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その三十七

 「水野さんは、憧れなんです」


 拓海は煙を吹きながら早川の話を聞く。飲み会の熱もあり、お酒に酔ったこともあり、早川は言葉が出てしまう。


 「製薬業界のR&Dって、基本博士じゃないと行けませんよね」


 必ずではない。しかし大半そうである。黒川、森下、拓海もまた博士号を持っている。そうでないのは水野、早川、西村だった。チームとして異様な形、拓海も気づいている。


 「水野さんが黒川チームに入れたのはお偉いさんの気まぐれみたいなものです」


 それでも彼女は結果を作っていた。足跡を残してくれた。彼女が努力の痕跡が、新しく研究者になろうとするものに刺激を与えていた。


 「俺、元々品質上がりって知ってました?」

 「まぁ、移動してきた時にね」

 「つまんない仕事だと思ったんですよ。せっかくいい大学出て、なんとか大企業受かって、配属を見たら品質って…研究したいって言ってるのにですよ」


 よくある話だった。学部のみの実力では競争力が劣るのも事実で企業としての費用対効果が薄い。研究志望と言われても能力で見て営業や品質、またしも購買業務に回されることもある。


 「退職して、院に行くべきかとも考えましたよ」

 「そういう時に、水野さんを知ったのか」

 「拓海さんには悪いですが、学部を上がりで、海外出身の研究者とやりあえて、すごいと思いました」


 拓海は早川が移動してきた時を思い出す。気怠そうに見えて、でも確かな特技があると聞いていた。実際一緒に仕事すると淡々としていて、任せればちゃんとできて、効率よく立ち回って器用だけど、適度な線を守れる子だと思った。そういう彼が今、線を超えて心から拓海に話している。


 「同期のみんなで話しましたよ。水野さんなら手本になる。みんなあんな風にになろうって。だから移動の話しがきた時すごい嬉しかったんです」

 「近くで仕事できてよかったな」

 「そうです。色々教えてもらいました」

 「だから」

 「…今の彼女を見ると俺は、悔しいんです」

 「憧れ人が、俺のせいで生殺しになっているからね」

 「はい」


 早川は落ち着いた顔で拓海を見つめる。その目には悔しさも、怒りも、申し訳なさもある。拓海はタバコの火を消して、灰皿に捨てる。早川に近づき、彼の肩に手を回す。


 「よーくわかった」


 2人はゆっくり歩く。

 早川が言える言葉何もない。失礼なことも言って、こちらの期待をなすりつけて、嫌な役をお願いしていら自覚があった。

 拓海は少し考えてから早川に向かって話す。


 「ダメだったら、お前も言いに行け。変に線引かずに」

 「…はい」


 短い回答が返ってくる。

 2人は先までみんなで飲んでいた居酒屋に足を運ぶ。



 …

 …

 …

 朝早く拓海から電話があった。

 寝起きでて出ると彼はとても疲れていた。

 朝なのに、休まれてないんだ。


 「何があったの?」

 『水野さんにもう俺を見るなと言った』


 …正直、嬉しい。

 気にしたくないけど、気になることだったから。


 『彼女、周りから信頼されているからさ。俺は必死に嫌な役をしたよ。もう、二度とやりたくない』

 「うん、辛かったね」

 『でも怖いんだ。これでみんなが求める水野さんが消えたらどうしようって』


 不安なんだ。

 あんなに人を支えるのが上手い拓海が、可哀想に。


 「心配しないで、あなたが嫌な役をしたら、誰かは支えの役をすると思うよ」


 私の言葉に拓海はじっと携帯を、あたしを見つめてくる。

 どうしたんだろう。


 「どうしたの?」

 『俺を選んでくれてありがとう』


 拓海の急な言葉にあたしは顔が赤くなることを感じる。

 朝から急に何言い出すの?


 『昨日水野さんに色々言って思ったんだ。もし美咲があの時電車で声かけてくれなかったら、どうだっかなって、怖いなって』

 「あ、あれはあたしとしても、結構勇気出したやつですからね!」

 『そうだね。勇気出してくれてありがとう』

 

 また恥ずかしいことを何食わぬ顔で言う。

 でもあたしは自分で選んだなんて言えない。勇気は確かに出したけど、そばにいたいと言い切ってくれたのは拓海だ。

 あたしこそ感謝しなきゃいけない。


 「今日…こっちにくる?」

 『…俺も行きたいと思った』


 彼はそう言いながらゆっくり笑みを浮かんでくれた。 愛おしい人、器用で不器用なあたしの彼。


 「早く帰っておいで」


 彼はすぐに笑みを浮かべて首を縦に振った。

 あたしも要領は良くないかもしれないけど、彼のためには努力したいと思う。

 …

 …

 …


 


 【ごめん、やっぱりしばらく会えない】

 

 佐久間の返信に美月は少しイラついた。何度目かのリスケを喰らい、やって返事が帰ってきたのがこの回答だったからだ。別に彼氏彼女ではないから強要もできやしない、でもこれはなったとしても同じではないかとも美月は思った。


 「拓海、出張伸びて明日帰ってくるって」


 食卓からの母の声に、美月はまだしもイラつきを感じる。兄がわかりやすい嘘を母についていたからだ。兄の味方になるつもりは今の彼女にはない。


 「どうせ彼女の家に泊まるんだよ」


 その言葉に、母の真理子は朝から立ち上がりソファーに座る。


 「誤魔化してるけど、実際どうなの?」

 「何が?」

 「拓海、結婚すると思う?」


 母が、母していると思い少し嫌な気分になる。姉の時とは少し異なる、心配、期待、不安を感じれる。美月は拓海のこの最近の行動らを思い返す。そして女の感で話す。


 「すると思うよ」

 「そうなのね、大丈夫かしら」

 「なに?寂しいの?」

 「そりゃそうよ。拓海は独り立ち早かったし、今は家族優先でやってくれたでしょう?」

 「美咲さんがうちに住めばいいじゃん」


 美月は無邪気に話す。

 みんなでハッピーだと思っている。美咲は拓海と住めて、職場も近くなる。母も兄が家を出ずに済む。自分は可愛い美咲に毎日会える。

 真理子はそんな娘はあからさまにダメな子として見ている。深い溜め息が自然と出てきた。

 

 「ダメな小姑だね」

 「え、なんで?」

 「普通に考えてよ。誰が喜ぶのよ?そんなの」


 私は嬉しいと、娘は思っている。でも言ったら怒られるやつだと美月は察している。


 「そもそも由佳の部屋もあんたの趣味で潰されてるじゃない!」


 趣味ではなく仕事だが、真理子は美月の仕事を理解していない。彼女の目には大学も卒業しているのに家にいるニートにしか映らなかった。

 美月はお金もちゃんと入れてるのに理解されないのが悔しい。でもこうなった母は聞く耳を持たない。


 「仮に向こうが良いって言ってくれても寝所もないのよ」


 拓海の部屋があるだろうと美月は言えなかった。しばらく母の説教が続きそうだったので、美月はそっと佐久間との付き合い方を考える。




 「おはようございます」


 拓海が出社すると、森下と西村が心配そうに彼を見ていた。早川はまだいない。みんなはチームメッセージでもらった水野の事を気にしていた。


 「理沙ちゃん、韓国で体調悪かった?」

 「そうですね、フライトの時までは大丈夫そうに見えましたけど、二日とも接待だったので」

 「向こう激しいもんね。一人暮らしだから大事にならないといいけど」


 森下との会話で淡々と誤魔化しながら話したが、彼も気になっている。

 昨日韓国の最終日では水野と拓海はあっていない。2人とも会う気持ちもなかった。午前中は二人が別行動をしていて、帰りのフライトにおいても特に落ち合う約束はしていなかった。ただ、同じフライトではあったので、飛行機の乗り込む彼女の姿を遠目に見ただけだった。

 拓海は自分の行動が悪影響を出したのではないかと密かに心配している。今朝、そのメッセージを見た時からずっとだ。美咲との会話がなかったら、平然を装えなかったと彼は思う。


 「おはようございます」


 早川がオフィスに入る。彼は独断変わった様子は見当たらない。


 「れんれん、今日理沙ちゃん体調不良でお休みだからかレビューとか後ろ倒しでいい?」

 「メッセージ見ました。了解です。来週前半までなら問題ないと思います」


 彼は森下と話してすぐノートパソコンを立ち上げる。いつもと変わらない様子だった。先から奥に座っている黒川はこの件に関して特段コメントはしていない。メッセージでも’お大事に’と言う一言だけ。

 最もモヤモヤしているのは内情を知っている西村だけだった。彼女はすぐさま、拓海に個別のメッセージを入れる。


 『何がありましたよね?』

 『なにも』

 『絶対うそ、手出しちゃった?』

 『何のことかわかりませんね~仕事してください』


 拓海はそうメッセージを返してからしばらくメッセージがたまっている個別のやり取りを進めた。そして早川に一つメッセージを送り、席を立つ。テラス喫煙所に向かう中、自販機によって缶コーヒーを買う。

 缶コーヒーを飲みながらテラスの喫煙所に行くとちょうど後ろから早川が付いてきた。


 「黒川さんから説明しろってめっちゃメッセージ来てた」

 「ですよね、静かすぎると思いました」

 「まあ、これはれんれんの想定範囲内?」


 早川は電子タバコに電源を入れながら、軽くうなずく。


 「出張されている間、黒川さんと飲んで、思ったより根が深いと気付きました。そこからの想定なら範囲内です。以前お願いしたタイミングで見ると範囲外ですけど」

 「実は昨日水野さんとは会ってないんだ。火曜の夜、ひどい事言ったから」

 「水野さんからはなんて言われたんですか」

 「‘最低‘って」


 拓海はコーヒーを飲みながら早川を見る。彼は軽く笑みを浮かべると’どうぞ続けてください’と言ってるようなポーズをとった。


 「ちゃんと話しました。俺は変わらないと、あなたが俺を居心地悪くさせていると、下手な遠回しではあったけど、女性としてみてないってことも」

 「はっきり言いましたね。やっぱりショック受けてますか」

 「わからない、本当に最低って言われて終わったから」

 

 早川は少し苦い顔になる。

 これで終わるなら、黒川の言うとおりだと思ってしまったのだ。自分で自分をメンテできないと、研究者としては向いてない。立ち直れないなら、自分の憧れは消えていくだけだと。


 「黒川さんには別途報告する。水野さんをどうにかしたいなら早川くんが考えて」

 「わかりました。これ以上拓海さんにはお願いできませんもんね」

 「そう。俺は、もうしない」


 拓海はそう言ってから缶コーヒーを飲み干す。先に戻ると言って拓海はテラス喫煙所から離れようとしたところ、後ろから早川が言う。


 「自宅に帰ってないの、ばれてますよ」


 拓海はその声に左手だけ挙げて適当に揺らして反応した。‘気にするな‘と言う意味か、‘気にしてない‘と言う意味なのか、早川には分らなかった。

 一人残された早川は少し考える。二本目のスティックが差し込み、吸い始める時に決めた。一度水野さんに連絡を入れようと。中核な人が悪役をしてくれた、こちらが慰めの役をするしかないと考えた。荷は重い。

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