その四十七
「お風呂、ありがとう」
拓海はタオルで髪を乾かしながら食卓に座っている美咲に言う。彼女もすでに風呂上りなので、寝間着で使っている可愛いらしい半袖、短パンの服を着ている。金曜の夜、当番明けの彼女は夕方に拓海が自宅に来ることに合わせ料理をして、彼を向かい入れて、二人で食事をした。
約一カ月ぶりくらいの週末夫婦だったが、なんの違和感もなく楽しく過ごせる。
「まだ暑いでしょう?扇風機持ってきましたから涼んでね」
風呂上りは普通に暑かったので、美咲の言葉は非常に助かった。拓海は美咲の正面に座り、扇風機にあたる。美咲が彼を顔をゆっくり見るのは本当に1か月ぶりくらいかもしれないと思った。ランニング中はなんだかんだ、じっくり顔を見る暇はなかったからだ。
拓海を感想していたところ、美咲は思い出して立ち上がる。棚を変えて以前ショーンから頂いたウィスキーを取り出し、拓海に見せる。
「一杯、どうですか?」
「いいですね。美咲も飲むよね?」
美咲が頷くと拓海が立ち上がろうとしたので、美咲が止める。涼む彼を横目に美咲はてきぱき準備した。拓海がやるようにウィスキーグラスに氷を入れ、適量を注ぐ。おつまみなりそうなものがないか、冷蔵庫を見るとスモークチーズが目に入ったので、少量を小皿に入れて食卓に出した。
「おつまみ、なくてもいいのに」
「気持ちです。出せるものもあまりなかったので」
拓海は美咲がチーズ好きと知っているのでわざわざおつまみとして出してくれるのが申し訳ないと感じた。美咲としては家で酒を飲まないから、すぐ出せるものがないって事に改めて気づいた。補強しなくてはとこっそり思っている。
2人は乾杯をして、一口飲む。以前にも感じたトロピカルな味わいが口の中に広がる。
「あたし、これ好きかも。一人の時に飲んでもいい?」
「いいよ。でも1日に一杯までですよ?」
「そんなに飲めないですよ」
美咲はそう言いながら可愛く笑うが、拓海は‘美咲が覚えてないだけかもよ?‘と思ってしまう。前科があるから、この考えを否定できないのが悲しかった。
拓海は自分が持ったグラスの風味を味わう彼女の姿を見つめる。美咲は視線を感じたのか、拓海に聞く。
「拓海はウィスキー結構飲むイメージあるけど、留学時代から?」
「いや、これは親父の影響だよ」
拓海は自分で話して失言をしたと思った。もうなくなっている父親のことを自然に言ってしまったから、ここから最近気にしているものを美咲にいうべきかどうか、迷ってしまう自分が生まれるからだ。それを知らず、美咲は純粋な目で質問をしてくる。
「拓海はあまり、お父さんの話しないからなんか新鮮です。お父さんは洋酒が好きだったの?」
「あ~そう言えるかな?うち、昔は輸入雑貨店をやっていたんですよ。だから家にも自然に洋酒が多くて、周りから頂くものもそういう系が多くて、親父が最初に分けてくれたお酒もウィスキーでした」
「へぇ~、因みにそれはいくつの時?」
いつもの悪ふざけが来たと拓海は思う。こういうやりとりは好きだった。技と困った顔を作って話す。
「え~中学2年くらいですかね?」
「はい、ダメですね。拓海少年、お父さんが罰せられますよ?」
美咲は可愛い表情と甘い声で注意してい来る。拓海は笑みを浮かべるしかなかった。こういう悪ふざけの時に、彼女がしっかりした警察だと感じる。
2人が笑みを浮かべてからしばらく。拓海は少し迷っている。美咲もそれには気づき心配そうに聞く。
「お父さんの話、したくない?」
「ううん、そうじゃなくて。ちょっと美咲に言わなきゃと思うのがあって、でもどうしようかと迷っている」
その言葉に美咲の家は静寂が走る。扇風機の音だけが夏であることを知らせてくれている。
美咲は彼が迷うことを知りたい。すでに亡くなった父親に関することに違いない、しかし父親を早く亡くしたこと以上に自分に言わなくてはならものが想像できていない。
しかし、最近に自分が結婚という目的地向けて急いでいらように感じている。ここは、拓海の荷を減らしてあげたいと考えた。
「拓海が辛かったら、言わなくていいです」
拓海は少し驚く。
自分が知っている彼女なら、ここは話を聞きたいと思っているはずだからだ。話を聞いて、今後どうするかを決めるのに時間が必要になると思っていたのに、言わなくていいと言われてしまった。それが、拓海としては少し線を引かれたみたいに感じて、少し落ち込んでしまう。
「知りたくないの?」
「知りたいけど、拓海が辛い事はしてほしくない」
優しい人だと思った。しかし、同時に自分が言わないと2人で次に進められるかどうか決めきれないのではないかとも思っている。だから、今の彼女の反応が拓海をさらに悩ましくしてしまった。
「会えない間思ったんです。急ぎすぎではないかなって」
「…結婚のこと?」
「うん。いつの間にあたし達それを前提に話していると思ったの。それは年もあるから仕方ないけど…結婚ばかり考えると思わずに拓海にすごい負担を与えていら気がして」
「そんなことはないよ。俺、結婚は美咲としたいと思っている」
拓海の慌ただしい言葉を美咲が微笑んでくれる。拓海はその笑みにこれ以上の言葉を生み出すことができなかった。つい先ほど自分が出した言葉も合わせて、これから何を言っても薄い気がして、誤解されそうで怖かったのだ。
美咲は何も言わない彼を見て少し寂しい気分になる。目の前にある、氷が解け始めているウィスキーを一口飲む。美咲のグラスが食卓に着くと拓海も一口ウィスキーを飲んだ。
「聞いてくれますか」
拓海は覚悟を決めたように視線を美咲に向かって話す。逸らされていた彼女の視線が拓海に戻る。今度は拓海が美咲からの視線を逸らし、グラスを見ながら話す。
「俺が高校生の時、親父がなくなっているのは知っているよね?」
「うん、だから柔道やめたんでしょう?」
「そう、親父は過労で倒れて入院してさ、簡単な手術を受ける予定だったんだ」
そこで美咲は気づく、医療系の事故に違いないと。
拓海の声は静かだった。彼はグラスの中の氷を見る、溶けた水で少しだけ薄まったウィスキーに自分の幼かった頃の顔が写るようだった。
「手術が終わってみると症状は悪化、結果として死亡になったんだ」
美咲は何も言わず、話しを聞く。彼はまだウィスキーグラスをのぞいている。
「日に日に弱くなる親父を見て、姉も、俺もおかしいと思ったんだ。母なら、なおさらだよね?何回も担当医にクレームみたいなことを入れたみたい。その度に向こうが話していることが変わって、信用できなくなったんだ」
拓海は喉が渇いたのか、ウィスキーを一口喉に流す。
「俺は考えすぎだと思っていた。でも母は彼らを信用できなくて別途調査を依頼したんだ」
「…ミスがあっだと思ったんですね」
「そう、実際に調査を始めると、疑わしい事がどんどん上がってきた。うちの家族は、医療事故としか考えられなかった」
自分が話す言葉に拓海は少し驚く。こんなにスムーズに誰にも話せていなかったことを美咲に話せると思わなかった。
実はこの会えない間、この話をどう切り出そうかを悩んでいた。話し始めるともっと自分が感情的になりすぎで、美咲にさらに負担与えるのではないかと心配をしていた。でも今は喉が少し渇くだけだった。
「そこからはドライな世界だったよ。弁護士が自然に家に出入れするようになり、母も何回か病院と弁護士事務所、法廷に行って、いつ終わるかわからない戦いが継続したんだ」
美咲は医療事故によるケースがどうなるのかよく知っている。多くのケースがいい結果にはならない。その中で関わっている人たちが疲弊していくことも仕事上で見てきていたからわかることであった。
だから今の拓海に渡せる言葉がなかった。簡単な慰めは悩んだ話始めてくれた彼に失礼だと思ったからだ。
「一番つらかったのは母が自分を責めることだったよ、もっと早く気づいていたら、違う病院にしたらと言い続けていだからね」
「拓海は…由佳さんや美月さんは大丈夫だったの?」
拓海は首を左右に軽く振る。美咲はおろかな質問をしたと後悔した。
「姉も美月も、各々防衛線を張ってメンタルを守ったと思うよ。姉は勉強に専念したし、美月は好きなものだけに走るようになった。おかけで当時のリビングには誰もいなかったよ。だから、俺はなるべく母親と一緒にいようとしたんだ」
美咲はやっと一つ理解ができた。由佳、拓海、美月が持つ兄妹というには妙によそよそしい心の距離感。その背景が見えたからだ。各々が自分を守るために、各々距離を置いて、自分ができることをしていく。佐藤家の全貌が見えると美咲は一気に悲しい気持ちになった。
顔が暗くなり美咲の前で拓海は言葉を続ける、
「それなのに、俺は病院で見てしまったんだ」
「何を見たの?」
「事故をを起こした医者と看護師がね。母が立ち寄った後は必ず裏で泣いていた」
彼の顔が素の、無表情に近しいものとなる。美咲は直感で分かった。昔と拓海と今の拓海の境界線に立っているのはその二人であると。その二人の泣いている姿か今の拓海を作ることになったと。
「事故なんだ。こちらは被害者とはいえ、そのスタンスで接し続けると相手もまともなメンタルでいられない。会うたびに毒々しい、呪いのような言葉を言われ、仕事も、人格も否定される。日々日々彼らも疲弊したんだろうね」
達観したように拓海は話すが、すぐさま重い空気になった。美咲は彼ら2人の気持ちが到底想像ができなかった。そしてそれを見つめる幼い拓海の気持ちもまた、想像ができなかった。
「母もその姿を見たから、わかってはいたと思う。でもその時の母に余裕はなかった。誰かにその怒りをぶつけて、親父の悔いを晴らさなくてはならなかったから」
拓海は半分くらい氷が解けてしまったウィスキーを飲む。美咲もそれに合わせて一口、もうトロピカルな味は薄くなってしまったが、ウイスキーの強い香りは残っている。
「父の葬式の後、母は1年近くひどい状態だったよ。家でも気が立っていて、妹が体調崩しても病院には行かせなかった。姉がこっそり連れ行くレベルだったよ」
「病院は信用できなくなったんですね」
ケースでも読んだことがある。遺族の方によくある話であった。
しかし、美咲は拓海はが自分の感情を抜いて話しているのが気になり始めた。
「法廷の戦いが長く続くから、弁護士の進めもあって紹介されたメンタルセラピーを通って母はよくなっていた。だから俺も、留学することができたんだ」
「もしかして拓海が帰ってきたのは」
「そう、3年半くらい前にね。すべてが終わったんだ。結果は原因不明、病院は遺族に一定のお金を支払って、罪なしとなったよ。母はまた、精神的に追い込まれたんだ」
ただ気まぐれで、信野医薬にスカウトされたからではない。家庭の理由があったから彼は日本に戻ると決めたんだ。時々自分が思っていた海外でもって活躍しない拓海の理由がわかってしまった。
「だから俺は日本に戻った。母とも話せて、程よく仕事もできるから」
「それじゃお母さんはまだ?」
拓海はその質問の意図が知りたかった。頭が勝手に結論づけようとしている。
(病んでいる母を、面倒見る花嫁はいない)
美咲がどう思っているのかはわからない。でも頭が決め出した結論と同じであれば自分はどうすればいいのだろうか。その前に自分は彼女に何の回答を求めているのであろうか。
拓海は微妙に残っているウィスキーを飲みほした。それから笑顔を見せる。美咲はその笑顔が悲しい。きっと良くない事を想像していたと美咲は思った。
「もう大丈夫だって。実際に薬も飲まなくなったし、その時の話もできる」
「じゃ、拓海は?」
美咲の質問に拓海が理解できないのか、美咲を見て首をかしげる。
「拓海はお父さんの事から大丈夫になった?」
「大丈夫だよ、何言ってるの?」
美咲も余っているウィスキーを飲み干す。それから、拓海の目を見て話した。拓海はその目が真っ直ぐ過ぎて、怖くて嬉しかった。
「ならなんで拓海の気持ちがどうだったのかは話してくれないの?事故の起こした二人を見て、どう思ったの?」
拓海は一瞬言葉に詰まる。美咲は鋭く、自分が隠していた部分に入ってきた。意図的に隠したわけではない、あまりうまく言葉にして話す事が出来なかった。
それは今もそうだ。拓海は美咲を見ると、彼女は表情を変えず、視線を逸らさず、自分を見ている。待ってくれる時だ。
拓海は少し考えてから隠さずに、話した。
「泣いている二人は、都合いい人たちで醜いと思ったよ。何回も殴りに行こうと思った。でも、悲しいとも思った」
「辛くは、嫌いにはならなかった?」
「なったよ。でもその二人、裁判が初めて1年の間、精神的な理由で辞めたんだ。だから今は可哀そうと思っている」
「お母さんが荒れていた時は?」
「…何もできなくてつらかったよ。もし当時の俺が今ぐらいであれば全然違ったと思う。もっと母を悲しませずに済めたと思う。いや、事故も防げたかもね」
最先端で医薬品を扱うからこそ言える言葉だった。
拓海は美咲の質問に回答することで、先より少し感情的に、自分事として彼女に打ち明けることができるようになっていた。
美咲は話を聞いて少し怒りたい部分があった。なぜこう言うことは言わずに1人で抱え込んでいたのかと、それくらい自分を信用していなかったのかと。
でもすぐ純粋に彼が偉いとも思えた。普通なら逃げてもおかしくない分野に、自ら入り今は最先端で仕事をしている。それはおそらく、当時事故を起こした二人のようなことが少しでも起きないように裏方で支援していくためではないかと推測してみる。そこまで美しい話じゃないかもしれないが、父の死から逃げずにやっているのが尊敬できると思えた。
「拓海は、つらくなってない?」
「今?全然平気、当時はどうだったか、忘れちゃった」
拓海は密かに思う。自分の人生の生き方は大部分その時に決めた。自分が損してもいいから余計な被害者、悲しい事を増やさないように努力したいと、泣いている二人を見ながら思った。それから実際に自分が努力すれば、よくなるケースは多くあった。だから、この生き方を選んだ。
「拓海、以前あたしにきれいな面だけ見ているつもりはないと言いましたよね?」
美咲はそう言ってからに拓海の左手を両手で摑まえる。逃げられないようにするためだ。
「あたしも同じです。あたしも拓海のいろんな面を見て、それでも隣にいたいと思うの。だから、一人だけで背負わないで。あたしと一緒にいて」
美咲の言葉に拓海は思わず、手は抜こうとしたが、美咲に握力で動くことができなかった。その動きに美咲は少し微笑んで拓海を見つめる。彼は気まずそうな顔になるが、今回は思わずとはいえ、自分が彼女にいやなことをしてしまったと認識している。だから、美咲の両手の上に右手を添える。
「ごめん…つい逃げようとした」
「大丈夫よ。ちょっとした甘えだと思うから」
「…これを知ったら、美咲が負担と感じる気がして怖かった」
美咲は静かに笑みを浮かべて、気を付けて言葉を選ぼうとした。
拓海の言葉を否定するのは簡単なことだっだ。そんなことないと言えば、彼は安心してくれる。でも、それは違うと彼女は思っていた。彼が今まで一人で抱えたものを、軽い言葉整理したくなかった。
「…負担がないと言ったら、嘘だと思います」
拓海の手が少しだけ震える。しかし、美咲がその手を離すことはなかった。
「拓海がずっと背負ってきた事から、あたしが何も感じない方がおかしいです」
美咲は優しく微笑み、握っている手に少し力を込めた。
「今拓海が優しくいられる理由も、頑張っている理由も、少しわかった気がして嬉しい」
美咲は拓海の目を見つめる。
拓海はウィスキーのせいで赤くなっている彼女の顔を見ている。彼女に言葉に嘘はない。負担も、不安もあるように見える。でも弱いから投げ出す人には見えなかった。
「だから、あたしにも頼ってほしい、あたしは拓海の隣にいたい」




