その十
……
……
……
この間とは違う緊張がある。
何から話を聞き始めればいいのか。
彼はどんな顔をしてくるだろうか。
言い訳とか書いたけど……あたしって、言える立場かな。
あ、カフェの窓から歩いてくる拓海さんが見える。
スモーキーグリーンのロングシャツの袖をまくり、オフホワイトのセンタープレスパンツ、白のスニーカー。
何だか、前より落ち着いた印象に見える。
少し被った感じが、ちょっと恥ずかしくて、嬉しい。
でも、きちんと説明を聞くまでは……ばれたくない。
「お待たせしました、東雲さん」
「いいえ、私も着いたばかりで」
コーヒーチェーン店で、あたしたちは待ち合わせをしていた。
あたしは紅茶を頼んでいたので、拓海さんはアイスコーヒーを頼んで持ってくる。
宮原さんの言葉を思い出す。
その友達は、きちんと説明してもらうべきだ、と。
拓海さんは、少し落ち着かない様子だった。
「さあ、聞かせてもらいましょうか。言い訳を」
あたしは背もたれに寄りかかりながら、足を組んだ。
これくらいは、やってもいいよね?
「ええと……会社の先輩っていうのは……」
「知っています」
「あの日は、外部との会議で、あの人が与野に住んでいるから、会社には行かず、レンタカーで移動することになっていて……」
「知っています」
「それで、帰り道にタバコを吸うために寄ったら……出会った、というか……」
「知っています」
拓海さんは言い訳をしてくれる。
いつもの流暢な話し方ではなく、こちらの顔色をうかがいながら、気をつけて言葉を選んでいる。
その下手な感じが、可愛い。
「タバコは、あの……大学の時に覚えましたけど、普段から吸うというわけでもなくて……飲み会とかで、勧められたら吸う、みたいな……」
「へえ、そうなんですね」
少し意地悪を込めて言った。
別に、タバコはいい。
兄さんも吸っているし、臭くさえならなければいいと思う。
でも、あの夕焼けの中で見せられた火のつけ方は、しばらく忘れられそうにない。
「……でも、本当は」
拓海さんは少し考えてから、あたしを見た。
まっすぐな目。
それはダメだ……!
「無神経に……連絡も電話も少なくして、ごめんなさい。もっと東雲さんに気を配るべきだった。もっと話すべきでした」
その瞬間、胸の奥に最後まで溜まっていた、小さな垢のような塊が、ふっと崩れるのを感じた。
あたしも分かっていた。
あの怒りが、ただのわがままにすぎないということ。
責めたかったわけではない。
ただ、驚いた。
自分だけが特別だと思っていたから。
それが違うと分かって……寂しかった。
会えないのに、
あなたは、あたしの知らないところで、知らない姿を見せていて……。
それが分かったから、
なおさら、ただ会いたかったのだと思う。
「私が連絡できていないのに、わがままを言っているみたいになって……」
「謝らないでください。俺がしっかりしなきゃいけなかったことだと思います」
……ダメだ。
そんなに言われたら。
そんな顔で見られたら……。
胸の奥にひそかにあった温もりが、一気に体中へ広がり、熱くなる。
あたしは、この人にきちんと大切にされている。
正直、自信がなかった。
こんなことを聞ける立場なのかと、ずっと思っていた。
あたしだけが彼を特別視しているのではないか、と。
でも、今は安心できる。
「ありがとう……拓海さん」
胸の奥が、彼をぎゅっと抱きしめろと言っている。
あたしは姿勢を正し、前のめりに座った。
言い訳は、許す!
拓海さんはしばらくこちらを見てから、照れくさそうに言い始めた。
「服……被っちゃいましたね」
そう。
あたしはそれが嬉しかった。
同じオフホワイトのパンツに、白のスニーカー。
あたしはトップスをスモーキーブルーの半袖にしているため、完全に同じではないものの、シミラールックには見えるはずだ。
「いいです。あたしは嬉しいです」
拓海さんが、でれたように笑う。
大きな体なのに、可愛い人。
……
……
……
東雲に会う前日、拓海は母の真理子、妹の美月と、浦和駅前の映画館で映画を観た後、お茶をしていた。
佐藤家は大型連休中、特に旅行の予定もなく、長女の由佳も仕事で忙しいため、帰省してくる人はいなかった。
そのため、ただ少し長めにゆっくりできる休日だった。
「あ、たく兄。あれがスモーキーブルーだよ」
映画を満喫し、豪華なデザートも楽しんでご機嫌な美月が、急に話し出す。
拓海が振り向くと、服屋の広告看板に、少しくすんだ淡い青色が映っている。
(確かに、東雲さんに似合いそうだな)
拓海は考えた。
明日の服は、これまでとは違う雰囲気の方がいいのではないか、と。
以前、花屋で言われた言葉を思い出す。
「オフホワイトって、あのマネキンの服の色?」
「そうそう」
「拓海、どうしたの? 美月にそんなことを確認して」
これまで息子の口から出たことのない言葉に、母としては意外に感じた。
拓海は少し困ったような顔をしながら、嘘を絞り出す。
「もう三十も近いから、違うスタイルも考えるべきかなと思って」
その言葉に、美月だけが口角を上げる。
ケーキの最後の一口を食べ終えた美月が、母を見る。
「母さん、私たち、少し買い物して帰るけど、一緒に行く?」
「ええ、いいよ。拓海にたくさんアドバイスしてあげてちょうだい」
母の真理子は少し面倒くさそうに話しながら、会計の伝票を取った。
拓海と美月は、母に‘ごちそうさまでした‘と声をそろえ、店を出る。
母と別れると、美月は拓海の方を振り向いた。
「私の化粧品一つで、女子受けするコーディネート一式。どう?」
「……頼む」
兄妹の取引が成立した。
……
……
……
拓海さんとあたしは、大宮駅周辺を歩き、スポーツ用品店に来ている。
そして、少し緊張しているというか、テンパっているというか、とにかく落ち着かない。
「彼氏さんは、スポーツ経験がありますよね?」
ずっと、こんな感じだ。
一応顔見知りの店員さんだが、何を気を利かせたのか、拓海さんのことをずっと「彼氏さん」と呼んでいる。
拓海さんは何も言い返さない。
変な期待をしちゃうよ!
「柔道を高校まで少し」
「少しですか? 大会にも出ていそうな足の崩れ方ですね」
「運よく、県大会で最後まで勝ち進んだことはあります」
「やっぱり! 足のアーチを見れば分かるんですよ」
拓海さんのがっしりした体格の理由が分かった。
さらっと言っているけど、かなりの努力がなければ難しい。
職場にも、県大会レベルの競技出身で、現場で活躍している人を多く見ている。
そんな逸材が、よくそこから研究者になったものだ。
拓海さん……やっぱりすごい。
「そういえば、東雲さんもかなりすごいですよね?」
何を言い出すの?
合気道?
やめて!
その話は、今はしたくない!
「へえ、そうなんですね」
「お、おすすめのモデルは、どちらになります?」
拓海さんが興味を持つ前に、話題を変えた。
せっかくいい感じなのに、マイナスポイントの話はいらない!
店員さんは察してくれたのか、話をやめ、おすすめのモデルを取りに行った。
拓海さんの視線を感じる。
話題を……変える!
「走る時に、帽子とか被らないんですか?」
「日差しが強い時はサングラスをかけるので、考えたことはないですね」
キャップ、似合うと思うのに。
「これとか、どうですか?」
あたしのはラベンダー色だけど、さすがに男性には……。
彼には、グレーとネイビーのキャップを渡す。
あたしのものと同じデザイン。
どちらもいいけど……あたしはネイビーかな。
ラベンダーとも合いそう。
「……俺はネイビーにします」
彼は少し考えてから言う。
心を読まれた?
それでも嬉しい。
「お待たせしました。こちらが彼氏さんのサイズで、こちらが東雲さんのサイズですね」
店員さんは、日系ブランドのシューズを持ってきた。
靴底はオレンジ色のデザインで、全体は淡い空色。
二足。
二足……?
「あ、これすごいですね。今までのものとは全然違う」
「あまりふわふわせず、安定感のあるものにしています。いかがですか?」
店員さんが、あたしと拓海さんを交互に見る。
あたしは別に……。
「これにします。東雲さんも、これでいいですか?」
いらない……とは言えない。
おそろいにはしたい!
少し待ってもらい、試し履きをしてみる。
今使っているものと比べても、悪くない。
「私も、これにします」
「じゃあ、このキャップとまとめて、会計をお願いします」
拓海さんが、二足のシューズと先ほどのキャップを店員さんに渡す。
いいのかな。
こんなに簡単に、おそろいのものが二つもできて。
急な幸せな展開が、怖くなってきた。
……
……
……
拓海の隣には、いくつもの買い物袋が置かれていた。
かなりの時間、東雲とランニング関係の買い物をしていたからだ。
正面に座る東雲の隣にも、ランニングシューズの入った買い物袋が置かれている。
東雲は買い物も食事も楽しみ、とても楽しそうにしていた。
少し飲んだ酒も効いていたのかもしれない。
「残りの連休は、どう過ごされますか?」
「実は仕事柄、休めるのは明日までなんです。明後日には復帰ですね。幸い、五月後半から六月に代休をもらえます」
東雲は残念そうに話した。
拓海は、警察組織やその運営について詳しくなかった。
今では東雲や七海と普通に話しているが、もともと興味もなかったため、調べようともしていなかった。
「そこでは、たくさん会えますね、と言いたいんですが……」
「五月後半から忙しいんですか?」
「うーん、六月半ばくらいに、毎年アメリカへの出張があるんです。学会と展示会があるので、その準備ですね」
学会。
東雲の人生には縁のない言葉だった。
展示会は何となく想像できるが、学会はまったく分からない。
しかも、海外出張。
東雲は、自分の仕事とはやはり違う世界なのだと感じた。
「すごいですね。柔道もかなりのレベルまでいって、今の職場でもすごい仕事をしていて」
拓海は、その言葉に妙な距離を感じた。
大人なのだから、仕事によって生きる世界が違うのは当たり前だ。
しかし、それを理由に東雲との間に妙な距離を置きたくはなかった。
彼は、今日ずっと後回しにしていたことを言おうと決め、持っていたフォークを置いた。
「東雲さん。俺は、あなたに俺のことを誤解してほしくないと思っています。今回のことで痛感しました」
「いえ、誤解だなんて……」
「……俺は、東雲さんとお付き合いしたいと思っています。大事にしたいと思っています」
淡々と話した拓海は、グラスを持ったまま固まっている東雲を見ていた。
二人とも、言葉が止まる。
(嫌だと言わないでくれ! 俺の勘違いだった、なんてことで終わらないでくれ)
拓海は表情をうまく作っていたが、心の中はそうでもない。
告白などいつぶりか分からないし、大人になって異性にこのようなことを伝えるのも初めてだったため、彼にとってはすべてが手探りだった。
前例のない実験を一人で行っているようだと、彼は感じていた。
東雲は、持っていたグラスをテーブルへ置く。
彼女は、とても嬉しかった。
幸せが体中を駆け巡るような感覚を味わっていたが、すぐに無表情の仮面が下りてきてしまう。
「嬉しいです……でも、少し時間が欲しいです」
東雲の返事は大きな鈍器となり、拓海に襲いかかった。
不安はあったが、実際にこのように言われると、かなりの精神的なダメージを受ける。
平静な表情の下で、‘どうして?‘という言葉が、洪水のように押し寄せていた。
心がふらついている拓海を見ながら、東雲は言葉を続ける。
「あたしも、拓海さんとお付き合いしたいです。だから、すごく嬉しいです。でも、あたしたち、会ってからまだ一か月くらいですよ? あたしも、あたしのことを誤解されたままお付き合いして、がっかりしてほしくないです。それから、あたしは警察官です。おそらく、一般の方とのお付き合いとは違うと思います。理解しにくいこともあるかもしれない。だから……」
その言葉に、拓海は考える。
彼女は自分を嫌いなわけではない。
彼女にも、彼女なりの悩みがある。
たぶん、押し切れば‘付き合う‘ことはできる。
でも、愛し合うことは……難しくなりそうだ。
「理解……してくれますか?」
「……最初に東雲さんを見た時は、一目惚れに近い感覚だったんです。知り合いに似ている人もいて、接し方も考えやすかったと思います」
東雲は、自分の質問とは違う話を返す拓海を見つめる。
「でも、次に会った時、東雲さんはすべて俺の予想を超えていました。想定外で、でも、一緒にいて楽しくて、可愛らしい人だと思いました。朝、一緒に走る時もこちらに合わせてくれたり、責任を持って仕事に取り組んでいる姿を見たりして、仕事中の東雲さんも……俺しか知らない東雲さんも、大事にしたいと思いました」
拓海は一息ついた。
東雲は、自分は間違った言葉を口にしたのではないかと、怖くなってきた。
素直に「はい」と答えるべきだったのではないか、と。
思わず目を閉じてしまう。
「……夏頃に、もう一度告白します。その時、もう一度気持ちを教えてくれますか。俺、もっとあなたを好きになりますから」
その言葉に、東雲は目を開く。
二人は見つめ合った。
拒否する気持ちはない。
落としどころはついたと、拓海は思う。
東雲は嬉しかったが、心のどこかで怖くなったのも事実だった。
しかし、‘この人となら‘という気持ちも、確かに強くあった。
「ありがとう……時間をもらって、ごめんなさい」
「大丈夫です。勝手に、付き合っているつもりでいますから」
拓海が冗談めかして話すと、東雲はにっこりと笑ってくれた。
その笑顔を見ながら、拓海は思う。
少しくらい時間がかかってもいい。
この愛しい人と、一緒になれるのなら。




