その十四
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発表が終わった。
話したいことは話した。
拍手ももらえた。
英語が詰まる瞬間も、言い回しが下手になる瞬間もあった。
そのたびに、真ん中辺りに座っている佐藤さんをにらんだ。
この場で、私が勝負する相手は佐藤さんだと決めていたから。
昨夜、私は結局夕食には参加せず、準備に没頭していた。
彼は私の部屋に食事を届けに来てくれた。
「食べて、あと一時前には寝てください」
「分かりました。でも佐藤さん、余計なことを仕掛けましたね?」
ショーンさんのことを思い出しながら話した。
彼は少し笑って、言葉を探した。
「あまりにも弱い相手では、勝負にならないですから」
明らかな挑発だった。
……けど、分かった。
嘘をついている。
私がいつもキャンキャン言うから、それに合わせて言ってくれているのだ。
思わず笑いが出た。
「佐藤さん、意外と演技が下手ですね。普段はあんなにうまく立ち回るのに」
彼は困った顔をする。
私は分かる。
彼はそんな言い方をしない。
避けられない戦いは拒まない。
でも、自ら火種は作らない。
そういう人だ。
「水野さんが国際学会に慣れていないことは知っています。でも、あなたは十分通用する人だと思います。私ではなく、あなたをここに連れてきた黒川さんを信じてください」
彼はそう言う。
でも今は、黒川さんよりも、佐藤さんの言葉の方が心に染みる気がした。
意外と不器用な、優しい人。
そして、帰り際に言われた。
「一番注意すべきなのは、身内ですからね」
だから、質問が来ることは分かっていた。
でも、黒川さんだとは思わなかった。
「細胞試験の標準化と誤差解析が、よくまとまっている内容だと思います。でも、標準化と言っていますが、それは『条件を固定した』だけではありませんか? 現場適応性は、どこまで担保されていますか?」
一番よく知っている人が、敵に回った。
考えろ、理沙。
これは試しだ。
会場の静けさに負けてはいけない。
みんなが聞きたいことだ。
「ご指摘のとおり、単一条件への固定化だけでは、実運用上の再現性は保証できません。そのため我々は、培地組成、細胞密度、operator、incubator環境を意図的に変動させたmulti-site assayを実施しています」
「variability allowanceを最初から組み込んでいると?」
「はい。『誤差を消す』のではなく、『誤差込みで成立する条件』を探索しています。特にoperator dependencyについては、mixed-effects modelで寄与率を分離しました」
「……operator factorは?」
「全体変動の6.8%です。初期系では18%近くありました」
会場が静かになる。
何人かのペンが走る音が聞こえる。
私は黒川さんをにらむ。
「なるほど。そこまで落としたのであれば、実験系としてはかなり安定していますね。今後の研究も楽しみにしています」
いつものへらへらした笑いはない。
やり切った。
手応えは感じられた。
会場の人たちも、何人かがうなずいている。
それから何人かの質問を受け、滞りなく受け答えができた。
黒川さん。
私、いけましたか?
みんなで作った成果を、きちんと届けられましたか?
あの人と、並んで立つことができましたか?
聞きたいことがたくさんある。
でも、黒川さんはたぶん答えてくれない。
もう、答えはもらっている。
……
……
……
自宅に着いて、拓海さんから届いたメッセージと写真を見ている。
学会の大きなポスター。
その前に、拓海さん、黒川さん、それから知らない女性が笑いながら立っている。
みんなスーツらしい姿で、写真の端には外国人もちらほら写っている。
【うちのチームの発表、終わりました。明日は黒川さんのスピーチがありますが、興味ありません!】
時間的には数時間前。
今、向こうは深夜かな。
三人目って、女性だったんだ。
年齢は近そうに見える。
森下さんに似た雰囲気だけど、それよりも、あたしに近い何かを感じる。
シルバーのイヤリング、指輪、ネックレスが目立つ人だ。
この人が……前に言っていた、知り合いに似ている人なの?
あ、電話!
「もしもし、東雲です」
『あ、つながった。今、既読になったから電話しちゃいました』
私はビデオ通話に切り替える。
『今、ちょうど帰ってきたところですか?』
「うん……拓海さん、すごく疲れていますね」
見てすぐに分かった。
少し乱れた髪型。
赤い顔。
後ろのベッドには、ネイビーのジャケットが投げ捨てられている。
『うーん、飲み疲れですかね。さっきまでロビーのバーで、黒川さんと飲んでいたので』
「もう、お仕事は終わったんですか?」
『まだ……リサーチ業務がありますけど、簡単なので』
拓海さん、あくびをしている。
眠いのね。
「眠いなら、無理しなくていいですよ。早く寝てください」
『嫌だ。東雲さんを見たいです』
可愛い人。
最近、こういうわがままが増えたな。
分かりやすい愛情を感じる。
『今日もお仕事、大変でした?』
「最近は落ち着いていますよ。拓海さんほどではありません」
少し眠たそうにしている彼を見つめる。
海外で、研究者として、第一線で活躍している。
あたしの知っている拓海さんとは少し違う。
優しくて、まっすぐで、要領もいい人。
そんな彼がひどく疲れ、緊張し、やり切ったという顔をして、仕事をしている。
彼があたしのすべてを知らないように、あたしも彼のすべてを知っているわけではない。
それが少し寂しくて。
でも、まだいろいろな拓海さんに会える気がして。
もっと大切にしたいと思う。
「あたし、拓海さんのことをもっと知りたい」
『うん? どうしたんですか……俺も、東雲さんのことをもっと知りたいですよ。好きだから……』
ずるい。
あたしが悩んでしまうことを、彼はさらっと言ってくる。
彼はもう、眠りにつきそう。
少し不安がある。
だから、言っておきたい。
「拓海さん。今はゆっくり眠って。大好きよ」
急いで終了ボタンを押す。
ビデオでは、最後に少し驚いた拓海さんが見えたが、何もメッセージは残さない。
恥ずかしい。
でも今は、言わなきゃいけない。
そう思った。
……
……
……
「タックさん、私、サンディエゴを出る前に、有名店のハンバーガーが食べたい」
「……この数日、昼はずっとハンバーガーでしたけど?」
拓海は水野の言葉に突っ込むが、その突っ込みに水野はにらみを利かせる。
黒川が少し笑っているのも、拓海としては気に入らなかった。
三人は学会、展示会での仕事を終え、サンディエゴでの最後の夕食を控えている。
明日は早朝にサンフランシスコへ移動し、夕方までは自由時間にする予定だ。
もちろん会社には、市場調査と報告している。
サンフランシスコでは、黒川と水野の希望で車を借り、遊び回るつもりだった。
「あれは、何か違くないですか?」
「いや、一緒ですよ? パンに肉とチーズを挟んでいるだけですよ?」
「お前ら、小競り合いするな。別にいいだろう。今回、初めての理沙ちゃんの要望だぞ!」
こういう時の黒川は、完全に水野の味方だった。
いや、拓海の敵と言った方が正しいかもしれない。
拓海は額に手を当て、スマートフォンで周辺を調べ、ダウンタウンにあるハンバーガー店を見つけた。
今いる場所から歩いて十分ほどだったので、散歩がてら歩き始める。
「アメリカって、もっと夕方から歩いたら危ないと思っていました」
「まあ、普段はそうなんじゃないですか? 今は展示会で、人も多くなっている状況ですし」
「タックさんが留学していたところも、こんな感じですか?」
「私が行っていたのはサンフランシスコなので、少し雰囲気は違いますかね」
黒川は、他愛もないことを話す二人を、少し後ろから見守る。
彼は今回の出張で、二人がもっと自然に話せる関係になってほしいと思っていた。
水野の発表をきっかけに、実際にそうなってきていたので、手応えも感じていた。
ただ、拓海はまだ、妙な防衛線を張っているようにも感じていた。
おそらく、そこは本当に拓海の個人的な線引きなのだろう。
これ以上、何かを仕掛けたり、動かしたりするのはよくないとも思っていた。
「そんなことより、お前ら、俺のスピーチをちゃんと聞いていた? 昨日から感想がないけど?」
「……はい。すごかったです」
「同じく」
いつものおちゃらけが通じない。
いつもは、どちらかが下げれば、もう一方は持ち上げてくれていたのに。
黒川としては、少し寂しさを感じる。
仲よくなったことは、上司として嬉しい。
(でも、こいつらが会議で同時に反発してくると……面倒だぞ)
自分の願いがかないすぎたことを、少し後悔する黒川。
三人は有名なハンバーガー店に着いた。
夕食の時間には少し早いため、並んでいる人はいなかったが、店内はほぼ満席だった。
拓海が二人の希望を聞いて注文する。
その間、二人は窓際のテーブルに座った。
二人は料理を待ちながら、店内を撮影する拓海を見る。
「あの人、あんなに写真を撮る人でしたっけ?」
「いや? 前に一緒だった時は、まったく撮っていなかったよ」
「へえ。今は、すごく女子みたいですよ」
「何? 写真を撮る男は嫌いなの?」
「いや、そうではなくて。私、三年くらい一緒に仕事をしているのに、タックさんのことをあまり知らないなと思って……」
その答えに、黒川は安心すると同時に、仕事上の不安もよぎった。
自分のスピーチ後、彼女が拓海を呼ぶ時、自分や森下と同じように「タック」と呼ぶようになっていることには気づいていた。
先ほど感じたように、距離感も以前より近くなっている。
でも、この興味の持ち方は、やはりそちらに引っ張られているのかと考える。
「理沙ちゃんって、彼氏いたっけ?」
「はい、セクハラ」
相変わらず、自分に対するガードが堅いなと感じる黒川。
少し悩ましい結果になりそうだと思うのだった。
黒川がそんなことを考えている間に、拓海は注文したハンバーガーなどを持ってくる。
普通のチーズバーガーが二つ。
ミニチーズバーガーが一つ。
ポテトフライにチキンウィング。
自分たちはちゃっかりビールにして、水野の前にだけ、大きめのチョコレートシェイクを置いた。
「……何でしょう、タックさん。この血管を破裂させそうな代物は?」
「名物のシェイクです。ポテトフライをつけて食べてください。そのまま飲んでも大丈夫です」
そう言いながら、拓海は食べ物の写真を撮った。
黒川が大きな声を上げて笑う。
「記念だし、俺も写真を撮るわ。理沙ちゃん、シェイク持って」
水野は不満だった。
しかし、言われたとおりにシェイクを持ち、苦笑いする。
両隣には、満面の笑みを浮かべた拓海と黒川が写っている。




