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その四

 拓海は夜の蕨へ向かうタクシーに乗っていた。

 隣には無表情の東雲美咲が座っているが、二人の間に言葉はなかった。


 (知りたい、か……もっと壁を作る人だと思ったのに)


 拓海は先ほど東雲に言われた言葉を思い出す。初めて会った時、見た目や雰囲気から水野に近いと考えた拓海は、似たような距離感で東雲に接していた。しかし、先ほどの会話のテンポにずれを感じ、南浦和駅に降り立った時の言葉で、違うのだと確信した。


 (滝のような勢いがある人だった)


 そういうのは嫌いではない。研究者の性なのか、新しい反応や想定外の出来事に興味を惹かれる拓海だった。




 二人が降り立ったのは、蕨の商店街が終わりかけ、団地街が見え始める辺りだった。人によっては場違いだと感じるアメリカンバー、「ルートCA」の目の前だった。


 「すごい店……こんなところに」

 「俺も偶然見つけたんです」


 拓海が電車の中とはやや異なる口調で話しながら、ドアを開く。店に入ると、カウンター越しの大柄な男が拓海を見つけ、軽く顎を上げて挨拶を送る。黒い肌、短く切った髪、太い腕、無愛想な顔。外で会えば、話しかけることなどできないような見た目だった。


 「タック、こっち空い……ふむ、今日はテーブルの方がいいな」


 店長の内田研はいつも通り拓海に声をかけたが、後ろに続く女性を見て言葉を変える。拓海は内田が示した二人掛けのテーブルに、東雲と向かい合って座る。


 「よく来られるんですか?」


 緊張気味の東雲が拓海に聞く。

 黒い巨漢といい、アルバイトらしき人といい、みんな拓海を知っているようだった。


 「ちょっとガス抜きに来ていたら、ついつい」

 「なんか、みんなお知り合いみたいな感じがします」

 「まあ、それほどでも……あ、ここはカウンターでの注文なんですけど、何を飲みます?」


 東雲はこういう場所に慣れていなかった。一緒にカウンターへ行こうとしたが、拓海から面倒になると止められ、おすすめをいただきたいとお願いする。待っていてくれと言い、拓海はカウンターへ向かった。

 彼は慣れているように見えた。東雲の胸辺りまである高いカウンターに片手を置き、注文している。大柄な男も笑いながら拓海と話していた。少し東雲がいる方を指して茶化したり、肩を叩いたりしている。


 (こういう所が好きなのかな……イメージできなかった)


 東雲は先ほどまでの舞い上がった気分から少し落ち着き、周りが見えるようになっていた。普段の自分なら選ばない行動を取っていることに気づいてから、不安が高揚感を抑えている。彼女の中で緊張と好奇心が、微妙なバランスを保っていた。


 「お待たせしました。タバコとか吸われますか?」

 「いいえ。佐藤さんが吸われるなら、こちらは気にせずに」


 両手にカクテルを持ってきた拓海は、ごく普通に聞いてくる。東雲には、偏見がないのか、自分が吸いたいのかは分からなかった。拓海は東雲の言葉に、自分は吸わないと答えてから周りを見渡す。大きな画面でスポーツを見る男性客たち、デート中のカップル。客はそれなりに入っていた。


 「今日、お客さん入ってますね。週の半ばだというのに」

 「私、蕨に住んでいるのに、こんな異国風のお店があるとは知りませんでした。アメリカがモチーフですか?」


 その言葉に拓海は優しい笑顔を浮かべる。東雲は少し緊張が和らぐ気がした。


 「そうです。イメージはアメリカの地元のダイナーですね」

 「アメリカ、好きですか?」

 「俺、大学の途中からアメリカに留学したんですよ。大学院も向こうを出ましたし、日本に戻ったのは二、三年前くらいです」


 また予想していなかった情報だった。東雲は海外に詳しくなかった。行きたいと考えたこともあまりなく、テレビやネットで流れる情報くらいしか知らない。その情報の中には、向こうではスモールトークが挨拶代わりになるほど多く、男女の関係も日本より軽いという話もあった。

 南浦和駅を出た時から、拓海が少し変わったと感じている東雲。新しい情報と合わさり、不安がまたしても顔を出す。


 「そ、そうだったんですね。じゃあ、この間の方は?」

 「ええ、留学時代の親友で、今は仕事でも関わりがあって……実は先ほどまで彼と飲んでいました」


 拓海はショーンと、彼の言葉を思い出す。東雲のことをロボットと言っていたが、今の彼女にはそんな言葉は似合わなかった。少し怯えた猫のように見えると、拓海は思った。


 「すごいですね……私には想像ができない」

 「大袈裟な。俺は今、ただのサラリーマンです。ちなみに、今は薬の研究をしていますね」


 東雲が緊張しているのが見えたためか、拓海は少し雰囲気を和らげるような口調で自分のことを話す。それに東雲は、電車で舞い上がっていた時の気持ちを思い出すが、安心しきれるほどの余裕はなかった。


 (やっぱり話しやすい。距離感もいい。だけど、誘われた時の歪さがまだ分からない)


 それも含めて、東雲は知りたいと思う。知った時に感じるかもしれない怖さや喜び、また、軽い女だと勘違いされていないかという不安。複雑な感情が入り混じっていた。


 「タック、これはサービスだ。お前にしちゃ珍しいからな」


 テーブルの上に、突然フライドポテトとピクルスが並ぶ。店長の大男、内田からだった。東雲は油断していたこともあり、思わず身を引いてしまった。


 「そんなに警戒しなくてもいい。私は子供に興味はない」

 「いや、店長に絡まれるとそうなるって」

 「いざという時は、お前がなんとかするんだろ?」


 内田店長は拓海の言葉を軽く流しながら、太い腕には似合わない可愛らしいウインクをして、東雲を安心させようとする。彼女は自然と、内田の手が乗っている拓海の肩を見る。拓海は困った顔をしていた。


 「先ほども言ったけど、そういう関係じゃありませんから」

 「知らないけど、そういう関係になりたいんだろう」

 「はあ……話が通じないな。分かりましたから、どこか行ってくれよ」


 少し強めの言葉に、店長は再び東雲を見てにっこりと笑う。東雲は、この人はそういう言い方もするのだと、また少し驚く。そして、ふと気づく。

 この男は、人に合わせて距離感や接し方を変えている。ある意味では当然のことだが、自然にできる人はあまりいない。それを拓海は上手にこなしている。

 そのことに気づくと、東雲は妙に安心できる気がした。歪さが、得体の知れないものから予想できる形へと変わったからだ。おそらくこの人は今、自分との適切な距離を探そうとしているのではないか。そう思うようになった。


 「私、やっぱり佐藤さんのことをもっと知りたいです」


 突然の言葉に、店長と小競り合いをしていた拓海の動きが止まる。東雲の顔は無表情から、先ほどの好奇心旺盛な人のものへと変わろうとしていた。内田店長もその顔を見て、両手を上げてから持ち場へ戻った。


 「拓海でいいです」


 そう言いながら、拓海は東雲美咲を優しく見つめる。東雲も目を逸らさずにいる。

 やはり、線引きをし直す必要があると拓海は思った。




 日付はすでに変わっている。

 アルバイトはいない。カウンターには一人、テーブル席には東雲と拓海しかいなかった。二人が手にしていたグラスは空になっており、楽しそうに話をしている。東雲は終始、笑みが絶えなかった。これほど自分のことを話すのは久しぶりな気がする。二人とも、そう感じていた。


 「じゃあ、拓海さんは結構この辺まで朝走るんですね」

 「往復でちょうど十キロになるんです。さすがに会社があるので、毎日は無理ですけど」


 拓海は少し、東雲のことが分かった気がした。壁は分厚い。それは自分を守るためであり、それから相手をがっかりさせないためでもある。その優しさに、少し愛おしさを感じていた。

 東雲も、拓海のことが見えてきた。自分が引いた線を越えないよう注意しながら距離を測り、全体を優しく包んでくれようとしているのを感じていた。


 「お二人さん、初デートで盛り上がるのは分かるけど、そろそろいい時間だよ」


 店長の言葉に二人は慌てる。時間は気にしていなかった。会計は済んでいるので、荷物だけをまとめて店を後にした。二人で店長に手を振る。


 「はあ、楽しかった」


 拓海が声を漏らしてから、駅の方へ足を向ける。東雲は笑顔で彼の隣を歩き始めた。


 「東雲さんは、駅まで行けば家に帰れますか?」


 別にここからでも家に帰ることはできる。しかし、まだ大丈夫だと東雲は思っていた。


 「はい。拓海さんは帰れますか?」

 「駅前でタクシーですね」


 そこまでは一緒にいられる。二人は同じことを思っていた。

 今日は偶然再会して、この人のことを知ることができて、よかった。また会いたい、と。

 二人の間から言葉がなくなる。次へどうつなげるかを、それぞれ考えてしまった。

 拓海は連絡先を聞いて、また会えばいいとは分かっている。しかし、それを彼女が許してくれるかは分からなかった。

 東雲には、少し女性としてのプライドが関わっていた。自分から聞けば、軽い女だと思われてしまうかもしれない。今日だって、すでに声をかけたのは自分で、軽い誘いにがっつり乗ったのも自分だということを気にしている。二人の妙な考えが、行動を邪魔していた。

 薄暗い街を、街灯の下に沿って歩く。

 先に口を開いたのは拓海だった。


 「俺、今日すごく楽しかったです。東雲さんはどうでした?」

 「……楽しかったです。あれだけ話しておいて言うのも変ですが……私、おしゃべりが下手なのに、今日は不思議なくらいたくさん話せました」

 「じゃあ…また会ってくれますか?」


 東雲の返事に確信を持ったのか、拓海は正直に尋ねる。

 彼女は嬉しかった。自分がなかなか言い出せないことを、この男はずばりと言ってくれたからだ。それでも、釘は刺しておきたかった。


 「私、普段はこういうことしません」


 腹を括った顔で、東雲は拓海に言い放つ。そしてスマートフォンを取り出した。その動きに拓海は優しく笑い、自分もスマートフォンを取り出す。


 「俺も、普段はしません」


 そう言い返して、互いの連絡先を登録する。二人は少し気まずそうな笑みを浮かべながら、蕨駅までたどり着いた。

 拓海と東雲はタクシー乗り場で手を振り、別れた。

 東雲は軽い足取りで歩きながら、拓海の連絡先にすぐメッセージを送ろうとした。しかし、拓海の方が早かった。


 【また会ってくれますよね? 楽しみにしています】

 【今日、とっても楽しかったので、会います】


 東雲はメッセージを送り、「ありがとう」と書かれた黒い猫のスタンプも続けて送った。すぐに既読がつき、その日の会話はようやく終わりを迎えた。

 東雲はとても気分のいいまま歩き、駅から近い自宅へ向かった。合コンから帰る時は最悪な日だと思っていたのに、今はこれほど楽しい気分になっていることが信じられなかった。

 胸の奥を温める優しい高揚感。線を越えた先に見えた新しい形が、とても居心地のいいものだと東雲は思った。

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