その三十六
早朝、美咲は家に向かって走っていた。いつもなら隣に彼氏が一緒だったかもしれない。しかし、拓海は今この国にいない。
(昨日楽しそうだったな、焼き肉食べてたし)
昨夜自宅に戻る道で拓海からの写真がいっぱい届いていた。’ようこそ、韓国へ!’って書いてある仁川空港の写真、ガラス張りの高いビルのホテル、展望台で撮ったような街の写真、夕食の焼肉屋さんでの写真、あまり人が写ってはいなかった。
(水野さんが一緒だから、気を遣ってくれてるのかな)
美咲は曲がり角を回りながらそう思った。その時にポケットに入れていたスマートフォンが鳴るのを美咲は感じた。
『おはようございます。韓国から拓海です』
「ちょっど拓海のこと考えてましたよ」
美咲はビデオ電話をしながら歩き始めた。もうすぐ家に着くので、ここからは歩くことにしたのだ。
「昨日の焼き肉、楽しそうでしたね」
『その反動を塞ぎたいから、先までホテル近くの公園走ってました。美咲も走ってた?帰り?』
「もうすぐ家なので、歩いてますよ」
2人は他愛もない話をする。以前のアメリカみたいな時差もない、少し遠くいるだけで、同じことをやっている2人だった。
「お仕事は順調?」
『まぁー今日がメインだからやって見ないと、でも多分大丈夫』
「悩みの方は大丈夫ですか?」
『うん、今日夜話すよ』
「気をつけてね、あなたが傷つかないように」
スマートフォンの向こうの人は少し困った顔をしてから顔を縦に振る。
美咲も彼の習性は分かっている。自分が悪者になる選択肢も取れる人だ。でもそれは美咲としてはやってほしくない。彼がたまに見せる疲れ顔に傷が増えていくのは見たくないのだ。
「ごめんなさい、なんかわがまま言ってるよね。やることやってきてください。あたし、待ってる」
『うん、必ず帰るよ』
そう話すと2人は互いに笑顔を見せる。
美咲はちょうど家に着いたことを伝え、電話を切った。スマートフォンを食卓に置き、シンプルな腕時計を外す。彼女はしばらく黒い画面のスマートフォンを見下ろしてから自分の頬っぺたを摘む。
「頑張ろう」
もう美咲に彼についての不安はない。ただ、心配だけが少しある。
…
…
…
「水野さんも吸うようになったんですね」
取引先の女性の社員にそう言われる。
私は思わず隣に立っているタックさんを見る。この人のせいだとは流石に言えない。
「電子ならいいかなって」
そう言い返すと取引先の女性は笑う。最近は韓国内でも女性の喫煙率が増えているらしい。
ストレス社会だもの、吸えることを増える。
今私たちは昼食をとって休憩していた。
午前中にミーティングした取引先がランチを提案してくれたので、一緒に近場の鳥の料理を食べて、誘いもあったので灰皿があるところに立ち話しているところ。
すこしプライベートな質問も増える。
「2人はご結婚されていますか?」
「いいえ、2人ともまだシングルです」
「そうなんですか、もしかして2人でなんかあるとか?」
なんとなく言われたかったことを女性は冗談混じりで言ってくれる。
嬉しい。でも反応には困る。
ちらっとタックさんを見ると彼は淡々と話した。
「私は彼女がいますね。水野さんは仕事が恋人みたいな?」
知っている。
でもあなたに私はそう見えるのね。仕事ね。
「あ、そうなんですか。確かに水野さんはお仕事好きですよね」
「いや〜忙しく。中々会う余裕とないてますね」
期待通りに進まない会話に私は早く片付けることにした。タバコもちょうど消えかけている。そろそろ次の会社にも向かわなければならない。
タバコを吸い終わって取引先は自分のオフィスに戻り、私たちはタクシーを呼んで待っている。
「なんか変なの言われたね」
「まぁ、よくあることでしょう。年相応な2人が指輪もなく、ぶらぶらしてればね」
「結構言われるの?結婚しないとか」
「実家なので、母が結構心配してますね」
そうなんだ。
意外な気がした。ちゃんとやっている人なのに、家ではそういう事を言われるんだ。
まぁ、私も実家に帰ると同じ事は言われる。
周りに同年代でいい男はいないのかと。
「タクシー来ましたよ」
彼を見ていると私に振り向いてそう言ってくれる。私は少しびっくりしてしまった。
油断するな、私!
…
…
…
「ねね、今日話してもいい?」
「何を?」
伸也が運転する車の中で、助手席に座った真緒は楽しげに伸也に聞いている。
「私たちできてますって」
伸也は彼女の発言に急に咳き込む。今は商工会に行く道、別にそういうのは問われないし、話す必要もない場所だ。食事がついてお酒も入ってるなら別だが、今日はそういうわけでもない。
「話す必要ないでしょう。そういう集まりじゃないし」
「私と付き合ってるのが恥ずかしい?」
真緒は笑っている。しかし、見方によっては怒っているようにも見えた。伸也は空気が良くないと気付いたが、運転中には何もできない。
「会社にも言ってないみたいじゃない?」
「そういう場所じゃないからね」
「うちの子たちから聞いて、みんなびっくりしてたよ」
車内は無言になる。さらに空気が悪くなる様子だった。
「俺は個人のことを仕事の関係の人に公表するつもりはない。噂になって、個別に問われるなら別だが」
「隠したいってこと?」
「違う。ちゃんとするタイミングではちゃんと話す」
「いつ?」
真緒が笑顔で迫る。付き合い始めて今まではあまり触れずにいたけど、真緒はより確信が欲しいようだった。ならあげるしかないと伸也は思う。
「結婚が決まったら」
伸也は一瞬だけ、真緒に視線を送る。やっと彼女は明るい笑みに戻ったように見えた。深夜は安心して前方へ集中力を戻す。
「じゃ、やっぱり今日商工会では言わないとだな。あ!今のはプロポーズとしてカウントできませんからね。ちゃんとしてくださいね」
真緒の暴走を伸也は止められない。隣とうるさく吠えている子犬の声に、伸也は困った顔をしながらハンドルを回した。
夜、ガラス張りのホテルの前に拓海と水野は立っている。午後のミーティングと終わり、取引先との食事が終わった。この後2人で動くのは明日の帰りのフライトのみ。
「流石に2日連続の接待は疲れるね」
水野が拓海に声がけるように話す。彼女は彼女なりに頑張って食事の対応していた。それは拓海にもわかる。ホテルに入りながら水野は拓海に聞く。
「まだ10時前ですけど、どうします?」
「ホテルのレストランとかで飲み直そうか」
水野は意外って顔をする。彼女としては行きたい気持ちはあったが、当然断られると思っていたからだ。
2人は部屋に戻らずそのまま、レストランの方に向かい、バーカウンターに座った。人はあまりいない。
「意外です。明日も走ると思ってたから、1人反省会しようと思ったのに」
「水野さんとはサシで飲んだことないですもんね」
確かにそうだった。黒川チーム内で少人数で飲んだ事はある。しかし、拓海は前から水野と2人でいることを意図的に避けていた。そういう事が必要だと思っていたからだ。
拓実はギムレットを、まずのはスクリュードライバーを頼むとすぐにものが届いた。その間2人は特に話すことなく、バーテンダーの手の動きをじっと見ている。
静寂に不安を感じる水野の先に口を開く。
「この間のベトナム楽しかったな〜、タックさんは行ったことある?」
「ないですよ。ひなちゃんもすごい楽しかったみたいですね」
「あの写真見た?」
「見ましたよ。2人とも素敵でした」
拓海はそう言って少し後悔する。今日は当たり障りない話をするためにいるわけではない。それでも出てしまった言葉は拾えない。
水野が笑みを浮かべて話し続ける。
「そう言えばこの間タックさんが話していた昔の映画見たよ」
「あ、飲み会で話した映画ですね」
「画質は古かったけど、内容は面白かったよ」
まだしも拓海が好きそうなネタで話題を振っている。拓海はぎこちなさを感じながらギムレットを飲んだ。水野が1人で映画の感想を話すのも数十秒、拓海の顔を見てスクリュードライバーを一口。
レストランの静かな音楽だけが2人の間で流れる。
「水野さん」
「うん?」
「もう俺を見るの、やめてくれませんか」
水野は拓海を向いたまま、止まってしまう。彼女の頭は数ある言葉の中で、適切なものを探す。逃げるのか、誤魔化すのか、それとも認めるのか。しかし、拓海は待たない。
「俺、変わらないんで」
「…なんの……いつから気付いたの?」
逃げて誤魔化したい、しかしそれは彼女自身が許せなかった。認めて彼に聞く。彼はずっと正面を見ている。
「俺の呼び名が変わった時からです。その前からも、時々感情がこもった視線は感じました」
水野は思い返す。
自分はいつからこの人を見ていたんだろう。それは覚えている。面談のためロビーで待っていたスーツ姿の時からだ。いい感じの人だと覚えている。黒川の厳しい質問にも、面白い冗談でも、根本的な態度を変えず飄々と対応していた。生きるのが上手な人だと見えた。
自分で精一杯な彼女自身とは違う、尊敬できる同年代の男としてみていた。
「俺は気にしてなかったんです。仕事の場所だから、あなたも仕事をしてくれて、罵り合って、楽しくやれてるからそれでいいと思いました。少しあなたが苦手でも」
会議室でも、オフィスでも、実験室でも水野は拓海に関わっていた。それは厳しい意見の時も、他愛のない話の時もあった。彼女は淡い気分だげはない、隣に立っていたい気持ちで彼と張り合っていた。
「美咲と付き合ってはっきりわかったんです。水野さんが苦手な理由」
「…なんだったの?」
「あなたは俺を見過ぎている。居心地悪くなるくらい」
拓海の言葉は鋭さを持っている。さらに鋭くしないといけないと拓海は思う。
「だから…最近距離を置いてたの?」
「はい、でも水野さんには感謝してます」
「何が…」
「あなたと俺の彼女は似ています。人への関わり方、距離の取り方、線の引き方も」
水野は拓海から目を離して、スクリュードライバーを見つめる。彼の言葉一つ一つが、彼女の華奢な肩をぶつけて通りすがる。
「だから彼女が俺に好感を持ちやすかったと思います。あなたで覚えて適切な距離感で始めから接する事ができたから」
「そう…なんだ」
「あなたも気付いたでしょう?美咲に会った時」
美咲はどこかは似ていると思っていた。
しかし、同時に私が先に拓海にあったのにと思ってもいた。そんなに似ている人を後から選ぶなら。
「じゃ、最初から私を選べばよかったじゃない!」
声が大きくなってしまう。水野は自分でも驚き、口を手で隠す。バーテンダーが、レストランにいる人が彼女に視線を送る。
近づくバーテンダーに拓海が手を上げて止めた。それから水野の椅子の肘掛けに手を乗せ、彼女に体を寄せて、鋭くなった言葉を放つ。
「本当にそう思うなら、別に今からでもいいよ」
水野が拓海を強く推して立ち上がる。そこにはいつも彼女が見ている人良さそうな人ではなく、冷たい顔が視線を送っていた。
彼女は今ひどい屈辱感を覚えた。拓海が放った言葉が女性としても、研究者としても見られていなかった気がしたのだ。きつい事を言われたわけではないのに、拓海に初めて嫌悪に近いものを感じる。
しかし水野は、彼に対して一つ覚えているのがある。彼は今演技をしている。自分を騙して、人を騙して、適切な結果が出るように演技をしている。きっと今もそうだと彼女は思い始めた。
「水野さん…今のあなたじゃゲームにならないよ。張り合うんだろう?俺と」
その言葉に演技だと確信が生じる。だから言わざる得ない。
「…最低」
水野はわかってきた。わざわざこんな事をして、意図的に傷をつける真似をして、選択させようとしている。
だから彼はここまでしなきゃいけなかった。それは多分自分のためであると、自分が彼にこうさせてしまった。もう女性としては隣に立つ場所はないから。
(私は、遅すぎたんだ)
水野はそのままカバン持ってレストランを抜けて行った。1人残された拓海は椅子に座り、顔を手に埋める。
(辛い、言いたくないことをいっぱい言った)




