その二十八
伸也はカルマの前の喫煙所でタバコを吸っている。片手にはスマートフォンを持ち、昨夜妹から届いたメッセージを読み返している。
いずれはある事だろうと数年前からなんとなく思っていた。妹も歳相応な女性である。いわゆる結婚ラッシュと呼ばれている時期の1回目はすでに過ぎているのだ。いつ起きてもおかしくない。
(どんなやつだ?やっぱり同じ警察か?)
しかしそれと彼が感じている気分は別の話である。これに類似したけど気分は数年前も感じた。美咲が警察になった時だった。嬉しいような、悲しいような、物寂しいような、伸也の中では適切な言葉が見つからなかった。それから今、また似たような気分が彼を襲っている。不愉快なものではないが、胸の奥がソワソワしている気がした。
「伸也さん、大丈夫?」
カルマから出てきた真緒が心配そうに聞いてくる。伸也は手を伸ばしてあまり近寄ってほしくない姿勢を取る。
「なんでもない、妹のメッセージを見ていただけだ」
すぐ表情を隠す彼に哀れむ目をしてしまう真緒だった。真緒は小さいカバンからポーチ、その中からタバコを取り出す。
「珍しいな、いいのか?匂いで商工会の人にバレるぞ」
「今日は伸也さんの車だから大丈夫です、どの道匂いがつくので」
今日2人は秦野の商工会に出向く予定だった。食事付きの軽めの会議。互いの事務所が近い事でいつもどちらかが車を出して一緒に行くことにしている…と真緒が決めていた。
「それは悪いな」
「私はいいですよ?余計な男どもに声かからないし、伸也さんの女みたいに扱われて、たまにいい気分になりますよ」
真緒の本気なのか冗談なのかわからない声に伸也は急いで彼女のタバコに火をつける。一口、真緒が少し静かになる。それからいう。
「妹さん、彼氏できたんですか?」
伸也はその言葉に純粋に驚いて真緒を見る。彼女は正面を向いて煙を吹いた。綺麗過ぎる灰色が宙に舞う。真緒は伸也を振り向く。
「俺、そんなに顔に出ていたか?」
「いや、本人たちに会いましたよ。この間、東京で」
その言葉に伸也は再度驚く。
彼が知る限り、美咲の番号を知ってるのは自分だけでなんかあった時のために、会社の非常連絡先と自宅の非常連絡先に入れ込んでいるだけだった。
それをなぜ、彼女が知っている?
「ごめんなさい。どうしても会いたくて、この間の飲み会の帰りで伸也さんの家行った時に、美咲さんの名前になっている番号はメモりました。どこにあるのかは大体知ってるから」
伸也はその優れた行動力に、言葉がでなかった。自宅に彼女を入れたのは別に初めてではない。しかし、その間は何もしなかったのに今更なぜそんな行動をするのかと理解ができなかった。
「理由を聞いていいか、桐谷さん」
「伸也さんが私から逃げるからです」
真緒はまるで悪いことは何もしてない顔で言い返す。いつも可愛らしい見た目の彼女であったが、堂々としているように見えた。
片手にタバコ持ったまま伸也に一歩近づく。
「お願いしに行きました。私を伸也さんに勧めててくださいと」
「…いくら美咲が言っても俺は変わらん」
「そういうとも言われました。だから美咲さんが、自ら彼氏さんのこと言ってくれたと思います」
伸也は一連のつながりがわかった。不愉快とは思ってない。
なぜそこまでして自分にこだわるのかわからなかったし、美咲をどう動かしたのか、後美咲の彼氏はどんなやつかという疑問が同時に湧いて頭が忙しかった。しかし、彼はすぐ優先順位を決めれた。
「じゃ、その彼氏とやらの話を先に聞こうか」
「いいですよ?でもその代わり今日は伸也さんの家に泊まるよ」
「…それはその後の会話次第だな」
「だから今、先に言っておくんです」
こうなった彼女は引かないと伸也は知っている。かれこれ一年くらい、真緒を見てきた彼としては今がどんな状況かは理解している。彼女、努力している、欲しいものを手に入れるために。
「わかった。でも布団は別になるかも知れんぞ」
その言葉に真緒がニコッと笑い、タバコをもう一口吸う。浅い煙を出してから言い出す。
「伸也さんには厄介な人になりますかね」
11:55、土曜の合気道同好会。
おやすみを返上して半分職務訓練みたいなものには多くの人が参加してくれている。単純に格闘技が好きな人、護身のために習う人、実務で使えると思う人、有効性を打診したい人。そのためそれなりの体系的に行われていた。
外部師範を招き、署内で経験かつ実力者らを指導役として立て、署の偉い人が管理監督を行い活動内容を報告している。
そして今、外部師範と指導役の手本の組み手が行われる。静まった道場で、外部師範の三枝と指導役の美咲が対峙する。
「後ろ両手持ちの手本を示します」
三枝が静かに構える。対峙する美咲は表情には出さないが、高揚感と緊張感が走っている。
特に気合を上げることなく、美咲は無表情のまま覚悟を決めて左手を伸ばす、続いて四角に回る。右手も伸ばし、組み付いた瞬間、三枝の身体が柔らかく沈む。
美咲が次に見たのは天井だった。受け身はできているが、後から宙に舞った感覚がしてきた。立ち上がり、深く一礼をする。三枝の動きが見えたようなそうでないような気がした。
「綺麗な受け身てましたね。みなさんぜひ参考にしてください」
三枝の言葉を最後に今日の練習は終わりを告げた。美咲に七海と宮原が近づく。
「華麗に1回転したね〜本当猫かよ」
「東雲、組み付きまてめったゃ早かったのに〜先生怖いわ」
「大人になってもずっと飛ばされてますから」
2人の言葉に美咲は遠くで他の人と話す三枝を見る。指導も指導だが、今日美咲は彼女に重要な報告をしなければならない。その緊張と恥ずかしさがやっと実感してきた。そしてそれは正面にいる2人には気づいていた。
「タック、もう待っているんじゃない?」
「早過ぎます!ちゃんと一時と言ってますから」
「なんか結婚の挨拶みたいで、お姉さん涙出る〜」
なぜかこの2人は今日のスケジュールを知っていて、朝に会った時からニヤニヤしていたのだ。それが美咲としては恥ずかしく、照れることであった。
「タックも変なところで律儀だよね」
「まぁ〜でも尾行の時、先生と佐藤さん結構やり合ったからね。区切りつけないとと思ったんじゃない?」
「もう美咲は俺の女っす、もうあなたの孫娘ではありませんって?」
七海が茶化すと宮原ツボに入ったのか、笑いが止まらなかった。美咲だけが複雑な顔で2人を見ている。拓海がどう思ってこの後の食事はオッケーしたのかは聞いてなかったからだ。彼はただ、大丈夫と言っていた。
「…本当にそういうの…言ってくれるかな」
その声に2人はキョトンとする。そしてまた笑い出す。美咲は無表情が崩れる。
「佐藤さん、いいそうだもんね」
「でもどうだろうね?しのちゃんが言った方がいいかもしれないしな~」
そう言ってから七海は美咲を見る。笑みは浮かべているが、美咲は注意をされている気がした。
「そうですね。三枝は、あたし側の人ですから…」
美咲の真面目な回答にまた二人が笑い出す。
美咲は改めて思う。同じことがあれば絶対笑ってやると。
拓海は朝から忙しかった。元々考えていたランニングにも行けず、昨夜信野医薬の韓国の協業先らからのメール対応に追われていた。先日のサンディエゴでの発表会後、彼が持ち出した医薬品の製造ラインへの新技術投入につき、意見交換が急に活発になったことが理由だった。
「お前、一度現地行って各社回って話した方がいいかもな」
上司の黒川はそう言ってくれた。拓海としてはそんな急激に話が進むと考えてなかったので、やや困った顔になってしまった。
「ちょうど理沙ちゃんがやっていたやつも製造開始になるし、一緒に行ったらどうだ?」
そしてこの内容も彼を困らすネタの一つであった。水野が自分に対する態度が変わったことは知っている。だからこそ絡みたくなかった。彼女の気分がともあれ、不便だったのだ。
そう思いながら家の近くのコンビニで買ったアイスコーヒーをストローですする。黒い液体がなくなるほど、暑さ、ストレス、全てが和らぐ気がした。
「お待たせ、拓海さん」
美咲の声に拓海は振り向く。彼は今、浦和警察署の近くで立っていた。午前の活動を終えた美咲が、薄い青が差し色で入っている白のノースリーブワンピース、ラベンダー色の薄めカーディガンを羽織って立っていた。靴はお揃いの白いスニーカーだった。
「思ったより早かったね」
「うん、先生が早くしろと言うので」
美咲はちょっと離れた道路側に止まっている車を指す。流行りの電気自動車、運転席に見覚えある顔が手を振っている。
「三枝さんって、あれ乗るんだ」
拓海は頭のフィルターを通さずに言葉を言った。60歳を超えた方が最新の車とはあまりにも想定外だったからだ。それが伝わっているかわからない美咲は拓海の手を掴み車に案内する。
美咲はカバンを置いている助手席に座り、拓海は自然に後部座席に座らされた。幸い乗る前に空いてしまったコーヒーカップは捨てることができた。
「三枝さん、すごい車に乗ってますね」
「でしょう?この間納車されて、自宅にも充電スタンド設置したのよ」
2人は以前、みんなで話し合った時の張り合う空気はなし。また、2人きりで話し時のような重々しい空気とも全く違う雰囲気で話し始めた。久々という感覚もなく、普通に楽しげに話す。新しい小型プロジェクターが欲しいとか、スマートグラスも使ってみたいとか、正直美咲はついていけそうになかった。
「意外です。ガジェットとかお好きなんですね」
「好きよ。拓海さんも美咲ちゃんが選んだ人だからあんまりかと思ったけど詳しいのね」
「まあ、男の子はみんなこう言うの好きですよ」
「美咲ちゃんはスマートウォッチとか買ってあげても使わなかったからね」
「それは勿体ない」
いきなり矢印が立った美咲は少し困った顔になる。確かにちょっと前くらいに三枝から誕生日プレゼントで買っていただいたが、使用することなく、押し入れの奥に入っている。彼女には定番の言い訳がある。
「仕事柄そういうのはちょっと使えなくて」
「設定もまともにできないのによく言うわ」
何回も同じ言い訳をしているからか、三枝はちょっと棘がある言葉で返す。それはそれで拓海としては微笑ましい状況だった。
車は少し浦和から離れ、荒川を越え、川沿いにあるイタリアンレストランに入る。長年この辺に住んでいる拓海も始めて見る店であった。3人は車から降りて店に入り、壁側の席に案内される。特に予約はしてないが、お昼にしては少し遅いこともあり、普通に欲しい席に座れたのだ。3人それぞれの注文を終え、飲み物が届くと三枝は前のめりに座り話す。
「それでは聞きましょう、ご報告を」
美咲は正面から来たと思いながらも、一度拓海の横顔を見る。任せたらこの男は自分の代わりにちゃんと言ってくれると信じている。彼の口から聞きたい気持ちもある。しかし、ここはやっぱり自分でやらなきゃと思った。
「あたし、拓海さんとお付き合いしてます」
静寂が走る。
そして三枝はそれで終わりかと言ってるように手振りをする。美咲は戸惑いながら首を縦に振る。
「…今日ランチ代は出せないね」
三枝は溜め息をつく。美咲としてはかなり勇気を出して行ったつもりなのに恩師はこの反応というのが理解できなかった。
「美咲ちゃんがかしこまって言うから、もっと進んだ話だと思ったのに」
美咲は少し顔が赤くなる。恥ずかしさと言うか悔しさと言うか、複合的な気持ちが走る。拓海は隣で見て笑いながら言う。
「三枝さん、意地悪ですよ。我々なりに区切りをつけたいから報告に来てますからね」
「わかったわよ。面白くない旦那候補ね」
また美咲だけがついていけなかった。三枝と拓海は笑いながら一度戸惑っている美咲に視線を置く。それから三枝が拓海に攻めるように言う。
「そもそもあんたがしっかりしないから、こんな報告になるじゃない」
拓海がその言葉を笑い流す。以前の経験で三枝との距離感が見えているからか飄々としており、彼は何も刺激にならないように見えた。
美咲は、三枝が結婚の報告を期待していたと気付く。しかし、彼女としてはそれはまだ先の話と思っている。隣の彼はそこまで考えてくれていることは気づいている。それでもまだ実感がどうしてもわかないことも事実だった。
「先生は、あたしにもっと先を期待してたんですか」
あまり考えがまとまらずに美咲は話し出した。そのせいか、自分の言葉に自分で驚き一瞬拓海を見てしまう。拓海の表情は変わらない。三枝だけさらに落ち着いて顔で話す。
「それも幸せになるいい方法だよね」
美咲が話すもっと先、その言葉に対して三枝は肯定にも否定にも聞こえることをいう。
「私はね、美咲ちゃんが幸せになるなら何でもいいの。その方法が結婚かもしれないし、ただの同姓かもしれない。はたまた独り身として生きることもいいと思う。幸せになるならね」
またしも静寂が走る。2人は三枝に言いたいことは理解している。そこは伝わったと思ったのか、三枝は言葉を続ける。
「以前の美咲ちゃんは幸せになろうとしないと思ったけど、この子が現れてから幸せになろうとしているな~と思ったの。幸せって自らなる方法を見つけないとなれないものたからね。すこし、気にくわないところはあるけど、美咲ちゃんにそれを気づかせてくれて、教えてくれてあなたが幸せになろうとするから私はいいと思うの」
美咲は三枝から拓海を見る。拓海もちょうど美咲を見ていた。いつもの作り上げている表の顔ではない、少し疲れていて、それでも努力している顔に、素顔の拓海だった。今の言葉は彼の心にも刺さっていたのだ。
「だから、結婚で幸せになるならそれでいい。別の方法があるならそれでもいい。まぁ~あなたのドレス姿を見れないのは残念だけどね」
最後の茶化す言葉に美咲はまた慌てる。いい事を言ってくれて、感謝の気持ちがあったのに一瞬で消え去ろうとした。聞き方によってはまるで拓海との関係の最後は、お別れと言われた気もして、少し気落ちすることもあった。
拓海はそういう美咲の手を握る。
「大丈夫ですよ。俺、しっかりしますから」
拓海がそういうと三枝の表情も落ち着くように見えた。彼女が持つ期待が現実に垣間見得たからだ。幸せになる孫娘、幸せから遠ざかっていた彼女の手を握る人がいることに、三枝としては感謝するしかなかった。しかし、その気持ちをこの2人に言うのはまだ早い。
「生きているうちにその報告受けれるといいね」




