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その二十

 ……

 ……

 ……


 時計はもう20時を回っている。

 駅の出入り口が一望できる窓際に座って、もう3時間ほどがたつ。

 美咲さんは見当たらない。

 頼んだコーヒーは、すでに冷めている。

 そもそも、飲みたいとは思っていない。

 頭に霧がかかるたびに、少し喉へ流しているだけだ。

 ここに座ってから、メッセージを二件もらった。


 【無理だった。今、しのちゃんがすごくぐちゃぐちゃ。でも逃げているだけだから、日を改めれば聞いてくれると思う】


 七海さんは助けてくれた。

 でも、美咲さんには届かない。

 もう一件は、美咲さんからだった。


 【帰ってください】


 気にしなかった。


 ……

 ……

 ……


 バスの窓に映る自分の顔を見る。

 数年かけて作り上げた、夕日の似合わないこの表情。

 拓海さんは、七海の言うとおり、蕨駅で待っているとメッセージを送ってきた。

 彼は、本当に待つ人だ。

 だから私は、普段乗らないバスに乗る。

 拓海さんに会わないため。

 逃げるため。


 (友達じゃないの?)


 七海の言葉には、言い返せなかった。

 認めたくなかった。

 拓海さんとあたしが、ただの友達だということを。

 彼は特別だったと思う。

 優しそうな人だなと思った。

 だから、少し勇気を出した。

 次には少し不安も、怖さもあった。

 でも、安心できて、さらに勇気を出せた。

 あたしを見て、大切にしてくれて、幸せだった。

 でも、彼を知れば知るほど、自分がどれほど情けなくて、出来が悪くて、下手に生きてきたのかを思う場面が増えた。

 その気持ちを、相手のまぶしさという言葉で偽装した。

 こんなあたしが……彼と一緒にいていいのだろうか。

 ここ最近、ずっと思っていた。

 彼には言えなかった。

 この悩みすら、情けなくて。

 ……もし、あの時、家族のことを素直にすべて話して、付き合うことを選んでいたら、こんな悩みもなかったのだろうか。

 あたしは怖かった。

 親のいない子供へ向けられる視線を、また受けるのではないかと思った。

 だから、彼の親の話を聞いて、正直、少し安心した。

 あたしと同じ側だ。

 あの視線を向ける側ではない、と。

 後から一人でぞっとした。

 あたしは、どれほど醜い人間なのかと。

 あんなに好きなのに、一緒にいたいと思うのに、それよりも、自分と同じ立場の人だということに安心するなんて。

 だから……なおさら、あの場所へ行って苦しかった。

 皆、自然に笑えて、自信があって、素直で、自分を飾らずに、似合う場所を知っているように見えた。

 そこにいる拓海さんもまた、あたしとは違って、まともなのだと。

 あたしが好きな人が、こんなあたしをどう思うのか。

 自信がなくなった。


 ……

 ……

 ……


 『帰ってくるの?』

 「帰れないと思う」

 『……意味分かんない。お母さんには、友達の家に泊まると言っておくから』


 美月からの電話が切れた。

 コーヒーを冷ましていた店からも追い出され、蕨駅前もすっかり暗くなっている。

 終電は、先ほど出発していた。

 待っている間、俺が置き去りにされた日のことを思い出していた。

 駅へ向かう下り坂。

 美咲さんは無表情で、優しい声を出していた。

 確実に壊れたと思った。

 今までの君と、俺の中の君との間に、亀裂が生まれたと思った。

 だから、とても悲しかった。

 俺たちの関係が、彼女の負担になっている。

 俺の付き合い方が。

 もっと早く踏み込んでいれば、変わっていたのかもしれないとも思った。

 あの時、彼女ですと皆の前で言えば、違ったのか。

 手をつないで歩いていたら、変わっていたのか。

 遠ざかる君を、後ろから抱き締めればよかったのか。

 すべてが遅くて、後悔しかない。

 サンディエゴで会えない間、応援してくれて、どれほど嬉しかったか。

 どれほど会いたかったか。

 大好きと言われて、どれほど舞い上がったか。

 それなのに、きちんと踏み切れなかった。

 三枝さんの言うとおり、嫌われても、もっと彼女の心に入るべきだった。


 ……

 ……

 ……


 薄いカーディガンを、また食卓に置いた。

 何回目か分からない。

 ‘帰ってください‘のメッセージに、返信があった。


 【待ちます】


 短かった。

 でも、それはこの三日間に届いたどのメッセージよりも重く、どの着信よりも、あたしの心に鳴り響いた。

 本当に帰らなさそうな人だから、心配になった。

 だから、カーディガンを取り、鍵を持つことを何度も繰り返してしまっている。

 でも。

 行って、いなかったら?

 行って、会ってしまったら?

 どちらでも、どうすればいいのか分からなくなりそうだった。

 帰ってほしいと思う気持ちと、会いたいという気持ちがせめぎ合っている。

 ……最後に。

 もう一度だけは、会いたい。

 あたしはまた、カーディガンを持つ。

 すでに終電はない。

 いたら、素直に醜い自分のことを話そう。

 嫌われても、もう彼を苦しませたくはない。


 ……

 ……

 ……


 俺は、駅近くのコンビニを外から見ている。

 レジの裏に、たばこが並ぶ。

 久しぶりに、自分の意思で吸いたいと思った。

 一箱買って、すべて吸い終わるまで待って、それでも会えないなら……。


 「何をしているの?」


 美咲さんの声だった。

 少し怒りを感じる。

 振り向くと、少し離れたところから、彼女が徐々に近づいてくる。

 明かりに照らされ、その顔が見える。

 わずかに涙の跡が見えた。


 「たばこ……買おうかなと思って。全部吸い終わるまでは、待てそうだったから」

 「帰ってって言ったじゃない!」


 彼女は声を上げる。

 また泣きそうな顔をしている。

 よかった。

 ちゃんと、俺の美咲さんで。


 「帰れない。来てくれると信じていたから」


 彼女へ近づく。

 言いたいことが多すぎて、うまく整理できない。

 彼女もそうなのか、ただ俺を見ている。

 俺は、この数日、何度も思ったことを言うことにした。


 「俺、美咲さんのことをすべて知りたいです。嫌われてもいいから、あなたの心に入りたい。つらくても、一緒にいたい」


 ……

 ……

 ……




 二人は、美咲の家へ向かって歩いている。

 特に言葉は交わさない。

 美咲は美咲で、拓海は拓海で、この後、何をすればいいのか、何を言えばいいのかを悩んでいる。

 もうすぐ家に着く。

 ようやく、美咲が口を開く。


 「全部聞いたら、あたしのことを嫌うかもしれません」


 扉の前で、彼女なりの最後の配慮をし、言い訳をしている。

 でも、拓海には響かなかった。

 彼女が自宅の玄関を開ける。

 拓海と美咲が中へ入る。

 室内は質素だった。

 出されている靴も、玄関から見えるダイニングもきれいに整えられ、生活感がある。


 「奥にソファがありますから」


 そう言いながら、美咲は拓海を案内した。

 これから話さなければならないことが、彼女の頭の中を巡っていた。

 けれど、拓海がこの空間に来たことへの緊張もあった。


 「飲み物とか……」

 「なくても大丈夫。話したいだけだから」


 ソファに座りながら、拓海は答える。

 美咲は少し居心地が悪そうに、拓海の隣へ座る。

 どこから話せばいいのだろうと迷う。

 先に話したのは、拓海だった。


 「……デートの前、三枝さんに呼ばれて、会いに行ったんです」


 美咲は少し驚き、拓海を見る。

 彼の顔に、特段の変化はない。


 「じゃあ……あたしのこと、聞いているんですか?」

 「はい。ご両親を早くに亡くしたことは……」


 知られたくなかったことを、拓海が知っている。

 美咲は、意外にもショックを受けなかった。

 恐れていたような、哀れむような視線を、拓海から向けられることはなかった。


 「こうなると分かっていれば……あの時、すべて話せばよかったですね……」


 一度目の告白のことだろうと、拓海は思う。


 「拓海さん、あたし、ずっと怖かったんです。もし拓海さんが両親のことを知ったら、あたしを哀れな子として、一線を置いて見るのではないかと……」


 拓海は何も言わない。

 美咲の言葉だけが続く。


 「でも、そんなことはなかったんですね……。勝手に一人で怖くなって……」


 彼女は下を向く。


 「……この前、先生の質問で、拓海さんがご両親のことを話している時に……あたし、安心したんです」


 美咲は顔を上げられない。


 「拓海さんも同じ側だと。拓海さんもつらかったはずなのに、そんなことも考えず、親近感を覚えていたんです……。ひどいですよね? 最低ですよね?」


 両手で顔を覆う。

 拓海は、そんな彼女を見つめるしかない。


 「だから……怖かったの。こんなあたしが、あんなまぶしい場所にいる人と、やっていけるのかって……。こんなに好きなのに、この醜い感情があなたにばれたらどうしようって、怖かったの」


 美咲は、まだ顔を上げられない。

 揺れる肩。

 途切れる言葉と声。

 感情があふれていることを、拓海は理解した。


 「拓海さんの会社の人を見た時に……こんな自分が情けなくて、何もない人間だと思えて……逃げたくなりました。だから、逃げたんです。あなたから」


 彼女はまだ下を向き、両手に顔を埋めている。

 拓海は、美咲の両肩をつかんで話す。


 「美咲さんが逃げている間、つらかったです」


 ようやく美咲が顔から手を離し、拓海を見上げる。

 まだ涙を流している彼女に、拓海は淡々と話す。


 「俺も話を聞いて、程度は違うけど、同じ側だと思いました。だから、その辺りは正直、気にしていません」


 にじんでいた彼の顔が、少しずつ輪郭を取り戻す。


 「ただ、訂正しておきたいことがあります。俺は別に聖人ではありません。きれいな、いや、まぶしい人間ではないです」

 「拓海さん……」

 「うまく生きようと思ったんです。だから、自分には似合わないことをしたり、人が喜ぶ態度を取ったり、求められる行動をして、それらしく見せているだけなんです」


 輪郭を取り戻した拓海は、いつもの人のよさそうな顔ではなかった。

 無表情に近い顔。

 何も作っていない顔。

 それでも、優しい視線で美咲を見ていた。


 「だから、あなたが引いた線の前で止まっていたんです。ここから先は、美咲さんが嫌がるから触れないでおこうと。惚れた人に、わざわざ嫌われることはしないですよね。普通は」


 拓海は、うっすらと笑みを見せる。


 「でも今なら、きちんとその線を越えて言います。俺は別に、美咲さんのきれいな面だけを見ているつもりはありません。友達の前の美咲さんも、後輩の前の美咲さんも、俺の前の美咲さんも、すべて愛おしくて、少し苦くて、時には苦しくて……。それでも、毎日思うんです」


 美咲は喉の奥で、感情が湧き上がるのを感じた。

 止まっていた涙が、また流れようとする。


 「美咲さんの隣にいたい」


 美咲の目が、またにじむ。

 拓海は、涙を流す彼女を優しく抱き締めた。


 「少し早いけど、二度目です。俺と付き合ってください」


 美咲は、耳元でささやかれる拓海の優しい声を聞く。

 彼女は行き場のなかった両手を上げ、拓海の背中に置き、強く抱き締めた。


 「一人にさせてごめんなさい! 勝手に怯えて、逃げてしまってごめんなさい!」


 美咲が声を上げる。

 叫ぶようで、ささやくような、拓海の心に響く言葉が届いた。


 「あたしも、拓海さんの隣にいたい!」


 美咲は拓海から離れ、その作られていない顔を見上げる。

 少し冷たく、疲れている。

 でも、確かな温かさがあった。

 この顔が、拓海の素顔なのだと美咲は思った。

 そして、その唇へ、彼女は顔を近づけた。

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