その二十一
美咲は目を覚ました。
「あたし……ベッドの上?」
美咲は昨日のことを思い返す。
拓海に受け入れられて、嬉しくて、キスをしたところまでは覚えている。
拓海のことを思い出した美咲は、一気に目が覚め、ベッドから起き上がる。
「拓海さんは……?」
美咲は昨日の服装のまま、自分の部屋を見回す。
寝室には、もちろん拓海はいなかった。
寝室を出て、ダイニングとつながっている別の部屋を見る。
昨日、拓海と美咲が話したソファの上で、拓海が一人で寝ている。
いつもの眼鏡は、ソファの目の前にあるテーブルに置かれていた。
「まだ、いてくれたんだ」
美咲は、眠っている拓海の顔をのぞき込む。
彼女が昨日最後に覚えている拓海の顔は、いつもと違った。
何も作っていない、でも優しい視線だった。
(あたしだけの顔、だよね)
美咲は、あの顔が拓海の素顔だと考えていた。
しかも、器用に生きている人が、自分にだけ見せる不器用な顔。
しばらく彼の顔を見ていた美咲だったが、それほど余裕がないことに気づく。
世間は土日で休みかもしれないが、警察官である彼女は違った。
拓海が起きないように音に気をつけながら、準備を始める美咲。
彼女としては、不思議な気分だった。
自分の空間なのに、気をつける。
昔、実家で暮らしていた時以来だった。
少なくとも、数年ぶりの感覚だった。
「拓海さん、起きて」
しばらく時間がたち、美咲はある程度、準備を終えていた。
化粧も、着替えも、音が鳴らないように注意した。
しかし、もう少しで家を出なければならない時間になり、美咲は少し葛藤した末、拓海の近くへ行った。
起こすしかないと考えたのだ。
(付き合っているとはいえ、さすがにあたしの家に一人で残していくのは、少し恥ずかしい)
拓海は目を開ける。
あまり見えないのか、眉間にしわを寄せた。
それから、美咲を見つける。
自然に両手を上げて、彼女を抱き締めた。
「た、拓海さん! あたし、今日も仕事なんです!」
その声に、拓海は美咲を離し、ソファから起き上がる。
眼鏡を探す彼に、美咲がテーブルから眼鏡を取って渡した。
きちんと眼鏡をかけた拓海は、状況を理解し始める。
思い出せる昨日の記憶と、今の美咲の姿。
「何時に出ればいいですか?」
「実は、あと5分くらいしかないです」
拓海はすぐに立ち上がった。
「洗面台は、部屋を出て左です! タオルは、かかっているものを使ってください!」
美咲が言うと、拓海は急いで動き始めた。
その様子に、彼女は少し笑みを浮かべる。
二人が美咲の家を慌てて出たのは、ちょうど5分後だった。
駅まで歩きながら、美咲が話す。
「ごめんなさい。もっと早めに起こせばよかったですね」
「のんきに寝ていて、すみません。安心したら、つい」
‘安心したら、つい‘という言葉が、美咲は嬉しかった。
拓海としては、仮眠のつもりがしっかり寝てしまったため、恥ずかしさの方が勝っていた。
二人は急ぎ足で蕨駅に入り、出発間際の電車に乗った。
空いている席に隣同士で座り、互いを見る。
美咲は、いつかのことを思い出す。
「……そういえば、拓海さんですよね? あたしを運んでくれたのって」
「美咲さん、ひとしきり泣いたら急に寝てしまったので、やむを得ず。あの、寝室に勝手に入ったのは、すみません」
「だ、大丈夫ですよ。寝てしまったあたしが悪いので……」
美咲は複雑な気分だった。
大人の男女二人が同じ家で朝を迎えたのに、何もなかったこともそうだった。
朝から慌てさせたうえ、同じ場所から出て、出勤することなど想像したことがなかったからだ。
電車は南浦和駅に入っていく。
乗り換え路線があるため、多くの人が乗り降りしている。
「うーん、まだ眠い。家に帰ったら、寝直すかも」
「そうしてください。あたしは、何だかすっきりしていますけどね」
「……実は昨日、美咲さんが思ったより重くて」
美咲は、恥ずかしさ半分、驚き半分で拓海を見る。
拓海がその顔に‘嘘‘と伝えると、美咲は拓海の脚をたたいた。
拓海は楽しそうに笑う。
電車が南浦和駅を出発する。
少し言葉が途切れる。
再び声を出したのは、拓海だった。
「……昨日、美咲さんの部屋に入る前に言ったこと、覚えていますか?」
「あ……嫌いになるかもって話、ですよね」
拓海の急な話題に、美咲は気まずい気分になった。
昨日は本当にどうなるか分からず、怖かったから言ったことで、今は理解して、忘れてくれていると思っていたからだ。
しかし、余計な心配だった。
「彼氏になって、出られましたね」
拓海はそう言い、いつもの人当たりのよさそうな顔を見せた。
でも、どこか違う。
作っていない顔に見えた。
その言葉と笑顔に、美咲は心臓の下辺りが温かくなるような気がした。
「彼女、もう逃げませんから」
拓海と美咲は見つめ合う。
どちらからともなく、笑みがこぼれる。
電車が浦和駅に入っていく。
自分の部屋に着いた拓海は、つい先ほどの美月の冷たい視線と、母からの遊びすぎへの注意を思い出す。
ここ最近、あまり話ができていないことや、昨日のことで心配をかけた気がすると、拓海は思う。
鞄を置き、楽な格好になってから、ベッドに横になる。
「……きちんと取り戻せたんだ」
消えかけていた美咲との関係を守れたと、彼は思う。
拓海は昨日、美咲をベッドに寝かせてから、部屋の中を見回していた。
飾り気の少ない、一人暮らしの家。
玄関にも、ダイニングにも、写真はなかった。
唯一、寝室のドレッサーに一枚の写真がある。
古い写真だった。
幼い美咲、兄の伸也、もう会えない両親が写っている。
幸せそうな、普通の家族写真だった。
(踏み入らなきゃ……)
拓海はそう思い、眠りにつく。
【今、終わりました!】
【お疲れさま。俺も少し仕事をして、今は妹とご飯を食べに出ています】
【美月さんですよね? ……今度、きちんと挨拶させてくださいね】
拓海は少し悩んだ。
美咲と妹を会わせるというのが、少し恥ずかしかった。
身内だからだ。
(昨日今日だし、急ぎすぎ……?)
「お前さ、ちゃんと感想を言ってよ」
考えていると、妹から厳しい言葉が飛んでくる。
彼女は、一応今も仕事中だった。
SNSの広告案件で、飲食店から依頼を受けている。
開店前に寝ぼけた兄を連れて店へ来て、スマートフォンと小型カメラで、ある程度の撮影をしていた。
一通り店側へのインタビューも終えている。
これからは、食事や、にぎわっている店内の様子を撮影し、それらをうまく組み合わせれば終わる。
その最中、兄はスマートフォンばかり見ている。
「美月、今日の撮影って、人がいた方がいいのか?」
「そうだね。店ができて間もないから、人が少ないのは仕方ないけど、もう少しにぎわってほしい感じはある」
「同年代の女性二人と、男性一人を追加してもいい?」
「……珍しい。お友達?」
「いや、彼女」
佐久間は、珍しく美咲に誘われ、二人で食事へ行こうとしている。
(これ……怒られるやつだよな)
昨日、七海のところへ駆けつけたことがばれたのだと、佐久間は思った。
だから帰り際に声をかけられ、逃げられないように、浦和の慣れない道で飲食店を探している。
ここ最近、佐久間から見た彼女は怖かった。
感情がまったく見えない。
常に張っている緊張感が、さらに強まったという感じで、今日はその状態でやたらと優しいのが、なおさら怖かった。
「佐久間君、ここみたいです」
「はい、聞いてきます」
美咲の言葉に、佐久間は指さされた店へ走る。
美咲は、その行動に疑問を抱いた。
佐久間が扉を開け、二人だと店員へ伝える。
よくあるビストロで、店は少し広めだった。
ただ、中へ入ってみると、客の数は店の規模に対して少なかった。
カウンター席に女性が一人。
テーブル席には、カップルらしき客が二組。
そのうち一組は、かなりの量の料理を頼んでいた。
そして、知っている顔だった。
「え、佐藤さん?」
声に反応した拓海が顔を上げ、佐久間を見る。
拓海の向かいにいた美月も、一緒に振り向く。
佐久間は‘まずい‘と思った。
美咲の機嫌が優れないのは、間違いなく佐藤拓海という人のせいなのに、その人が別の女性と一緒にいる。
いい結果が想像できなかったのだ。
「拓海さん、お待たせしました」
しかし、その心配とは裏腹に、美咲は店へ入るなり、自然と拓海のいるところへ向かった。
顔には、署では見られない笑みが浮かんでいる。
佐久間は慌てながら、訳も分からず後ろについていく。
「お疲れさま。こちらへどうぞ」
拓海は優しく笑いながら、自分の隣の席を示した。
美咲は当然のように、そちらへ向かって座る。
それから拓海を、優しく、愛情を込めて見ている。
その一連の流れで、佐久間は理解した。
(この人たち、進んだんだ)
そう思いながら、佐久間はぎこちない様子で、美月の隣の椅子に座る。
美月と佐久間は目が合うと、軽く会釈をした。
「初めまして、佐久間です。さ、佐藤さんに呼ばれて来たのだと、今知りました」
「どうも、佐藤美月です。来ていただけただけで助かります」
美月はそう言ってから、兄と、その隣に座る女性へ視線を戻す。
機嫌が悪いわけではない。
ただ、理解しにくい状況になっているだけだった。
「ごめんなさい。七海は今日、当番なんです」
「残念ですね。まあ、どこかで説明はしなければいけないので、また今度」
「今日、すごい力で肩をつかまれて、体ごと揺さぶられました」
美月は思う。
彼女ということは、この数か月の拓海の変な様子にも関わっている人に違いない。
しかし、その人は兄にはもったいないほどの美人だった。
ややつり目で、猫のような可愛らしさがあり、無駄な飾りがなく、清楚な人だった。
そのため、美月としては、兄の彼女がどうということよりも、欲望の方が先に出た。
この人を飾りつけてみたい、と。
「こちらは、妹の美月です」
「美月です。今日は急なのに来ていただいて、ありがとうございます。どうしてこれと付き合っているんでしょうか」
率直に聞いた。
美咲は少し驚いたが、笑いが出た。
兄に対して‘これ‘と呼ぶのが、美咲にとっては懐かしく、理解できる気持ちだった。
彼女もまた、妹なのだ。
「そうですね。格好いいから?」
少しにやけながら、美咲は答えた。
同じ立場の人の気持ちは、想像できる。
何を聞けば嫌がるか、どうすれば仲よくなれるかも。
拓海と佐久間は、美咲の返答に驚く。
こんなに率直に話す人ではなかったのに、どうしたのだろうと思ってしまったのだ。
美月は、その回答には胸焼けしたが、面白い人だと思った。
妙な沈黙の後、この店に集まった経緯を、美月が説明する。
その間、ちらちらと美咲を見てしまう。
美咲も視線を感じる。
拓海の妹という情報が入っているせいか、とても可愛らしく見えてしまうのだった。
「少し顔が映るかもしれませんけど、大丈夫ですか?」
「すみません。自分たちは警察官なので、基本的には駄目です。可能なら、私たちの分は無償提供も避けたいです」
最後の確認で、佐久間が美月に話す。
美月は兄をにらむ。
理由は二つ。
‘役に立たないじゃないか‘と、‘あんた、どうやって警察官と付き合っているんだよ‘という意味。
おそらく、後者の方が強い。
「分かりました。手元だけなら大丈夫ですかね? 構成を変えれば、いけると思うので」
「はい。身分が特定できなければ、何とか」
「お金のことは、友人の拓海がおごると言っているので、心配しないでください」
佐久間と美月は、テンポよく話す。
佐久間は少し意外だった。
インフルエンサーというものは知っていたが、もっと適当に生きている人たちだという印象があった。
しかし、この人は少し話しただけでも、すぐに分かった。勢いだけではなく、計画的で、さまざまなことを考えたうえで仕事をしている。固定観念が消えていく、新鮮な刺激だった。
拓海は突然、金を出すことになったが、美咲との会話に夢中で気づいていない。
その後は、美月の指示に従い、テーブルを移動して客が多くいるように見せたり、皿を持ち上げたりして、SNSへ投稿する動画に必要な素材をかき集めた。
そして、ようやくまともに食事ができた。
「さあ、たく兄。どうしようか? そっちから話さないなら、こっちでいじるけど?」
「今日は、美咲さんと付き合っているよって美月に伝えるのが目的なので、何でも」
「あ、そう? 佐久間さんは大丈夫ですか? 後輩みたいですけど、先輩のカップルをいじってしまって」
佐久間が美咲を見る。美咲は、いいとも駄目とも、何の反応も見せていない。
ただ、警察署のある方向を指さし、腕でばつ印を作っているだけだった。
「署にばれなければ、何でもいいらしいです!」
「いい先輩ですね。美咲さんは、かなり私の好みですが、どこでこれと知り合ったんですか?」
拓海は苦い顔になる。
美咲だけが、少し楽しそうな顔で言った。
「一時停止線の取り締まりで、です」




