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その十二

 ……

 ……

 ……


 拓海さんは今頃、海外の空を飛んでいるのだろう。

 一週間も会えないのは初めてだけど、もう憂鬱になりそうだ。

 毎日電話やメッセージをくれるとは言ってくれたけど、時差もあるし、話す機会はあるのかな……。


 「当番、お疲れさまです。先に失礼いたします」


 佐久間君が退勤の挨拶に来たので、視線と手で挨拶を返す。

 人としてよくできている、可愛い後輩だ。この間話したとおり、署内でも言いふらしていないし。

 あの日、佐久間君の言葉で場の空気は止まってしまった。

 彼に悪気があったわけではないことは知っているし、すべては曖昧にしているあたしのせいだ。

 拓海さんがうまくごまかしてくれたけど、七海の追い打ちもすごかった。

 どうして、あんなに拓海さんに食ってかかろうとするのか分からない。

 あたしが、拓海さんに似合わないから? ……

 七海には聞いたことがあるけど、その辺りは言おうとしない。

 何がしたいの……七海。

 いや、それはあたしなのか?

 あの時、拓海さんを信じ切って、付き合ってしまえばよかったのか?

 うーん……でも、拓海さんはあたしのすべてを知っているわけではない。

 いずれは家庭の事情も話さなくてはならない。

 この職業についても、どこまで理解してくれるか……。

 もし理解してもらえなかったら、あたしはどうするのだろう。

 あ、電話が鳴る。


 「はい、浦和警察署地域課です」


 今は、仕事をしよう。



 ……

 ……

 ……



 暗い……。

 飛行機の照明が、ほとんど落とされている。

 いつの間にか寝てしまった。

 私は周囲を見渡す。

 暗くなった機内で、周りの乗客は映画を見ているか、眠っている。

 飛行機の画面でフライトマップを確認する。

 まだ太平洋のど真ん中。

 まだ半分くらい?

 こんなに長いフライトは、大学の卒業旅行以来だ。

 向こうに着くのは昼頃……時差は大丈夫かな?

 もう一度周囲を見る。

 少し離れた通路側の席に、佐藤さんが座っている。

 彼は読書灯をつけて、資料を見ていた。

 あの人にも発表がある。

 きちんと準備しているんだ。

 私も負けていられない。

 シートバックポケットから資料を取り出し、読書灯をつける。

 この資料は、出発直前までみんなと修正していた。

 失敗はできない……!

 私は彼のように優秀ではない。要領も悪い。

 だから、もっと努力して、認めてもらわないと。


 「あれ?」


 資料に、薬と付箋が挟まっている。


 【まだ半分も来ていないので、起きたら飲んでください。副作用の少ない睡眠導入剤です。黒川さんと私も飲んでいるものです。佐藤】


 気が利く男だ。

 こういうことが自然にできるから、上から可愛がられる。

 え、待って?

 彼、いつ来たの?

 私、変な顔で寝ていなかったよね?

 私は急いで振り返る。

 佐藤さんもこちらを見ていて、軽く笑みを浮かべる。

 それから彼は、読書灯を消した。

 ……恥ずかしい。

 ……練習しよう。

 練習して、発表でいいところを見せる!


 ……

 ……

 ……



 拓海さんから写真が届いていた。

 当番明け、自宅への帰り道。

 ギザギザしたグレーの模様が入った黒い壁に、英語で「サンディエゴへようこそ」と書かれている。

 天井には金属製のオブジェがぶら下がっていた。

 その中央辺りに、少しやつれた様子の拓海さん。

 隣には、奇抜なポーズをしてカメラを見ている、ひげを生やした中年男性が写っている。

 この人が、きっと上司の黒川さんだ。

 面白そうな人。

 拓海さんが‘よく無茶振りをするけど、研究者としても、人としても尊敬できる‘と言っていた。

 三人で行くと言っていたけど、もう一人は、この前の森下さんかな?

 あの人には少し申し訳なさと、苦手意識がある。

 それより、拓海さんはこの数時間で、かなり疲れているように見える。

 長いフライトに乗ったことがないから分からないけど……。

 つらいのかな。

 拓海さんは体も大きいし。

 少し可哀想……。

 ‘がんばれ‘の猫のスタンプを送ってもいいのかな……。

 それより、あたしも写真を?

 いや、さすがに夜勤明けの顔は見せたくない。

 今はスタンプと、これで我慢しよう。


 【フライト、お疲れさまです! 疲れているように見えますが、大丈夫ですか? あたしは当番明けなので、これから自宅に戻って寝ます! 無理しないでにゃ!】


 ……

 ……

 ……



 調子が悪い……。

 佐藤さんの薬を飲まなかったせいだろうか。

 空港からホテルへ向かうバスの中だから、揺れて、なおさら気分が悪い。


 「タック、理沙ちゃんに薬を渡していないの?」

 「いただきましたけど、資料を見ていたら眠れなくて」


 黒川さんが佐藤さんを責めるので、口を挟む。

 私が飲まないことを選んだのだから、仕方がない。

 佐藤さんは……どうしてにやけているの?

 少しむかつく。


 「これは時差ぼけが来ますね、水野さん」

 「一応、前日から調整していますから……大丈夫です」

 「まあ、ここはタックお得意のあれだろう?」

 「何を嫌そうに言っているんですか。喜んでいるくせに」


 二人は訳の分からないことを話している。

 まさか、これから飲むの?

 それとも、夜遊び?


 「水野さん、大丈夫ですよ。今から我々の秘策を出しますから」


 彼はそう言って、バスから降りた。

 黒川さんも私も降り、荷物を受け取ると、すぐにホテルへ向かってチェックインをした。

 黒川さんと私の手続きが終わっても、佐藤さんはまだフロントの人と何か話をしている。

 はあ、これでやっとシャワーを浴びて眠れる。


 「理沙ちゃん、今寝ると、出張中ずっと時差ぼけだよ。起きたら夜中の二時で、寂しい夜だよ」


 え、私、今から寝られないの?

 二十時間くらいなら、余裕で眠れそうだけど。


 「上司を信じて、荷物を置いたら、顔だけ洗ってロビーに集合な」

 「本当にどこへ行くつもりですか。今日は飲めませんよ」

 「いやいや、健全な食事なだけだから。名付けて、タックコースね」


 意味が分からない。

 佐藤さんも戻ってきたので、私たちは十分後にロビーへ集合することにした。

 私は自分の部屋へ入る。

 部屋は広い。

 ベッドも広い。

 今すぐ横になりたい。

 でも、少し気にはなる。

 タックコースって……ダサい名前。

 言われたとおり、顔を洗う。

 これだけでも、少し調子がよくなった気がする。

 隣にある浴槽……。

 海外の浴槽は少し抵抗があるけど、今は普通にお湯につかりたい。

 この体にまとわりついている疲れや汗を、一気に流したい。

 シャワーだけでも……いや、それほどの時間はない。

 鏡に映る顔を見る。

 耳元で、お気に入りのイヤリングが光っている。

 やってやろう。

 タックコース。


 「来ないから、駄目かと思いましたよ」

 「タック、女子はいろいろあるの。メイク直しとかね?」


 ロビーに着くと、二人からぼやきが聞こえる。

 どうして黒川さんは、私にウインクをしたの?

 今日はそもそも、ベースメイクしかしていない。

 ホテルを出てしばらく歩き、私たちが入ったのは、赤い建物だった。

 金色の漢字。

 そう、漢字だ。

 ここ、アメリカだよね?


 「え、中華ですか? ハンバーガーとか、ステーキとかではなくて?」

 「理沙ちゃん、今それを食べると、明日死ぬよ」


 私のぼやきに、黒川さんが真顔で言ってくる。

 でも、せっかくアメリカまで来たのに、貴重な食事を……中華?

 会社の近くでも食べられるのに……。

 席に座ると、佐藤さんが慣れた手つきで、いくつか料理を注文した。

 料理が出てくるのも早かった。

 見たところ、空心菜の炒め物、牛肉の炒め物、スペアリブの揚げ物、カニの揚げ物、海鮮焼きそば……。


 「濃い味ばっかり……」


 それから黒川さんは、瓶ビールを頼む。

 私にも勧めてきたが、さすがに断った。

 料理が並ぶと、佐藤さんは写真を撮る。

 あの人、食事の写真を撮る人だったっけ……?

 二人は酒と合わせて、おいしそうに食べている。

 私は食欲が湧かない。


 「水野さん。だまされたと思って、お腹いっぱい食べてください。食欲がなくてもです」


 私の気分を察したのか、佐藤さんが声をかけてくれる。

 本当に、今の私に必要なものなのだろうか。


 「私はこれで、留学時代のフライトを乗り切ってきたんです。今もそうですけど」


 佐藤さんがそこまで言うなら……。

 試すだけ、試してみよう。

 空心菜の炒め物を一口食べる。

 たっぷり入ったニンニクが、体に染み渡る。


 「え? 何これ。すごくおいしく感じる!」

 「でしょう? 時差ぼけはさ、味の濃いものをいっぱい食べて、さっきの薬を飲んで寝れば、一発で治るから!」


 黒川さんが自信満々に言う。

 佐藤さんは笑みを浮かべながら、食事をしている。

 経験の差……というものだろうか。

 本当に、仕事では少し雑なのに、こういうことはうまい。

 今は言われたとおりにやって、やり遂げてみせる!


 ……

 ……

 ……



 お風呂から上がると、拓海さんから「おはよう」のメッセージが届いていた。

 こちらは夜の十時過ぎなのに……。

 不思議な感じ。

 彼は今、遠い場所にいる。

 電話したい……!


 『もしもし、東雲さん?』


 拓海さんの声がする。

 少し息が上がっている……?


 「東雲です。電話、まずかったですか?」

 『いいえ、少し走りに出ていたので』

 「出張に行っても走るんですか? 何だかすごい。ドラマみたい」

 『大げさです。あ、シューズは前に一緒に買った、薄い青色のものです』

 「ああ、何だか嬉しいです」


 あたし、素直に言いすぎかな。

 あ、少し待って!


 『見えます? 今走っているのは、こんなところです』

 「うわ、すごい! 海辺ですね!」


 すごく不思議な感じ。

 拓海さんがいるのに、海辺で、朝で……。

 でも今は、自分のすっぴんが気になる……。

 画面をオフにしたままでも大丈夫かな?

 拓海さんの顔が映った。


 『ここは何度か来ていますけど、来るたびにいい場所だと思っていたので、一度は見せたいと思って。つい、ビデオ通話にしました』


 サングラスをかけている。

 かなり走ったのかな。

 汗もかいているし。


 「長袖なんですか?」

 『あ、こちらは今、15度くらいなんですよ』


 気温もかなり違うんだ。

 知らないことが多い。


 「今日が拓海さんの発表ですよね?」

 『そうですね。午後なので、それまでは少し気が立っているかもしれません。でも、次に東雲さんと電話する時には、もう終わってハンバーガーを食べていますね』


 笑っているけど、少し……緊張している?

 力になってあげたいけど……。

 うーん。

 もう、知らない!


 『え?』


 全部は無理。

 口元だけは隠す。


 「頑張ってね、拓海さん! こっちで応援しています」


 手を振ってみる。

 ……恥ずかしい!

 スマートフォン越しの彼は、豪快に笑っている。

 やっぱり、すっぴんはよくない?


 『ありがとう、東雲さん。今、すごく元気が出ました。頑張れます!』

 「よかった。でも恥ずかしいから、画面を切ります」

 『あ、少し待って。もっと東雲さんの顔が見たいです!』

 「ごめんなさい。無理です」


 画面を切る。

 さすがに、まだ抵抗がある。

 明日……きちんとした時に、また電話したい。

 話題を変えよう。


 「そういえば、中華料理、おいしそうでしたね。あたしも食べたくなって、麻婆豆腐を作りました」

 『……はい。おいしかったですけど……』


 少し元気がなくなっている。

 そんなにショックだったのかな……。

 話題を変えられない。


 「拓海さん。次は、すっぴんではない時に、きちんと顔を出して電話しますから」

 『……はい。でも、すっぴんも可愛いです』


 この人は……本当に……。

 あたしを、どれだけ甘やかしたいの?

 駄目だ……しっかりしよう、美咲!


 「走る時は無理をしないで、発表も頑張ってくださいね」


 ようやく拓海さんは笑ってくれる。

 あたしも、その笑顔を見て、安心して眠れる。

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