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その十九

 ……

 ……

 ……


 「たっくん、昨日のあれ、やっぱりあの時の人だよね?」

 「そうですね」


 森下さんの言葉に、タックさんが事務的に答えた。

 彼は今日、元気がない。昨日とは打って変わって疲れているし、かなり神経質になっている。

 私は聞き耳を立てて、そのやり取りを聞こうとした。気にはなる。

 男の職場まで来る女。

 言葉の響きが強い。

 私なら……しないかな。

 少し自分と似ていると感じる人。一人でやって来たのだろう。

 スーツだったけど……お堅い仕事の人?

 森下さんとタックさんの会話は、あまり弾まない。いつものように無難な言葉は返しているけど、明らかに声のトーンは低い。

 森下さんが諦めて、こちらに来る。それから、ひなちゃんと早川君を呼び集めた。


 「やっぱり、あれ彼女さんですよね?」


 ひなちゃんが興味津々に聞く。

 会社で何を言い出すの?


 「違う。たぶんね、元カノの友達!」

 「ええ? 綾子さん、それは少し無理がありません?」


 早川君が突っ込み、私も内心同意した。

 元カノの友達が、普通来る?


 「実は以前、たっくんの元カノみたいな人に会ったの。その時に一緒にいた人が、昨日の人なの!」

 「え、何それ。元カノの方が気になります」


 ひなちゃんが話す。私も内心同意した。

 森下さんは、なぜか私をちらりと見る。

 何で?


 「少し身長が高くて、スポーツをしていましたって感じの、スタイルのいい警察官!」

 「……何それ、AV?」


 私とひなちゃんが、早川君の腕をたたいた。


 「前、たっくんと外回りをしていて、与野でたばこを吸っている時に会って、元カノと友達からめちゃくちゃにらまれていたんだけど、友達の方が理沙ちゃんに少し雰囲気が似ているから、覚えていたのよ!」


 さっき森下さんが私を見たのは、そういうことね。

 タックさんの好みはスポーツ美人で、私や昨日の人みたいな、少し落ち着いているタイプではなかったということね。

 ……何で、それで私を見る?

 それを考えていたら、森下さん、早川君、ひなちゃんが、一斉に私を見てきた。


 「な、何?」

 「……今日、飲みたいですね。早川先輩!」

 「水野さん、今日飲み会をするので、佐藤さんを誘ってきてください」


 ひなちゃんの急な言葉に、早川君が要求してきた。

 今日は何もないからいいけど、何で急に?


 「早川君、たばこ行こう!」

 「少し黒川さんに電話します」


 そう言って、森下さんと早川君はいつものテラスの喫煙所へ、ひなちゃんは携帯を取りに自分の席へ行った。

 飲み会ね。

 確か、前にもしたいとは言われていたし。


 「タックさん、今日の夜、空いています?」


 タックさんは、硬い表情で私を見る。気が立っているのか、いつもより圧と鋭さを感じる。


 「今、皆で飲みに行こうって話になって、黒川さんにも確認しているけど……」

 「すみません。今日は体調が優れないので、また今度埋め合わせします」


 彼は淡々と言った。

 体調、よくないんだ。

 大丈夫かな?


 「体調悪い? 薬あるけど、渡そうか?」

 「水野さん、すみません。少し……一人にしていただけますか? 頭が痛いので……」

 「あ、ごめんね。じゃあ、また」


 すごく機嫌が悪そうだった。

 頭痛がひどいのかな……。

 後で頭痛薬を机に置いておこう。



 ……

 ……

 ……



 珍しく、佐久間君が自ら交通課に来ている。

 そして、当然のように私の前に立つ。

 何? またチョコ?


 「七海さん、東雲さんと話したりしています?」


 そういえば、最近あまり話せていないな。

 メッセージはしているけど。

 タックの件もあるし……。

 会って話すと、余計なことを言いそうなんだよな。

 そう思いながら、左右に頭を振った。


 「……ですよね。水曜日から、すごいんですよ」


 水曜日?

 火曜日に、研修後に東京タワーがどうとか言っていたけど、たぶんタックと一緒だったはず。

 のろけが、いよいよ署にまで出るようになったか。


 「初めてお会いした時より、気持ちが読めなくて……」

 「え?」


 予想とはまったく違う言葉が出たので、思わず声が出た。


 「あれ、たぶん絶対、佐藤さんと何かありましたよ。少しケアしてくれませんか?」

 「気持ちが読めないって、お前、前は何となく分かると言っていなかった?」

 「そうでしたけど、今は完全に無です。中原さんも『少し空気が悪いね』とか冗談で言ってくれていますけど、うちの班、今めちゃくちゃ重いです」


 あ、重症だ。

 席を立つ。

 でも、今行ってどうする?

 話すならタックだ。


 「佐久間君、タックとは話してみるよ。分かったら連絡する」

 「すみません。お願いします」


 佐久間君が出ていくのを見て、私はあらかた仕事を片づける。

 もうすぐ12時だ。

 一般の会社員なら、電話に出るだろう!


 『……はい、拓海です』

 「タック、元気?」

 『はい』


 返事が短い。

 こんな人ではないけど……。

 やはり、しのちゃんと何かあったのか。


 「しのちゃんと、何かあった?」

 『……美咲さんは、出勤していますか?』


 呼び方が変わっている。

 でも、こいつもいい状態ではないと思う。


 「来ているよ。どうしたの?」

 『元気なら……いったん、それでいいです』


 以前とは違う。

 線を引かれたような感じがした。

 声からも、いつもの人当たりのよさがまったくない。

 疲れ、神経質さ、少しのいら立ち。


 「あんたたち、大丈夫?」


 返事はなかった。

 電話の向こうで、考えているのか、悩んでいるのか。


 「しのちゃんがあんたのせいで傷ついたら、私が何とかするけど……今って、少し違う?」


 それでも返事がない。

 佐久間君の話。

 タックの反応。

 しのちゃんが、何かをした……?


 「しのちゃんに、何か言われたのね?」

 『……違います。ただ、少し時間が要るかもしれません』


 しのちゃん、やったんだ。

 この、自分を削ることに慣れている人が、うかつに動けないほどの何かをしたんだ。

 しのちゃんに……そんなことができる?


 「話はしている?」

 『……三日くらい、無視されています』

 「東京タワーで何かあったの?」

 『……行っていませんよ。美咲さんが……疲れたって』


 疲れた。

 それは研修?

 それともタックとの付き合い?

 ……違う何か?

 彼の言葉が、複数の意味を持つように聞こえる。

 ……困る。

 この二人は、少し危ういと感じていた。

 互いが一定の線の周りに立ち、尽くし、甘え、気づかないうちに疲れ果てていくと予想していた。

 だから警戒していた。

 でも、これは……想定とは違う。

 しのちゃんが、はっきりと線を引き、扉を閉めた。

 そして、苦しんでいるのはタックだ。


 『……七海さん……美咲さんに、いや、大丈夫です』


 彼は何かを言いかけて、やめる。

 タックが電話越しに引いた線が、少し薄くなった気がする。

 くそっ。

 私がいい奴でよかったな、タック。


 「手伝ってあげようか?」

 『……お願いします』

 「分かった。しのちゃんと話すわ」

 『とりあえず、今日は直帰で仕事が終わるので、俺は17時頃から蕨駅前で待つつもりです』


 不器用なやり方。

 でも、もうそういうことでもしないと、我慢できなくなったってことね。


 「了解。明日は週末だし、少し無理をしてでも何とかしよう」

 『ありがとう』


 でも、一応くぎは刺しておかなくては。


 「あと、タックの高校時代のこと、分かっちゃったから、今度話をさせて」

 『……親父のこと? 別に構いませんよ』


 気にしていないんだ。

 それもあり得るけど……。

 私としては、あなたがなぜそうなったのかを知りたい。

 しのちゃんと話ができたら、また連絡するということで電話を切る。

 久しぶりに真面目に話そうか。

 しのちゃん。


 

 しかし、しのちゃんは忙しかった。

 わざと忙しくしているのかもしれない。

 夕方、更衣室でしのちゃんを待つ。

 無表情の女が、19時過ぎに現れた。


 「七海、何をしているの?」

 「しのちゃんを待っていました。元気?」

 「普通です」


 確かに、佐久間君の言っていることが一目で分かった。

 機嫌が悪いわけではない。

 ただ、昔の、タックに会う前のしのちゃんのようになっただけだ。

 無表情が、彼女の周りを遮っている。

 幸い、更衣室には誰もいない。


 「タック、待っているんじゃない?」

 「……待っていませんよ。特に会う約束もしていないので」

 「会おうとはしているの?」


 彼女は何も言わず、私を見る。

 にらむ、と言った方が正しいかもしれない。


 「どうしたんですか。私が拓海さんと会うの、嫌いだったでしょう?」


 そんなことはない。

 気になるところはある。

 でも、二人は楽しそうだった。

 しのちゃんも表情が和らぎ、可愛い飼い猫のようになっていた。

 それに、そんな二人と一緒にいる私も楽しかった。

 だからこそ、今の言葉に、彼女の明白な拒絶を感じる。


 「何があったの?」

 「別に、何も」


 はあ……こいつ、面倒くさくなってくれる。

 少し強引にしないと、話を聞かなさそうだ。

 しのちゃんは着替えを始めた。

 長く会話したくないという意思表示。


 「タックに意地悪された?」

 「何もありません」

 「じゃあ、何で拗ねているの?」

 「……拗ねていません。私は普通です」

 「タックは普通じゃなかったよ」


 しのちゃんの手が止まる。

 無表情な目が、少し揺れている。


 「さっき電話したんだ。しのちゃんが異常だという噂を聞いて、何か悪いことをしていたら殺してやろうと思って」


 しのちゃんは何も言わず、着替えを再開する。


 「何もなかったって聞いた。でもタック、私にまで距離を置こうとしたよ」


 そう言いながら、しのちゃんのロッカーに近づく。


 「すごく傷ついていたよ。あいつ、傷つくことには慣れているはずなのに」


 しのちゃんの着替えが終わる。

 私が代わりに、ロッカーの扉を閉めてあげる。

 少し強めに。


 「逃げたね、美咲」

 「……何が分かるっていうの?」


 しのちゃんが無表情を解き、怒った顔で私を見る。

 図星か。

 しのちゃんが、タックを遠ざけているんだ。

 あなた、それでいいの?


 「一緒にいたかったんじゃないの?」

 「……何も分からないなら、黙って」


 言葉が強い。

 警察学校時代の、冷たい彼女を思い出す。

 ひねくれた奴め。

 タックのことには関わるな、と言いたいのか。

 でも、言い出したし、そんなしのちゃんを見ると引けないよ。


 「美咲、自分から閉じこもったら、何もできないよ」


 怒っている顔が、瞳が、唇が揺れる。

 少しの沈黙が流れてから、しのちゃんは深呼吸をした。


 「……あたしと拓海さんは、友達なの」

 「それは、今だけでしょう?」

 「あたし、見ちゃったの。普段、彼がいるところ……華やかだった。まぶしかった。場所も、人も!」


 ああ。

 この子、怯えてしまったんだ。

 タックは社会的には、いい立場にいると思う。

 周りにも、すごい人が多いのだろう。

 それを自分の目で確かめ、自分と比べてしまったんだ。

 だから、‘達‘という関係に逃げているんだ。


 「しかも、友達を選んだのは……あたしなの」


 聞いている。

 しのちゃんが、時間が欲しいと言ったことは。

 でも、それって……違わない?

 こいつらは、どう見ても両思いだ。

 それなのに、相手が少しまぶしいからといって逃げるの?

 線を引いて。

 それは違うよ。


 「美咲」


 そう言ってから、私はしのちゃんの言葉では表しがたい顔を、ひっぱたいた。

 いい音が鳴る。

 彼女は一瞬戸惑うが、すぐに私へ手を上げてきた。

 でも、私は防げる。


 「何をするの?」

 「こういう刺激、必要なんじゃない?」

 「何が言いたいの? あたしがどういう気持ちかも分からないでしょう!」

 「分からないよ。言わないんだもん」


 その時、しのちゃんは少し、はっとした顔をした。

 だよね。

 あなた、そういう子だもの。


 「友達でも、別に殴れる。けんかもする。でも、仲直りもできるよ」

 「拓海さんと私は、そういうのじゃ……」

 「友達じゃないの?」


 先ほど、彼女は友達だと言った。

 でも、本当は違う。

 二人とも、違う関係になりたいと思っているはずだ。

 でも今、あなたがそこに逃げるなら、それに合わせてあげる。

 彼女は、やはり何も言えない。


 「タック、今日、蕨駅でしのちゃんが来るまで、ずっと待っているって。仲直りしに行ったら?」


 しのちゃんは何も言わず、鞄を持って更衣室を出ていった。

 少し時間がたってから、携帯にメッセージが入っていた。

 「ごめんね」と、短い言葉だった。

 会いに行くとは、書いていなかった。


 ……

 ……

 ……

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