その三十八
金曜の夜、川崎のマンションの一室に水野は横になっている。先ほど目が覚めたのだ。
昨日からの風邪のピークは過ぎて、今は少しのダルさと喉の痛みが残っている。幸い鼻風邪ではなかったので、声が変になることも、鼻水が出ることもなかった。
彼女は昨日なら寝込み、ずっと自分が情けないと思っていた。拓海にああいわれたからどこかで持っていた緊張の糸が切れてしまったと思う。日本についてすぐ体調がすぐれないと感じたので、彼の言葉に影響を受けているのは違いないと考えた。
水野は彼が演技をしていたと考えている。中途半端に自分の気持ちに気づいている彼女に対して、あえて刺激を与え、‘私はあなたを同僚としては見るけど、女性としては見てない‘と言ってくれたと考えている。それが、悲しくと少し嬉しくて、韓国の最後日は感情がくちゃくちゃだった。
「もう来週が嫌だ」
溜め息と一緒に思わず口に出てしまう。会社でどんな顔で拓海に会えばいいのかわからなかった。何事もなかったように振る舞うのはもうできそうにない。
ベッドの横に置いていたスマートフォンを持ち上げて見ると昨日から個別のメッセージが溜まっている。森下から、西村から、早川からだった。
森下、西村からは体調を気にするメッセージを送ってくれる。ただ西村の最後のメッセージだけ気になる。
【ごめんなさい。早川さんが向かいます】
はてなをつけて、早川のメッセージを開く。体調を気にするメッセージと仕事関連が少し。しかし、最後のメッセージに驚いてベッドから起き上がる。
【今水野さんはマンションの近くです。できれば少し話したいです】
水野はメッセージの時間を確認する。すでに1時間くらい経っている。
(こういう子じゃないのに…どうしたの)
水野は慌てて早川に電話をかける。何回かコールが鳴る。
『早川です。水野さん体調大丈夫ですか』
「早川くんどうしたの?」
『大丈夫そうですね』
彼はいつもの如く自己完結していると水野は感じた。でも今日はちゃんと話さないといけないと思う。彼は今かなり常識から離れた事をしているからだ。
「どうしたのって聞いてるよ」
『水野さんと話ができればと思って、近くに来てます』
「早川くん、これまずい事って自覚ある?」
『あります。普段の俺なら絶対しない事だから』
「会社の後輩とは言え、こんな時間に人の家の近くで待ってるって…スートカーがやる事だよ」
『わかってます。でも俺がやらなくてはいけないと思いました』
彼は今話が通じる状態ではないと水野は思った。この場はとりあえず帰らせて、来週に改めさせた方がいいと水野の本能が語っている。後輩とは言え年頃の男性、1人の女性である水野は警戒せざる得ない。
「何がしたいのかはわからないけど、今日は帰って。今のあなたとは会えない」
『じゃ、このまま話聞いてくれますか』
早川は引こうとしなかった。彼自身もここまでやる意味があるかどうかは知らない。もう人に頼らずやらなくてはいけないと思う。
水野は早川の強情な態度に何も言えなかった。
『そのまま聞いてくれるだけでも結構です』
「早川くん、帰って」
『拓海さんに韓国で嫌な事言われましたよね。それ、俺がお願いしたんです』
その言葉に水野は頭が真っ白になった。なぜ知っているのか、なぜ早川がそんなお願いししたのか、なぜ今私にそれを明かすのか。何一つ纏まるものがない。
『あなたが拓海さんを特別に思っていたことはチームのみんなは気づいています。それが絶対実ることがないことも』
まだ頭が勝手に回る。
知っているって何?みんなってどういうこと?絶対実らないってなんでわかってたの?
何一つ彼女の中からは回答が出ない。
『みんながどんなつもりであなたを放置していたかは知りません。でも俺はできなかったです』
「まって、何を言っているのかわからない」
『わからなくていいです。俺は話しに来ただけだから』
拓海に続き、早川からも言葉の苦しさが送られてきた。水野はもうたくさんだった。ただ、幸せになるために頑張ってきたつもりなのに、それを受け入れてくれず、勝手に違う事が押し込まれてくる。
残るのはどこからかわからないまま襲ってくる怒り。
「みんな…私をみて馬鹿にしていたの?」
『違います』
「私がタックさんが好きなのを知ってを何も言わずに見てたくせに?」
『俺は言いました。後、みんなは今までの水野さんに触れにくかったんです。閾値を超えていつ爆発してもおかしくなかったから』
その言葉に少し自分の行動を見返すことができた。確かに自分はアメリカから帰ってきて、それまでとは違う接し方で拓海を接していた。ランチに誘った、飲みに誘った、駅まで一緒に帰った、会議室でも彼を尊重した。彼に距離を置かれながらも、彼女がいると知りながらもその態度は変わらなかった。
「私…そんなにおかしかった?」
『はい。水野さんが積み上げたものと一緒に壊れそうでした』
水野は後悔し始めた。
今まで拓海と小競り合いはあるけど、うまくやって来れて、やっと隣で立つこともできて、自分しかその場に似合わないと思っていた。だから、そこにいる人として振る舞っていた。それが人から見るととても危うく見えていたということだ。
水野は今それに気づいて、自己嫌悪しか感じれなかった。早川は電話の向こうで乱れる彼女の声だけを聞いている。しばらくしたら時間をおいて、早川が静寂を破り話した。
『あなたは俺の憧れです。半分投げ捨てて行った研究者の気持ちに火をつけてくれて、導いてくれた人です』
暗い部屋、窓から月の光だけが少しでらされている。その部屋の真ん中に水野は静かに立っている。目が馴染む。早川の言葉には何も言い出せない。
『俺だけじゃない。うちの会社で何人もあなたに刺激を受けて、手本にしている人達がいます。だから、まだ俺たちの憧れでいてください』
「そんな大したこと…何もやってない」
『あなたはそうかもしれません。でも俺たちには違います。どうか、一時的なホルモンバランスで自分を投げ捨てないでください』
「勝手な事…」
『勝手でも構いません。罵っても構いません。あなたが選んだ道を捨てないでください』
早川の普段聞くことのない言葉に水野は胸元が温まる事を感じる。それは解熱剤か切れたせいかもしれないし、暑い夏の夜だからかもしれない。それでもなければ頬にのって降りてくる涙のせいかもしれない。
「しばらくそこにいて」
水野はそう言ってからに羽織られる薄手のものをかけて部屋を出る。早川くんの居場所はわかる。
早川は電話が切られてから入れ口の近くの公園で静かに立っている。人もいない静寂な夜、早川は空を見上げる。精一杯できる事をしたつもりだった。この後は水野にピンタをされても、怒鳴られても仕方がないと思っていた。
水野のマンションの自動ドアが開く。身に薄い布を纏った水野が早川に向かって歩いてきて、正面に立つ。
「早川くん、今だけ胸貸して」
そう言った水野は遠慮もなく、早川の胸に顔を埋めた。それから叫ぶように言葉を発した。
「勝手に進まないでよ!」
早川が断るもできずに自分の胸に顔を埋めて、自分の両腕を握りしめている水野を見る。彼は自分の胸元が少し濡れている気がした。
「私、頑張ってただけじゃない?なのに、みんな勝手に私の感情に気づいて!知ってるくせに、勝手に距離をとって!…私だって辛かった!幸せになりたかった!やっと…できると思ったのに…遅すぎだって…悔しいよ!」
水野の絶叫のような独り言が早川の体に響き渡る。これは女としてなのか、人としてなのか、研究者としてなのか、早川にはわからなかった。だから何も言わずに触れず、たまに胸を叩く水野の拳の痛みを我慢しながら見つめている。
「あんたもそう…勝手に憧れないで!私がどれだけ苦しいのか知らないくせに!皆んなから期待だ、すごいとか言われて…でも本当は何もできていなくて…どれだけ自分が惨めだと感じるか知らないでしょう?!そんな苦しさだけの私をなんで憧れるのよ?!」
ただ一つ、早川として修正しておきたいことはあった。
「水野さんは苦しいだけじゃなかったですよね?」
「あなたに何がわかる?!彼らとやり合うのがどれだけ努力がいるのか、わかるわけないじゃない?!」
「知りません。でも、水野さんは仕事楽しいって言ってました。楽しそうにやり合ってました。そこに本当に苦しさしかなかったんですか?」
水野は埋めていた顔をあげて早川を見る。
彼が言ってることが正しすぎで何も言い返せなかった。この数年苦しさと楽しさ、両方あった。少し苦しさが多いかもしれない。それでも嫌いでやってきたわけではないことは確かだ。みんなとやれて、期待されて、努力が実って、人前で堂々とできるようになって、苦しいけど、達成感もある日々だった。
「だから…自分で積み上げたことを見捨てないでください。俺らは道標が消えます」
まだ水野の目からは涙が流れる。早川はそれに触れない。むしろ一歩足らに下がって彼女を見つめる。彼女を自分の服で涙を拭いた。
一頻り涙が流れたせいか、彼女の頭はスッキリした気がした。片付けられいるものは何もない。それでも妙に落ち着ける気がした。
「生意気なやつ、勝手に道標にしないで」
早川が少し自分が知っている水野に戻ったと感じる。彼はポケットに入っている電子タバコを取り出す。
「一服しておきます?」
「もういらない。それのせいで風邪引いたから」
やっと早川は笑うことができた。
「家にあげたりはしないから、ささっと帰れ」
「はいはい、帰りますよ」
水野の冷たい言葉に早川は電子タバコをポケットに戻して駅に向かって足を運ぶ。少し距離が出来たら水野の声が聞こえる。
「今日あったこと、誰にも言わないでよ!」
「わかってますよ!」
そんな距離でもないのに、2人は大声を出す。
「ありがとう、早川くん」
その言葉は小さかったが、早川にもちゃんと届いた。早川は笑みを浮かべる。でもこれは彼女に見せるつもりはない。自分の憧れにお礼聞くのはかなりいい気分だった。誤魔化すように話す。
「おまけでスッピンも忘れておきます」
水野には振り向かずにそう言って手を振って駅に向かう。遠くなっていく彼の姿を見て水野は溜め息をついた。
「情けない姿を見せてしまった」
水野はそう言い残して部屋に戻る。自分の線を守る後輩が、普段しない事をしながら自分を元気付けにきてくれた。そして具体的な言葉で支えてくれた。それに答えなくてはならない。




