その九
東雲美咲は朝、目が覚めると、驚くほど頭が痛かった。
いつぶりだろうと思いながら、ソファを見る。半裸の七海がお腹に毛布だけを掛けている。
いつぶりだろう、とまた思った。
「昨日……どうやって帰ってきた?」
宮原と七海が、自分のことを他人事のように相談していたところは覚えていた。あくまで「友達の」相談になっていたから、東雲も、気になる人が悪いとか、特別だと思わせておいてとか、嘘をつかれたとか、ずばずばと言えたのだ。
それで、だいぶすっきりした気がしたことは覚えている。
東雲は冷蔵庫から水を取り出し、ごくごくと飲む。時計を見ると、出勤までは余裕がある。
「さあ、思い返そう」
自分の人生の中に、自分が知らない時間があることはかなり怖い。
東雲はまさに、そう思う人だった。
頭が痛む中、目を閉じて集中する。
思い出せるのは、宮原の言葉。
(直談判だよ、そんな奴。男はね、言われないと分からないの!)
そうだ。
それで東雲は、電話をしようとしたのだ。
電話……。
東雲は驚き、慌てて寝室へ戻り、スマートフォンを探す。床に散らばっている出勤用の服の中から取り出し、急いで履歴を見返す。
「よかった! 何もしてない」
東雲のスマートフォンの通話履歴はきれいだった。最後に電話した相手は七海で、そこで止まっている。
念のため、メッセンジャーも確認してみる。
こちらからも電話ができる時代だ。こっちからかけているかもしれないと、東雲は思った。
【一人にさせてごめんなさい。俺も東雲さんに会いたいです。できる時に、いつでも連絡してください。待っています】
メッセンジャーには東雲からの通話記録やメッセージはなく、拓海からの新しいメッセージだけが届いていた。
それをじっくり読んだ東雲は、少し気分がよくなった。
この人は私のことを考えてくれている。
そういう気分になれたのだ。
そして、もう一度読み返す。
「お……は……よう」
ソファから、死にかけた人のような声が聞こえる。
東雲は急いでスマートフォンをしまい、七海のところへ向かった。
「おはよう。お水でいい?」
「白湯がいい……胃が痛いし、口から変な匂いするし、頭も痛い……」
七海は、体調の悪い大型犬のような声で東雲に話す。
東雲は、経緯はともあれ、おそらく自分をこの家まで連れてきてくれたのは七海で間違いないと考えた。
感謝を込めて、東雲は彼女が欲しがる白湯を用意してあげる。
その時、東雲はふと気づいた。
「昨日さ、会計、七海がしてくれましたよね? いくらくらい? お金渡すよ」
「ああ、それならいい。猫の神様が肩代わりしてくれたから。マジでいらない」
東雲は、七海の意味の分からない言葉に、何度も確認する。
七海は適当に流しながら、昨日の終わり際を思い出す。
宮原、東雲、七海の三人は、かなり酒が入った状態で、内田店長のいるカウンターへ一斉に向かった。
「店長、あたしのこと覚えていますよね?」
「そうですね」
「今、拓海さんにいじめられていて、やり返したいんですけど、どうすればいいと思います?」
内田店長は、酔っ払った三人組を順番に見てから、カウンターに座る男を一瞬見る。
オーナーはにっこりと笑い、指でチェックの合図を出した。
「この店の代金と、お帰りのタクシー代を、全部タックにつけておけばいいんじゃないですか?」
「それでお願いします! 拓海さんが悪いので!」
「よっしゃ! ただ酒だ!」
「東雲、ありがとう。あんたは目と心と懐にご利益のある奴だよ」
「四万?!」
自分の席で昼食を食べ終えた拓海は、内田店長から届いたメッセージを見る。
昨日、自分が払うことになっているとは聞かされていたが、実際に具体的な金額を見ると、少し思うところがある。
(女の人三人で……どれだけ飲むんだよ……)
タクシー代が入っているとはいえ、たかが知れている金額だろうし、ルートCAは物にもよるが、だいたい一杯八百円ほどだ。
料理を頼んだかどうかは分からなかったが、単純計算すると、一人十数杯は飲んだことになる。
「東雲さん……酒、強いのか?」
拓海は初めて一緒に飲んだ時のことを思い出すが、あれは特殊な例のような気がして、参考にならないと感じた。
急な出費ではあるが、払えない金額でもない。早めに支払いに行こうと思う拓海だった。
それから、午前中に届いていた本題のメッセージを開く。
【ありがとうございます。連休の後半なら会えそうです。そこで言い訳を聞かせてください】
拓海は読み終え、少し悩んだ。
たぶん、七海の言う通り、本当に昨日の電話を覚えていない。
拓海は昨日の電話で本人が言っていたことをヒントに、もう一度メッセージを送っている。
それが刺さっているような気もするが、そうでもない気もしていた。
嫌味もきちんと入っているし、できれば昨日の電話で少しはすっきりしていてほしかったと思う拓海だった。
「彼女さん、大丈夫そう?」
拓海の渋い顔を見て、昼食から戻ってきた森下が声をかける。
彼女はかなり責任を感じていたのだ。
後輩の恋路を邪魔してしまったことが気になっているらしい。
「彼女ではありませんが、連絡も取れたので大丈夫そうです」
「本当に? よかったわ。ちゃんとごめんなさいって伝えておいて」
「綾子さんは別に悪くないので、全然気にしないでください」
「そう言われてもね。現場にいたからね。現場にね!」
拓海は、特定の言葉を強調する森下を見る。
少しにやにやしているように感じる。
言いたくて仕方がないのだろう。
拓海の縁のある相手が警察官だということを。
「言っておきますが、彼女ではないので、言いふらさないでください」
「ええ、まあいいわよ。でも、ああいうのがタイプってことでしょう?」
森下の銃を持つ大げさなポーズに、拓海はため息をついた。
世間は大型連休に入り、少し浮ついた雰囲気になっていた。
帰省や旅行、ただ遊びに出かける人、飲み会などが一層増える中、拓海は夕方の浦和駅に降り立った。
「あの店長、何も教えてくれないのかよ……」
少し文句を言うようにつぶやく。
先ほどルートCAに寄り、例の支払いを済ませてから、オーナーと話しながら一杯だけ飲んだ帰りだった。
オーナーは名前すらまともに知らないが、なぜか拓海に好意的だった。
店へ通い始めて間もない頃、拓海がアメリカのカリフォルニア州に留学していたことを知り、現地の話をするうちに仲よくなったという感じだ。
そんなオーナーに‘可愛いお嬢さんだった‘と、からかうように言われたことは心外だった。
駅を出て、自宅までのいつもの道を歩く。
ロータリーを過ぎ、角を曲がったところに、警察車両と車、自転車が見える。
一目で交通事故だと分かった。
歩道は塞がれていないので、そのまま通り過ぎる。
ちらりと見ると、知り合いの顔があった。
「うわ……ちゃんと警察やってる」
早乙女七海が、事故車両の運転手らしき人と話していた。
七海がいたことで、拓海は少し期待しながら周囲を見渡す。
残念ながら、目に入るのは白バイに乗っている女性警察官と、若い男性警察官だけだった。
(職場が近いとはいえ、そんな都合よく会えないよな……)
そう思いながら、七海の仕事ぶりを遠くから見る。
あの人には、何だかんだ世話になっている。
自分を百パーセント信頼していないことや、鋭いところもあり、やりにくさはあるが、今のところ敵意は感じない。
拓海は片手に、飲み物の入ったコンビニ袋を持ち、七海の方へ向かった。
彼女はひと通りの業務を終えているように見えた。
「すみません。現在、事故対応中ですので、離れていただけますか」
若い男性警察官が拓海に声をかける。
その後ろには白バイの女性警察官もいて、二人は事務的な態度で拓海を見ている。
普通に考えれば、当然の対応だった。
「佐久間君、いいよ。もう終わったし、知り合いだから」
七海は少し業務的で、少しいたずらっぽい顔をしていた。
彼女は手に持っていた端末を佐久間に渡してから、拓海の前に立ち、腕を組んだ。
「よう、タック。調子どう?」
「おかげさまで、最悪は免れましたよ」
「でしょうね。さすがに、あそこでいきなり電話するとは思わなかったよ。決めると早いんだよな」
拓海は思わず笑みを浮かべた。
以前、自分が感じたことを親友である七海も感じていることに、親近感を覚えたのだ。
拓海はコンビニ袋を持ち上げて話す。
「飲み物です。よろしければ、皆さんでどうぞ」
「よろしくないね。こういうの、立場上もらえないんだ」
七海は意外にも、普通に断った。
拓海には、彼女の言っていることが本当かどうかは分からなかったが、事故対応後に公務員が市民から物を受け取る行為は、普通に問題があるのだろう。
ほかの業務中でも同じなのだと思う。
拓海は残念そうに袋を下ろす。
それを見ながら、七海が注意するように話した。
「今度会うのって、三日後くらい? ちゃんと謝れよ。ずるをせずに」
「了解です。でも、東雲さん、本当に覚えていないんですね?」
「ああ、そんなものよ。でも、記憶をなくすことは多くないよ。私も片手で数えられるくらいしか見ていないから」
拓海には、それが多いのか少ないのか分からなかった。
自分はそもそも記憶をなくしたことがないので、それすらも信じにくい感覚だった。
「早乙女、そろそろ」
白バイの女性警察官、宮原真紀が声をかける。
彼女の感覚では、七海と拓海の会話は、公務中にしては長すぎた。
七海は特に挨拶もせず、振り返って警察車両へ向かう。
「七海さん、ありがとう」
拓海が礼を言う。
七海は振り返らず、左手だけを上げて軽く振ってから、車に乗り込んだ。
拓海はそれを見届け、自宅への帰り道へ戻る。
飲み物の入った袋だけが、余計な荷物として残った。
警察車両が出発する前、宮原の白バイが、七海の座っている助手席へ近づく。
「もしかして、今のが例の拓海さん?」
「そう。そこそこイケメンでしょう?」
「うん。感じのいい人だね。体もしっかりしているし、ああいうのがタイプか」
七海は宮原の言葉を聞いて考える。
やはり普通に見れば、拓海は感じのいい好青年に見えるのか。
自分は東雲のこととなると、少し過保護なのかもしれない。
そんなことを考えていると、運転席に座る佐久間の視線を感じた。
彼は何か言いたそうな顔をしている。
「言っておくけど、あたいの男じゃないよ」
「えっ? そうだったんですか。早乙女さん、署内とは雰囲気が違いましたし、宮原さんもああ言っていたので、てっきり」
「私はないね、あんな男は」
そこまで言ってから、七海は自分の過保護気味な態度への反省と、少しのいたずら心を込めて、佐久間の肩に手を置いて言う。
「そちらのエース、しのちゃんのだから」
「はい?! 東雲さん、彼氏いたんですか?」
佐久間は驚きながら聞き返す。
七海は何も答えず、早く車を出すように顎で指示した。
彼女は思う。
別に、嘘は言っていない。




