その十三
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今朝は、すっきり目が覚めた。
調子もとてもよかった。
朝の七時。昨日あれだけ食べたのに、お腹も空いている。
タックコースはすごいと思った。
ロビーで合流すると、佐藤さんはご機嫌だった。
「余裕ありますね」
「今朝、走っていたらいいことがあったので」
私の嫌味に、誠実に返してくる。
いいこと?
え、出張先まで来て走るの?
真面目? それとも、ただストイックなだけ?
後から黒川さんが現れ、三人がそろってホテルを出た。
「変な気を起こすなよ、今日」
学会の会場まで歩いている途中、珍しく黒川さんが佐藤さんに注意する。
いつものおちゃらけた様子はない。
佐藤さんは何も言わない。
人のよさそうな表情もない。
無表情に近い。
初めて見る顔だった。
彼は、私たちの中では最初に発表する人だ。
けれど、出来栄えは分からない。私は彼の発表には、あまり関わっていなかった。
学会のバッジを首にかけ、フリードリンクのコーヒーをもらい、事前に確認しておいたセミナー室へ入る。
私はそこから佐藤さんに会えず、次に見たのは、彼が発表する午後だった。
昼食の時間に、黒川さんと二人で食べながら言われた。
「タックは、気が立つと神経質になるタイプだから、一人にした方がいい。準備はできている」
そういう人なんだ。
知らなかった。
でも、黒川さんの言葉からは、信頼と強い関係性を感じる。
私は黒川さんから、あんなふうには言われない。
まだ届かないのね。
やっと同じ舞台に立てたと思ったのに。
それから午後一番に、彼の発表が始まった。
「CAR-TやiPS細胞をはじめとした細胞治療は、大きな可能性を持つ一方で、製造コスト、品質のばらつき、技術者依存――」
淡々とした発表。
ところどころに笑いも入れているのか、聞いている側から笑い声が上がり、彼も柔らかく笑う。
優しく、聞きやすく、面白く話す。
発表後、学者の一人が質問をする。
あの人は……ショーン・ブライアンだ!
「――つまり、shortcut learningに陥っている可能性を、どのように排除していますか?」
え、面倒。
佐藤さんの回答に対し、ショーンの質問が続く。
「OOD環境下でのモデルの信頼性は、どのように検証されていますか?」
彼の質問は、ほかの人たちも知りたかったことなのか、何人かがうなずく。
「――AIは賢そうに見えても、環境が変わると急に自信満々に間違えるので。特に細胞培養は、『昨日まで正常だった条件』が――」
佐藤さんの言葉に、何人かが笑う。
面倒な質問でも、観客を味方につけて、きちんと答えている。
佐藤さん、舞台に強い人なんだ。
それにしても、あの二人、仲がいいんじゃないの?
ショーンさん、厳しくない?
ずっと間の抜けた話をするんじゃなかったの?
このやり取りが普通なの?
……私にできる?
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朝、ランニング後にシャワーを浴びてからが、一番忙しい。
朝ごはん用に作っておいたミルフラップを、電子レンジで温める。
化粧をする。
楽しみにしていた、拓海さんのメッセージを開く。
「いい景色」
拓海さんは、海辺の写真を送ってくれている。
何枚か、ぎこちない感じの自撮りも混ざっている。
それから、見覚えのある白人が拓海さんと肩を組み、一緒に写っている。
前に捕まえた人だ。
二人ともスーツ姿のように見える。
拓海さん、ネイビーのジャケットが似合う。
表情も和らいでいる。
無事に終わったのかな。
顔を見る限り、成功したように見えるけど。
よし、化粧も終わったし、昨夜のお詫びでも送ろう!
「あ、脱ぎ捨てた服が写ってる……これは駄目だ」
もう一度、なるべく決め顔で。
うーん、可愛い感じの方がいいのかな?
よし!
これはいい感じになっている。
余計なものも写っていない!
【おはよう! 発表お疲れさまです! 顔を見ると、いい感じに終わったみたいですね? これからは無理せず、楽しんできてね!】
猫が喜んで踊るスタンプもつけて……。
待って。
重いかな?
でも送りたい。
送る。
拓海さんは遠くにいるけど、近くにいる気がする。
……よし。
今日も頑張ろう。
……
……
……
「黒川さん、私、いけますかね」
佐藤さんの発表後、一通り挨拶が終わり、会場内のベンチに座っていると、黒川さんが来た。
そして、今の気持ちを素直に話す。
黒川さんは、じっとこちらを見てくる。
これは……相談相手を間違えた。
「やめたいのか」
「いいえ、やります。忘れてください」
「理沙ちゃん……言い方はあれだが、俺は君に、彼と同じものを求めていない。やれることをやってくれ」
……やっぱり間違えた。
そんな言葉、聞きたくない。
「夕食の時間まではホテルに戻ります。少し頭を冷やしてきます」
「了解。今夜はステーキだからね!」
黒川さんが明るめに答えてくれる。
気遣いなのか、素なのかは分からない。
私は学会会場を離れ、市街地へ入った。
気分が落ちている時は、アクセサリーを買うと決めているから。
地図では、メインストリートはここになっている。
気晴らしのできる、いいものが見つかればいいけど。
……気晴らしできるかな。
「ロボットも、そんな顔をするんだね」
ショーンさんだった。
腹が立つロボット呼ばわり。
前にも一度、それで注意したのに、覚えていないのだろう。
この白人はにやけながら、私に近づいてくる。
「水野理沙だよ。前に教えたでしょう? 名前」
「OK、理沙。こんなところで一人で何をしている?」
にやける彼に、言い返す言葉がない。
何を?
発表に自信がなくなって、無理やり気分を上げるために買い物へ来たと?
言えるわけがない。
「記念品を買いに来たんだよ。ローカルのアクセサリーを買っておきたいから」
「明日が君の番だろう? 余裕だね」
痛いところを突かれる。
やはり、この人は失礼な人だ。
彼と同じ!
……同じではないかもしれない。
たぶん、今の私の状態を見抜いている。
「いい女に声をかけたってことは、一杯おごってくれるの?」
「でも、君のような人が、大事な発表の前に飲めるのか?」
彼は肩をすくめながら、そう言う。
この言葉には、何も言い返せない。
練習をして、想定される質問を潰すべきだと、自分でも分かっている。
でも、あの人との実力差が、目の前に広がっている。
埋めきれない。
「はあ~。だからタックは、俺を寄こしたのか」
佐藤さんが……ショーンさんを?
何を言い出すの?
「タックの発表、うまいと思っただろう?」
「そう……だけど」
「あいつは、そういう奴さ。会った時から人前に立つことに慣れていて、プレッシャーにも強い」
彼は、懐かしむような、腹を立てているような、妙な顔で話し始めた。
佐藤さんは、やっぱり最初からできる人だったのか。
「最近はユーモアも身につけて、さらに強くなった。黒川さんの影響だろう。それに比べて、俺は人前で話すのが好きじゃない。言葉がうまく出ず、流暢に言語化できないからさ。大学院時代、セミナーでの発表では、タックとずいぶん比較されたんだ。だから、恥を忍んで聞いた。どうしてお前は、そんなにうまいのか。アジア人は恥ずかしがり屋じゃないのか、と」
彼は一度、息をのむ。
先ほどの質疑応答を考えると、そんなふうには見えない。
彼はまるで周囲を気にしないように、佐藤さんへずけずけと質問していた。
それが、好きではないと?
「そうしたらあいつ、『俺は別に、みんなに向けて話していない。目に入る一人を決めて、そいつとやり合うつもりで話している』と答えたんだ。脳筋すぎないか? 俺は、さすが柔道マンだと思ったよ」
笑いながら、佐藤さんのやり方を教えてくれる。
そんな高校生の発表のようなやり方で、今もやっているの?
そのような方法を、知らないわけではない。
人をジャガイモだと思うとか、そういう話は分かっている。
「でも、そんなの、そもそも自信がないとできないじゃない!」
「学者の自信は研究成果から生まれるものであって、生まれ持った才能からではない」
ショーンさんは淡々と、私の叫びに返してくる。
くそ。
正論を言うなよ。
言い返せないでしょう。
目頭が熱くなる。
「自分で決めたテーマが花開くんだろう? 信頼できる人が手伝ってくれたんだろう? なら、自信を持っていいんじゃないか」
分かっている。
そんなこと。
涙が少しこぼれる。
「ホテルに帰る! じゃあな、筋肉馬鹿!」
ホテルに向かって歩き出す。
後ろからショーンの声が聞こえた。
「アクセサリーは、ネジでいいんだね?!」
振り返らず、中指を立ててから歩き続けた。
ホテルに戻ったら、夕食までに資料を三回見直す!
台本も、もう一度見直す。
黒川さんの確認もいらない!
私がやってみせる!
……
……
……
向こうは今、何時だろう?
つい時差を調べてしまう。
昼過ぎ頃に、拓海さんからまた写真が届いていた。
すごく品のあるレストランで、外国の人たち数人と、黒川さん、拓海さんが写っている。
テーブルには、ステーキやグリル料理、酒が並んでいる。
「うわ、ザ・海外って感じの写真じゃん。変な感じ」
七海とは夕食を食べる約束をしていたので、その写真を見せた。
そうだよね。
すごいとは思うけど、こうして見ると、遠いところにいるという感じもする。
「あ! こいつ、この間捕まえた奴じゃない?」
集合写真の端に、拓海さんの友達の白人を見つけ、七海が叫ぶ。
実は、あたしも同じことを思っていた。
「この人も学者さんなの?」
「大学院が一緒だったみたいですよ。同じ研究分野だから、現地で会えたみたいな?」
「へえ。タックって、そこら辺のお兄さんって感じだけど、実はすごいのかもね」
「何だか、柔道も高校の時は県大会の上位までいったみたいで……」
「マジ? それ、うちに知り合いがいるんじゃない? 少し調べてみようかな」
七海がまた、悪そうに笑いながら頭を働かせるのが見える。
確かに、うちの署にも、埼玉出身で同年代の人を探せば、当時の拓海さんを知っている人がいるかもしれない。
でも、そんなのは何だかずるい気がする。
それに、あたしが余計なことをすると、少し危ないかもしれない。
知られたくないわけではないけど、影響は出したくない。
「いいな、海外。しのちゃんはパスポートも持っていないでしょう?」
「うん。興味がなかったからそうだけど……海外の海辺を走るのは、やってみたいと思いました」
七海から、少し哀れむような視線を感じる。
ランニング、いいと思うけど。
どうしてそんな目で見るの?
七海を無視して、先ほどの集合写真をもう一度見直した。
やはり、日本人らしい人は黒川さんと拓海さんしかいない。
もう一人は、結局行かなかったのかな?
友達の白人を含めて、三人と言っていたのかな?
「タックは、いつ戻ってくるの?」
「土曜日の夜に着くみたいです」
「何か、お土産頼んだの?」
七海は目を輝かせながら聞く。
ただでもらえるものがあるのか、探っているのだ。
一応、拓海さんは七海の分も見てみるとは言っていたけど、今は教えない。
この二人は、微妙に仲がよくない。
いや、決して悪くはない!
ただ、よくないだけ。
お土産で少し和らげばいいけど。
「たぶん、チョコレートとかですかね? サンディエゴって、何が有名なんですかね?」
「何かつまらないな。アメリカって、有名な下着屋さんとかもあるから、そっちを頼めば?」
何を言い出すの?
七海、もうグラスが空いてる。
酒を飲むペースが速すぎて、もう下ネタ?
頭を強く左右に振る。
この人の毒は、拓海さんにはあまり見せたくない。




