その三十
来週からはお盆の連休となり、信野医薬もまたしばらくお休みとなる。そしてこの2人、拓海と水野が会社に来るのは、さらに先となる再来週の木曜日だった。
「連休明けに海外出張とはいい身分だな」
「あなたが行かせたんです!」
黒川の言葉に拓海は少し文句を言う。黒川チームはまだしも品川付近の飲み屋にいる。しかし、意外と各々お盆休みは忙しかった。
黒川は明日から子供達と海沿いに街に長めの旅行に、森下は家族で旦那と自分の実家に帰省、水野と西村は一緒に来週月曜から海外旅行の予定している。早川はロードバイクで四国を回る予定だ。
拓海だけは特別な予定がない。正確には無くなった。
「たっくん、美咲さんと大丈夫?どこも行かなくて」
「美咲さんも忙しいし、俺も姉が帰省するので実家でまったりですよ」
元は翌日の土日に美咲さんと秦野に行くつもりだった。しかし、伸也が断ったのだ。まずは2人で話したいとのことで拓海が入る隙を与えてくれなかった。しかも美咲は今日当番、ハードなスケジュールになるのは違いない。
「理沙ちゃんとひなちゃん、ベトナム行くんでしょう?」
「そうなんですよ〜このベトナムのダナンで、リゾートしてきます!」
黒川の言葉に西村が盛り上がるようにダナンの写真を見せびらかす。しかし、黒川チームは意外とリゾート地に興味なかった。
「タックさん、コーヒー好きでしょう?ベトナムコーヒー、買ってこようか?」
隣に座っていた水野が場の勢いに乗って、拓海に聞いてくる。彼は、不定期に訪れる水野のこの距離感が好きではなかった。妙に拓海のツボに入るものだけてくるのも、いささか気になるところだった。
「大丈夫です。せっかくですから、こちらは気にせず楽しんできてください」
拓海がそう言うと水野は何食わぬ顔で、わかったと言ってからひなちゃのベトナム話に戻る。それを早川は見ている。
「拓海さん、ちょっとタバコ買いに行きましょう」
「あっ、早川くん、私のも買ってきて!」
拓海が断る隙もなく、森下の言葉に押され席を外すことになった。
拓海は気づいている。早川の呼び名が変わったことも、美月に何かを吹き込んだことも。多分それを2人の時に話したいというのも。
2人は近くのコンビニに入り、電子タバコのスティックと森下の銘柄のタバコを買う。もちろん拓海の奢りだ。拓海は自然に森下タバコから一本頂き、コンビニの灰皿に立つ。
「何が話したいんだ、れんれん」
「それ、やめてください」
拓海は早川が差し出す非常用のライターで火をつけながら冗談を交えて聞く。早川は新しいあだ名が本当に嫌いなようだった。
「美月がうるさいんだ。浮気野郎は死ねとか、水野さんに優しくするなとか」
「お願いはしましたが、思ったよりダイレクトですね」
電源が入った電子タバコを吸う早川を拓海が見ながら話す。
「正直私も今の水野さんは苦手だ、いや前から苦手だからもっと苦手になったのか?」
「なら距離置いてください」
「もうやっている。でも最近仕事で絡みが多すぎる」
「…なら潰してください」
冷たい言葉だが、拓海も頭ではわかっている。一方、このまま放置しておくのもやり方としてはあるのではないかとも考えている。自分が少しやりづらくなるのさえ我慢すればいいと思っていたのだ。
「拓海さんも知っているようにみんな気づいてます。もう、生殺しです」
「そこまで…かな」
早川の強めの言葉に拓海は少し怯む。自分の考えが甘いのか思っちゃった。再来週の韓国、時間はある。一度ちゃんと話をしないといけないとは思っている。
「生意気ですが、未練を持たないように一気にやってください。拓海さんは場合によっては優しすぎます」
「…わかった。ちゃんと話すよ」
早川はまだわからなかった。拓海が言葉通りやってくれるかどうか。しかし、周りでできることはここまでと思っている。拓海は少し迷いながら早川に話す。
「一応聞くけど、早川くんは水野さんをどうしたいの?」
早川は何も言わずに煙を吐き出す。拓海もまた濃い煙を宙に吐き出す。2人はしばらく宙に舞う煙を見るだけだった。
美咲は久々に実家の自分の部屋で寝ている。
土曜の昼、当番明けの美咲は何とか乗り過ごさずに秦野駅で降りて、タクシーを乗って実家までたどり着いた。約半年以上ぶりくらいの実家であったが、細かいところが微妙に変わっているのを気づいた。
まず玄関に女性のスニーカーが一足置いている。鍵置き場として使っている皿もおしゃれなものに変わっていた。誰もいないリビングにも知らない小物がちょこちょこと置いてある。洗面台と風呂場にも初めて見る化粧水やシャンプーらが置かれている。兄がタバコを吸う縁側にもプラスティックの安物ではなく、ちゃんとした灰皿が置かれている。全て桐谷真緒に違いないと美咲は思った。
幸い台所と美咲の部屋は何も変わらなかった。伸也がまだ置いてある両親の部屋はさておき、伸也の部屋を覗く気にはならなかった。この侵食具合では、どんな風に変わってるか想像もしたくなかった。
「なんか…匂う」
一階からの料理の匂いに美咲が目を覚ます。スマートフォンの時計を見ると17時を過ぎていた。美咲は兄が返ってきたと思い、ベッドから立ち上がる。実家で着るラフなTシャツと短パンの姿でスマートフォンをもって部屋を出る。
拓海からメッセージが来ていたので、おはようと返しながら1階に降りてき、すぐに洗面台に向かう。なじみがあるようでないところで顔を洗い目を覚ます。
(この銘柄、美容室でしか見たことない)
洗面台の奥にある化粧落としや化粧水、肌ケアの製品を見ながら改めて美咲は思う。自分の物はポーチ入れてきたので使うつもりはないが、到底兄がこういうものに気にしているとは思えなかった。
「美咲さんは使ってもいいですよ?」
後ろからの突然の声に美咲は驚いて振り向く。桐谷真緒が当然の顔でそこに立っている。言葉が出ない美咲に微笑みながら近づき、化粧品の瓶を一つとって美咲の手にプッシュする。
「夜勤明け、夕方のケアにはこちらでいいですよ。じゃ、リビングにいますね」
美咲は複雑な気持ちで乳液のような化粧水のようなものを顔に塗っていく。確かに吸水感がよく、顔の肌の感触が戻ってくる気がした。いいのは違うと考えながら先の真緒を思い出す美咲、確かに現実として桐谷真緒は東雲の家にいた。幻ではない。
頭がそこまで回った美咲は急いで階段を上がり部屋に戻る。今の格好でリビングに向かうことはできないと思ったのだ。同じラフとは言え、高校生くらいに時に買った服とここ最近買った服では人に見せれるレベルとしてははるかに違いがあったからだ。
「桐谷さん、先も言っているが、夕食が終わったら帰ってくれないか」
「そうですね。さすがに妹さんがいる家には泊まれませんね」
美咲を待ちながら食卓に座っている真緒に伸也が話す。そもそも伸也としては今日真緒には来ないように話をしていた。しかし、16時くらいに伸也が家につくと彼女の車が駐車場に止まっていて、運転席で真緒が手を振っていた。
「…おはようございます」
着替えを終えて降りてきた美咲が食卓につく、急いで着替え、ぼさぼさの髪を束ねて結び、先ほどは違う人に見せれるラフな姿になっていた。真緒は笑いながら声をかける。
「私も家では似たような感じですよ。気にしなくていいのに」
伸也は無言で真緒を見る。一応ここが自分の家でないことは自覚しているようだった。美咲は美咲で思うところはあったが、最も伸也と真緒が座っている構図が気になった。
自然に兄の隣に座っている彼女。話で聞いていたより、距離感が近く、馴染んでいるように見える二人であった。
「おかえり、まずは頂こう」
伸也の言葉に3人は箸を持ち上げ食事を始めた。美咲は実家に帰ってきた安心感と少しだけのいびつさを感じている。家族じゃない人が家族の席にいるような気がした。自分が知らないうちに兄も変わったかもしれないとも思い始めた。
「…彼氏さんには悪い事をしたな」
「別に、気にしなくていいの」
兄の言葉に拗ねたわけでもないのに少し強めに返してしまった。美咲は兄とのメッセージのやり取りで、早めに合わせた方がいいと思っていた。だから一緒に来る事も考えていた。ちゃんと挨拶もしていい人であることを兄に見せたかった。しかし、兄はその機会をくれなかった。美咲は思わず真緒を見てしまう。
「私は勝手に来ているので、許可は取ってませんよ」
真緒が空気を察したのか、話してから笑う。伸也と美咲は何も言わずに食事を続ける。
「二人が揃うと静かだね。私兄弟いないからわからないけど、こういうもん?」
「昔からうちは食事中にあまりしゃべらないんだ」
「伸也さん、私とご飯食べると結構話すけど?」
「…桐谷さんがずっと話すからね」
美咲が二人のやりとりを見ながら思う。自分もまた、拓海と二人でご飯食べる時は結構話をしている。家の形はそれぞれだからとは頭ではわかっているけど、この食卓で変わる東雲家の食事を見ると変な気持ちにはなる。もしこの場に拓海がいたらまた違ったのかもしれない。
「そう、美咲さんは明日時間ありますか?友達とか会う予定です?」
「いいえ、特に予定はないです」
「よかった~私の店に遊びに来てください。前言っていたケーキ屋さん、買っておきますから!」
相変わらずぐいぐい来る人だと美咲は思った。美咲は伸也の顔を見るが、何も言わずに食事を進めている。美咲に任せるという意味とも見える。
「じゃ、昼過ぎくらいに伺います」
「はい、よかったら髪も触らせてください。結構伸びてますよね?」
美咲は少し悩む。いつもお願いししている美容室があることだし、拓海に会ってからずっと伸ばしていたので、いつも通り切っていいものなのかという気分もあった。
(そういえば…髪型好みとか聞いたことない)
真緒は美咲が妙なことを考えると気付かず、さらに押してくる。
「肌も髪も入念にケアしているのはわかります!でもさらに良くします!」
「桐谷さん、食事中に暴れないでくれ」
橋を持ったまま腕を動かす真緒を見て伸也が注意をする。そうすると意外と真緒はすぐ姿勢らを整えた。その様子を美咲は不思議に思う。可愛いらしい人が無口で愛嬌ない兄の言葉を素直に受け入れる。好きだからなのか、どういう感情をベースにしているのかはわからなかった。真緒が若く見えることもあるので、一見伸也が保護者にも見える。
3人はこれっていうほどの大きな話題や笑いもなく、食事を終えた。美咲が洗い物をしようとしたらいつの間にか真緒がシンクの前に立って洗い物を進めている。伸也は別に止める気配もなく、縁側に座ったタバコに火をつける。
美咲は自然に伸也の近くに行って縁側に座った。
「仕事は、馴染んだか」
「馴染んでるよ、教育係だし」
少し歳離れた兄は大人に早くなりすぎたか、父のような質問をしてくる。毎回なので美咲としては飽き飽きしていた。
「桐谷さん、出入りして長いの?」
「あの調子になったのはこの数カ月だな、以前俺が体調悪くなった時に勝手に上がり込んで、お粥もどきとか作ってくれたよ。味はしなかったけど。それからだな」
話題を切り替え美咲が真緒のことを聞く。伸也は淡々と話すが、美咲は気づいている。ある程度心は開いているんだと。伸也においてこの家は特別だった。そういう家に少しずつ物が置かれていることを簡単に許すわけがない。
「兄の部屋、大丈夫?」
「…大丈夫ではないな、かなり物が増えた」
こっそり除きこまなくてよかったと美咲は思う。伸也はもともとものが少ない人だ。そういう人が言うならかなり煩雑になっているであろう。
「もう一人だし、大きい部屋使えば?」
「そうだな…」
伸也は美咲の言葉に言葉尻を濁した。大きい部屋は両親の部屋、葬式後服などはすべて捨てた。しかし家具とかはまだそのまま置いている。親が伸也によく自慢していた大きなベッドや、母親のドレッサー、両親のクローゼットは処分してなかった。伸也と美咲が持つその部屋の意味は異なっていた。
二人の間に静寂と煙だけが残ると、洗い物が終わった真緒が近づく。
「私も吸って帰る」
自然にタバコを取り出し、伸也の隣に座ってタバコに火をつける。
「桐谷さん、吸うんですね」
「あ、店では言わないでください!みんな知らないから」
「兄に合わせているんですか?」
伸也がせき込み、真緒は首を横に振る。
「私はかれこれ、15年くらいですかね?」
「俺より長いぞ、桐谷さんは」
もとからかと思いながら美咲は妙に安心する。それにしても学生からというのが美咲の職業的には良しといえなかった。その表情に気づいたが真緒は口に指一つを当ててにっこり笑う。やはり、よくわからない人だと美咲は思う。
しばらく煙の時間があり、真緒は帰りの支度をする。伸也と美咲が玄関で見送りをしようとすると真緒が静かに伸也を見つめる。伸也が困った顔をしてから首を左右に振る。真緒は少し拗ねた顔をして、美咲に明日カルマで待っていると伝え、東雲家から去っていた。
「今の何?」
食卓に戻りながら、美咲があきれた感じで伸也に聞くが、彼は何も言わずお茶を入れる。その様子に美咲諦めて食卓に座ってから嫌味も込めてお茶を持ってくる兄に話す。
「拓海さんは拒否しているのに、自分の彼女には甘いじゃない」
「彼女ではない」
食卓に座りながら伸也は言い返す。
やっと兄弟での話になるというのに、初めからいい雰囲気にはなれなかった。
「彼には全部話しているのか」
「うん。三枝先生も一通り話してくれてるし、先生とも妙に仲がいいの」
「それは驚くな、先生は人を見る目が厳しいはずなのに」
妙に品定めをされる気がして、美咲はあんまりいい気分にはなれなかった。
「家に来ることを拒んだのはすまないとは思っている。だけど、俺はちゃんと美咲と話ししたかった」
「話って?」
「美咲はこれからどうしたいんだ?」
「あたしは…拓海さんと一緒なら幸せになれると思う」
この間三枝と話したことを思い出しながら美咲は慎重に話した。その言葉を聞く伸也は淡々としていて、深く頷いた。
「もう俺はいなくて大丈夫そうか?」
美咲は一瞬理解ができず伸也を見る。
2人きりだった。でも今片方が別のところに行こうとしている。伸也はそう感じているかもしれない。でも美咲が考えていることとは異なった。
「違うの。拓海さんと一緒になるからって、兄が要らないってわけじゃないの」
その言葉に伸也は少し驚く。
「あたし、実は怖かったの。兄をみてああやって生きると決めたのに、拓海さんにあって、一緒にいると楽しくて、失いたくなくて…」
言葉が的からずれて、言葉尻が妙に着地し、美咲は言葉に詰まる。だから伸也が優しく美咲に声をかける。
「何が怖かったんだ?」
「兄に、お前だけ幸せになるのかって言われそうで…」
美咲は少し頭を下げ食卓を見る。自分が酷いこと言っている自覚はあったのだ。だから言い訳がましく言葉を続ける。
「兄はあたしの親代わりとして、自分を捨てた頑張ってくれた。みんなが楽しい二十代を捨てて、生きることを選んで、嫌な親戚たちからも守ってくれて…それなのにあたし1人で幸せでいるのが、申し訳なかったの」
伸也は何も言わずに美咲を見る。自分がそんな事考えるはずがないのに、また、この子に負担をかけてしまったのかと考えた。
「俺は、一度もそう思ったことはないぞ」
「知ってる。でも罪悪感が先に来るの。兄がそんなこと思うはずないのに、拓海さんのこと嫌がったらどうしようとか、あたしも嫌われたらどうしようとか…思っちゃうの」
伸也はお茶を飲む。ゆっくり美咲と話ししたかったのが逆に不安にさせたかもしれない。しかし彼としても時間が必要だと思った。
「美咲が警察になった時も思ったけど、俺はお前を手放す準備ができてないみたいだ」
美咲は思い出す。とても反対されたし、相談なしで進めたからとても怒られたことを覚えている。
「今回連絡もらった時も似たような気持ちだった。だからいなくて大丈夫かとか聞いてしまった。遠ざかって行く感じが…それが寂しくてさ」
伸也は美咲を見て口元が緩む。それが笑っているようで、悲しんでいるようで美咲は今まで何ともなかったのに、急に目が滲んでくる事を感じた。伸也は椅子から立ち上がり、美咲の頭に手を置く。
「ちょうど9月には東京に行くことがある。その時はちゃんと挨拶させてくれ」
「…あたしを任せるとか言うつもりなら嫌だよ」
「わかった。ちゃんと兄として、家族として話す」
そこまで聞くと美咲は安心できた。伸也がどう言う考えなのかが見えたからだ。彼は美咲が望むなら拒まない、遠ざけない。今回はあまりにも急すぎて時間が欲しかったのだと。
話が終わったと思った伸也はまた縁側に座る。美咲は火をつける彼の姿を見て後ろに近づき肩を少し揉んであげた。それからは自分の部屋に戻る。
「…下手くそだな、あの子は」
伸也がつぶやきながら、灰皿を見る。これを置いていた人もまた不器用だからこそ一つのやり方でそばに来てくれる。
「真緒って、呼べるか」
そう言って煙を吐き出した。




