その十一
夕方の浦和の住宅街。
佐久間大地は走っている。少し斜め後ろには、佐久間より出発が遅かった小杉主任も走っていた。佐久間の正面には、ヘルメットをかぶった男が一人、全力で走っている。
小杉と佐久間は見回り中、妙な格好で家から出てくる男を発見した。その様子を見て佐久間が声をかけると、男は佐久間を押し、近くにあったバイクへ走った。
しかし、バイクの前には先回りした小杉がいたため、男は方向を変えて走り始めたのだ。
『次の曲がり角、分かれ道。待機中』
『了解。作戦どおり進行』
中原と牧野班長の声が、無線機を通して佐久間に聞こえてくる。
男が角を曲がり、佐久間もすぐに曲がった。
正面には分かれ道があり、左には少し険しい顔をした中原、右には無表情の東雲が立っている。どちらも、がっつり構えた姿勢ではない。
「どけ!!」
男は、班長の読みどおり、東雲に向かって走る。
それを待っていたかのように中原が男に仕掛けるが、男は何とか中原をかわす。
そして、男の体が揺れた瞬間、東雲が男の腕を流すようにつかんだ。
次の瞬間、男の体勢が崩れ、足がもつれた。
前に倒れ込んだ男の後頭部を、東雲が押さえ込むように地面へ制した。
佐久間には、東雲の動きがまともに見えなかった。
ただ、目の前に突然、ヘルメットをかぶった男が倒れていた。
「佐久間君! 手錠!」
東雲の声に、動きが一瞬止まっていた佐久間は男に近づき、手錠をかけて犯人を立たせる。
その間に、無線では小杉からの状況報告が終わっていた。
近くに止めてあった中原と東雲の警察車両へ男を連行する。あとは刑事課へ引き渡せば、地域課としての業務は終了だ。
「東雲さん、マジで強いですね! 動き、全然見えなかったです」
「俺は隣で見ていても意味が分からなかったよ。さすが三段!」
佐久間の感嘆と、中原の調子のいい持ち上げる言葉に、東雲は表情を変えず、礼だけを言う。
「ありゃ……未来の旦那がかわいそうだな」
中原の小さな声での耳打ちに、佐久間はある男を思い出す。
彼はいい体格をしていた。簡単にやられそうには見えないが……逆に、あれを制圧するには東雲くらいが必要なのかもしれないと思う佐久間だった。
「佐久間君、本気の東雲が見たいなら、合気道同好会を体験するといい。あいつは本物だ」
自分たちの警察車両へ戻る途中、小杉主任にそう言われ、佐久間は少し引いてしまう。
あれ以上があるのかと思う。
ただ、東雲は憧れに値する先輩だ。一度は顔を出すべきかと考えた。
拓海は夕方の事務所で、六月中旬にサンディエゴで行われる学会兼展示会のフライトチケットを確認している。
出張関係を担当する会社から、候補がいくつか届いていた。
「経由地はサンフランシスコか、シアトルか。タックと理沙ちゃん、好きな方を選んでいいよ」
一緒に出張することになっている三人が、顔を合わせている。
この出張の常連は黒川だった。担当時代から毎年参加しているうえ、今回は展示会側の要望でスピーチも準備している。
拓海は五回目の参加だった。大学院時代、二回目に参加した際に縁ができ、信野医薬へ入社することになったため、それからは毎年強制参加だった。
水野は今回が初めてであり、学会での発表内容についても、信野医薬側の中心人物だった。
正直、アメリカに馴染みのない水野としては、黒川にそう言われてもよく分からなかった。
「橋か、コーヒーかって感じですね」
水野は、自分の持つ各都市のイメージを口にする。
黒川が鼻で笑ったので、水野は少しにらんだ。
「おっと、失礼。出張日程は余裕を持って組んでいるから、少しは遊べると思うよ。拓海が調整してくれるから」
黒川はへらへらしながら拓海を見る。
確かに、毎回出張のたびに黒川は遊ぶ時間を欲しがっていたし、拓海も毎回何かしら用意していた。
とはいえ、サンディエゴにもサンフランシスコにもシアトルにも、すでに何度も行っている。黒川を満足させるものは、もうあまり残っていない。
今回は水野のために動けということか、と拓海は察した。
「サンフランシスコの方がいいと思います。何かあった時に選べる選択肢も多いですし、アジア圏の人も多い地域なので、多少の安心感はあると思います」
その言葉に、水野はちらりと拓海を見る。
拓海が軽く笑みを返すと、彼女は眉を少し動かしてから、黒川に向かって話す。
「佐藤さんが詳しいので、サンフランシスコでお願いします。それから、学会のプレゼン資料の修正案ができたので、この後少し見ていただけますか?」
「了解。三人分、サンフランシスコ経由ということで、俺から返事しておくよ。あとは簡易会議室でいいかな? タックも参加できる?」
水野の視線が、再び拓海に向かう。
拓海はその視線に、妙な圧力を感じる。
彼女は今回の学会で、拓海がまったく関与していないプロジェクトの研究発表を行う。
新卒から今まで懸命に働いてきた彼女の成果が、いい形で披露されることになるのは間違いないと思われていた。
拓海は、水野が自分のことを好んでいないのを知っているし、彼女との間に余計な火種を作りたくなかった。
それに何より、今夜は予定がある。
「今日は用事があるので、もうすぐ出なくてはいけません」
「ええ、二人でバトってくれよ。理沙ちゃん、本気になると怖いもん」
「部下に対して、そんなふうに言わないでください」
水野が詰めるように黒川へ文句を返す。
拓海は、参加しないという判断で正解だったと胸をなで下ろす。
黒川は部下二人の顔を見比べてから、話し始める。
彼は、この妙な関係を気にしていた。
水野が拓海をどう考えているのかは、大体分かっている。
しかし、拓海は水野と距離を取りすぎているように感じていた。
今回の出張が、二人の間の隔たりを埋めるいい機会になればと考えている。
「タックは、準備ほとんど終わったよな?」
「はい。プレゼンの微調整はありますが、内容は問題ないと思います。早川君がかなり手伝ってくれたので、実験の再現性も安定しています」
「じゃあ、残りは理沙ちゃんを鍛え上げることか。タック、明日から隣のチームと臨床部署のフィードバックをもらえるように、会議を組んでおいて」
「それは私が――」
「メインの人はいい。暇な奴が手伝うのは当たり前だ。理沙ちゃんは発表のことだけを考えてくれ」
水野は拓海を見る。
やはり妙な圧力を感じる拓海。
雰囲気を和ませるため、手でオーケーサインを出すが、水野は何かを我慢するような顔をするだけだった。
それを、黒川は見ている。
「タックがさ、最近忙しくて、楽ができないんだよな」
黒川の言葉に、水野がまた拓海をにらむように見る。
「普通ですよ。たまたま知り合いと飲むだけですから」
「でも、女の人もいるんだろ? 最近めちゃくちゃ携帯を見るもんね」
その言葉に、拓海は後ろに座っている早川と西村を見る。
早川は素早く西村を指差す。
西村はにこっと笑い、知らない顔をしていた。
情報を漏らしたのは西村で確定したが、誰も拓海を助けてくれそうにはない。
水野は腕を組み、背もたれに寄りかかりながら言う。
「へえ、余裕ありますね。佐藤さん」
追い打ちをかけるように、冷たい顔で嫌味が飛んだ。
拓海は早々にこの場から逃げ出したいと考えた。
佐久間はそわそわしていた。
目の前には、一般的な体育会系の美人が一人と、何か不満がありそうな無表情の人が一人。
少し騒がしいスポーツバーで、三人で座っている。
「七海さん、自分、本当に来てよかったんですか?」
「うん、平気。ここは真紀さんも来たことがあるよ」
佐久間は帰り際、浦和駅の改札付近で七海と東雲に偶然捕まった。
帰り際に先輩と会うのは初めてではない。飲みに連れて行かれるのも初めてではない。
しかし、それはいつも小汚い居酒屋であって、こんなおしゃれなバーではなかった。
「あまり、うちの後輩をいじめないでもらえます?」
「どうだろうね? 佐久間君、嫌なの? こういうところは」
「慣れてはいませんが、お二方が行かれるところであれば」
実直な言葉に、東雲は額に手を当てた。
今日は拓海と七海の三人で飲む予定だった。いろいろな報告も兼ねている。
しかし、この布陣では自由に話せない。
「言っておくけど、佐久間君、タックに会ったことあるよ」
「え?」
東雲が額から手を離し、素で驚いた顔になる。
普段は絶対に見られない先輩の顔に、佐久間は慌てる。
「事故対応中に、偶然見かけただけです!」
「イレギュラーは報告するようにと教えましたが?」
「そ、それは七海さんの言葉が引っかかって……」
東雲は七海をにらむ。
七海はいつもどおり、へらへらした顔でビールを飲んでみせる。
自分の後輩がどこまで知っているのか、心配になる東雲だった。
まだ付き合っているわけではない。
そのような相手のことを、仕事関係の人に話していいのだろうか。
仕事関係の人の前で、どのような立場で接すればいいのか。
東雲は悩み始めた。
「おっ、来たな」
拓海がルートCAに入ってくる。
東雲は拓海を見つけるが、見知らぬ顔がいることに気づき、すぐに大人らしい、人当たりのよさそうな表情を作ってみせる。
「ごめんなさい、遅くなって。少し会社でいじめられていました」
「サラリーマンは大変だね。こちらは、しのちゃんの後輩の佐久間君! 若くて格好いいイケメンです!」
佐久間は、自分を指す言葉に慌てながら、隣の席に座った拓海を見る。
やはり以前会った人だと思いながら、軽く自己紹介をする。
「佐久間大地と申します。東雲さんと七海さんには、お世話になっています!」
「東雲さんがお世話になっています。佐藤拓海です。ご覧のとおり、サラリーマンです」
佐久間は思う。
体格は自分と同じくらい。
しかし、賢く、人当たりもよさそうに見える。
年齢は少し上で、自然なラフさが余裕を感じさせた。
「そこまで言うなら、七海さんの何番目かの彼氏候補って感じですか?」
「おお、言うようになったね! あの時の好青年はどこへ行ったかな」
拓海は七海の言葉に軽く笑い、飲み物を注文するために席を立った。
カウンターへ向かい、自然に腕を乗せて飲み物を頼む。
大柄な男が、笑いながら拓海に応対している。
「しのちゃん、何か吹き込んだ? 今日、タックの当たりが強いけど」
「当然です。もともと、こんな予定ではなかったですから」
「あんたら、よくできているわ」
佐久間は、やはり自分は来るべきではなかったと改めて思う。
佐久間が落ち込んでいるのを見て、東雲は彼に話しかける。
「ここで起きることは、署では言わないでください。牧野班長は興味ないでしょうけど、まだ言いたくないです」
「は、はい。分かりました」
いつもより少し表情豊かな先輩の言葉に、佐久間はただ事ではないと思い、即座に返事をした。
その光景を、七海はつまらなそうな顔で見ている。
彼女は今日、簡単に終わらせるつもりはなかった。
「今日、おつまみはサービスしてくれるらしいです」
「さすがタック。財布が助かります」
「またまた。佐久間さんは後輩だからともかく、二人は大丈夫でしょう?」
「大企業の高給取りに比べると、我々はひもじいものです」
七海が弱々しい言葉を口にしながら、拓海の情報を一通り流す。
佐久間は勝手に理解しながら、やりづらそうにしている東雲を見てみる。
やはり、いつもより表情が少し柔らかいと感じる。
(やはり、この人が東雲さんの彼氏……居づらい!)
そう思ってから、佐久間は七海を見る。
彼女はややつまらなそうにしている。
それを無視するように、東雲が普通に拓海と会話を始めようとした。
「拓海さん、会社で何かあったの?」
「学会の件で、中心になっている人と上司がうるさくて」
「あ、それ聞いた。タック、もうすぐアメリカでしょう? 向こうで派手に遊ぶんじゃないの?」
アメリカで遊ぶ。
酒、カジノ、女性のダンサー。
佐久間が映画で見てきたアメリカは、確かに遊びを想像しやすい。
しかし、七海の言葉に拓海は手を左右に振る。
「話、聞いていました? 学会です。遊ぶ余裕はないですよ」
「ワタシ、学会ワカンナイ」
「知ろうともしていないですよね」
七海の態度を、両側から拓海と東雲が責めていく。
「息ぴったりですね。キューピッドみたいな私に、厳しすぎない?」
二人は黙り込む。
一気に静かになった二人を見て、佐久間は少し笑ってしまった。
七海はそれを見逃さない。
「はい、佐久間君! タックに聞きたいことがあれば、言っちゃって!」
東雲が七海をにらんでから、佐久間へ視線を向ける。
先輩の少し困った顔を見て、ここは当たり障りのないことを聞かなければ、と佐久間は考えた。
「佐藤さんは、ずばり、東雲さんの彼氏なんですか?」
その質問に爆笑したのは、七海だけだった。




