられているのかは、彼には分からなかった。

 そこまで考えると、メッセージを送るには、もう少し考える必要があると思い始めてしまったのだ。




 「はあ? 会った?! その眼鏡君に?」


 東雲は退勤する際、すれ違った当番の七海に、合コンの後に起きたことを話した。


 「なんで今言うのよ! 一週間近くも隠し事するって、どういうこと?! もっと早く私の酒のあてになってよ!」


 東雲としては、別に隠すつもりはなかった。ただ、こうなることが見えていたから、どこか区切りのいいところで、きちんと話すつもりだった。

 こうなるまでは。

 七海は最初から興味津々で、どうやって声をかけたのか、何をしたのか、どこへ行ったのか、何を話したのかと、根掘り葉掘り聞いて楽しんでいた。

 しかし、別れた後、一度メッセージを交わしたきり、まともに会話ができていない現在の状況を知ると、少しキレかけていた。


 「携帯貸せ! あたいが今すぐ打ってやる!!」

 「いや、そういうのはいいから」


 東雲は冷静に彼女を止めた。

 しかし、本人としても思うところはかなりあった。交換した時は、他の人と同じように普通にメッセージを送ればいいと思っていたが、いざ送ろうとすると言葉が出なかった。

 どう始めればいいのかすら、東雲には分からなくなってしまった。

 もちろん、子供ではないので調べることはした。


 1.偶然会って飲みに行った人にメッセージを送る方法

 2.男性とメッセージを始める方法

 3.また会いたい人にメッセージを送る方法


 ここまで調べて、出てきた内容を見た東雲は、まるで自分がナンパ女になったような気分になり、スマートフォンをそっと置いてしまった。


 「私に送るみたいに、普通にやればいいじゃないの?」

 「七海とは違います。普通が分かっていれば、こうなりません」


 考えてばかりいる女の素早い言い返しに、七海は思わずため息をつく。

 七海は、少なくともこの五年ほど東雲に彼氏がいないことを知っている。また、以前本人や美咲の兄である伸也から聞いた話では、おそらくそれ以前にも、まともに付き合った人はいなかったのだろう。


 (ずっと一人でいるつもりだったからなあ。確認ついでに一肌脱ぐか)


 七海は腹を括り、少し困った顔になりつつある無表情の東雲に、早く退勤するよう言い渡す。帰ったら、メッセージの候補を五個、自分に送るようにも要求した。

 東雲は不服そうな顔をするが、業務の邪魔をしてはいけないと思い、素直に帰ることにした。

 駅へ向かいながら、ぼそりとつぶやく。


 「五個も書けませんよ」




 ……

 ……

 ……

 朝の五時から、この辺りを白バイで走っている。

 浦和競馬場。しのちゃんの話では、眼鏡君は朝、この辺りを走ると言っていた。

 毎日ではないし、会える確率は低い。でも当番だし、ちょうどいい機会だと考えた。

 昨日の夕方、しのちゃんは珍しくもじもじしながら相談してきた。


 『どう声をかければいいのか……分からなくて……』


 職務訓練では鬼の教官、地域課では頼れるエースと呼ばれるくせに、恋愛となると高校生以下だ。

 恋愛耐性がまるでない二十代後半の女子は、こんなにも哀れなのか。

 それに、自覚もないのだろう。

 自分が好きになると、真っすぐ落ちるタイプであること。

 駆け引きもしない。

 嫌われることを怖がって、自分からは何もできない。

 だから、相手に問題があれば困る。

 それなのに。

 しのちゃんの話を聞いて、私は引っかかってしまった。

 ちょっと、いい男としてできすぎじゃない?

 後押しするにも、確認は必要だ。

 少し離れたところから、赤いウインドブレーカーを着た人が走ってきている。日本人にしてはしっかりした体格で、考え事をしているのか、表情は無に近い。


 「あれ、この前の方じゃないですか」


 わざと少し高い声を出して、声をかけた。

 彼は足を止め、こちらへ視線を向けてきた。

 鋭い。警戒を感じる。

 たぶん、私のことなんて覚えてないな。


 「旅行は楽しかったですか?」

 「あ、取り締まりの時の警察官の方ですね」


 ヒントを出すと、すぐに思い出してくれた。

 バイクから降り、彼の方へ向かうと、軽く会釈してくれた。社交的な顔に変わる。

 距離感の調整がうまい。


 「覚えていてくれましたか。ありがたいですね。そういえば、私の相方も覚えていますか?」


 彼の顔色が少し変わった。

 こちらの意図を読もうとしている。私が何を探ろうとしているのか、逆に探ろうとしている。

 頭の回る人だ。


 「……東雲さんのことですか?」

 「よくご存じですね。可愛いんですよ。猫みたいで」

 「何が言いたいんですか?」


 私の軽い言葉に、すぐ反応する。しかも声が硬い。

 意外と好戦的なのか? それとも、わざと?

 それでも七海、今は喧嘩をしに来たわけではない。

 私はにっこりしてから、一つ目の話題を切り出す。


 「実は、うちの猫もよく走るんですよ。この先に上谷沼運動広場ってありますよね」

 「はあ、そうですね」

 「だいたい六時前後に、そこを通るんですよ」


 その言葉に、彼は一瞬で表情を緩めた。

 そう。今は敵じゃないんだよ。


 「猫は毎日走るんですか?」


 その聞き方が、あまりにも自然だった。

 駆け引きではない。情報収集でもない。

 ただ、明日会えるかどうかを知りたがっている声。


 「うーん、毎日ではありませんけど、明日は走るみたいですよ」

 「明日……ちょうどその辺りに行こうと思っていたんです」


 これもまた、自然すぎる。

 この人、変に格好をつけない。

 でも、それが逆に厄介だった。

 再びわざとにっこり笑ってから、二つ目の話題、本題を口にする。


 「でも、気をつけた方がいいですよ。猫は繊細なので」

 「分かっています。割れないように、怪我をしないように、周りから包むつもりです」


 ……自然だ。

 本気に聞こえる。

 しのちゃんがこれを聞いてしまったら、落ちてしまう。

 私も少し困った。

 この人は、いい人なんだ。

 少し問題を抱えた、いい人。

 昨日、話を聞いた時点で、正直思っていた。

 この男は、しのちゃんには荷が重い。格が違いすぎる、と。

 大手の医薬企業。留学経験あり。

 たぶん、昔から頭もよかったのだろう。

 でも、怖いのはそこではない。

 この人は、たぶん「ちゃんとできてしまった側」の人間だ。

 会話も自然。

 距離感も自然。

 相手を安心させるのも自然。

 そういう人間に、不器用なしのちゃんは弱い。

 実際、たった一晩で、彼女の心を鷲掴みにしている。

 本気でいい人に、しのちゃんは耐えられる?


 「猫、好きなんですね」

 「え?」


 考え込んでいたせいか、彼の言葉に思わず声が出て、背筋がざわついた。

 私は何を読まれた?

 そんなに分かりやすかった?

 猫は、しのちゃんは好きだ。

 誠実だし、優しいし、面白いし、頑張っている子だから。

 少し厄介なところもあるけれど。


 「私も好きですよ。ただ、今はどう接すればいいのか分からなくて、少し迷っていました。いきなり彼氏面するのは違うなとか、軽く行くのも違うなとか。そもそも東雲さんと私って何なんだろう、とか……そういうことを考えていました」


 ……ずるい。

 そんなふうに悩まれたら、否定できない。

 適当に扱う男なら簡単だった。

 でも、この人はやっぱり、しのちゃんのことを本当に考えている。

 傷つけないように。

 だから困る。


 「それ、本気で言ってるの?」

 「本気ですよ」


 その瞬間。


 彼の空気がまた変わった。

 最初の警戒は消え、柔らかくなっている。

 でも、その奥。中心だけは動かない。踏み込ませない芯がある。

 最初は警戒。

 次は社交的。

 その次は誠実。

 状況に合わせて顔を変えている。

 だからといって、嘘っぽくはなかった。

 むしろ、不器用なくらい真面目だった。

 ……その真面目さは困る。

 しのちゃんが落ちる理由が、分かってしまうから。

 それから、こいつはしのちゃんと少し似ている。

 自分の核があって、その周りに対人用の線を引いている感じが、とても似ている。

 ただ、しのちゃんは分かりやすい無表情の仮面を一つ被っているだけだ。

 この人は、たぶんいくつも持っている。


 「信頼してほしいとは思っていません。ただ、機会を作ってくれたことには感謝しています」


 線引きをされた。

 優しい雰囲気を漂わせているのに、その内側には入れさせてくれない。必要以上には踏み込ませず、自分も踏み込まない。それでも相手には不快感を与えない距離感。

 器用な人だ。


 「信頼はできない……あんたは、うまくできすぎている」


 思わず走った言葉に、彼は少し動じる。

 はあ……どうすればいいんだろう。

 品定めのつもりが、ババを引いたような気分になった。


 「うまくできすぎていますか……そうでもないですよ」


 彼は語り始める。

 説得のつもりか?


 「俺は毎回、頑張っているんですよ。何が一番いい結果になるかを、ずっと考えています。東雲さんに対しても同じです。……この好意を、軽く扱いたくないんです」


 説得というには、言葉が少ない。

 それでも、彼の姿勢がはっきりしていることは分かる。


 「あんた……私がずっと見ているから」


 ダサい捨て台詞を言ってしまった。

 私には、彼を止めることはできそうにない。

 軽い奴や、問題のある奴なら止められた。

 でも、この人はちゃんとする人だ。

 厄介で、悩ましい人。

 なら、しのちゃん側から監視するしかない。

 しのちゃんが傷つかないように、内側から守ってあげるしかない。


 「俺、佐藤拓海っていいます。拓海でいいですよ、早乙女七海さん」


 いきなり?

 いや、私の名前……知っていたのか。

 彼は、拓海は、あの時のような優しい表情になっていた。

 こちらも探られていたのかもしれない。

 食えない奴め。


 「七海でいいよ。じゃあな!」


 そう言い捨てながら、バイクに乗ってエンジンをかけた。

 彼は薄い笑顔を浮かべ、軽く頭を下げた。

 こいつとは、時間のかかる関係になりそうだと思った。


 ……

 ……

 ……



 その日の夜、東雲のスマートフォンにメッセージのアラームが鳴る。


 【こんばんは。上谷沼運動広場にて、六時】

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