その十八
土曜日の夕方、仕事帰りの美咲と軽く飲むことにしていたので、ルートCAにいた。
出張後初めての訪問だったので、内田店長とオーナー用にサンディエゴのチョコレートを持ってきていたが、喜ばれはしなかった。彼らには毎回同じものを渡しているので、飽き飽きしていたのだ。
嫌味も言われ、そのうえ、頼んだカクテルも少し酒が強い気がした。
しばらくして、美咲がルートCAに入ってくる。
拓海は仕事用のスマートフォンを鞄に戻し、彼女を迎えたところで、研修の知らせを聞いた。
「拓海さん、来週の火曜日、警視庁の研修で東京にいます」
「え、いいですね。夜に会えますか?」
「はい! 時間どおりであれば、17時には終わるので、その後は自由です」
拓海は喜んだ。
二人とも、わざわざデートのために東京へ行くことはなかった。
最も多く会うのは上谷運動広場でのランニング。
次に池袋、その次が大宮、浦和など、あまり広くない範囲で付き合っていた。
‘正式な彼氏彼女ではない‘ということが、二人の行動範囲を狭めていたのかもしれない。
拓海はすぐにスマートフォンで地図アプリを開いた。
彼としては、そもそも警視庁がどこにあるのかも、きちんと分かっていなかったので、そこから調べようとしていた。
それを見た美咲は、少し迷いながら話す。
「……東京タワー、実は行ったことがないので、行ってみたいです」
拓海は少し驚いた。
東京で会うといっても、普段の彼女なら、雰囲気の落ち着いたカフェや、少ししゃれた食事といい酒が楽しめるバーなどを好むと思っていたからだ。
あまりランドマークや、ミーハーなことには興味がないと考えていた。
少し違和感を覚えながらも、デートだからと考えた拓海は、東京タワーについて調べる。
「ちょうどいいですね。今、プロジェクションマッピングをやっていて、いい感じに夜景も見られるみたいです」
「プロジェクションマッピング……きちんと見たことがないかも」
「珍しいですね。大宮とかでも結構やっているのに」
「いや、勤務中なら見たことはありますよ? ただ、雑踏警備だから、ゆっくり見てはいけないだけで……」
拓海は、職業の特殊性を理解した。
確かに、警察官がプロジェクションマッピングに見とれていると、訪れている人としては不安になるに違いない。
ただ、明るい態度で答え始めたのに、美咲はなぜか自信をなくし、今は少し落ち込んでいる。
「じゃあ、俺と初めて見るわけですね」
元気づけるように、拓海は言う。
その声に、美咲は少し上目遣いで彼を見る。
「見てくれますよね?」
今日の美咲は、何かが違う気がすると拓海は感じた。
これが、三枝の影響によって自分の見方が変わったせいなのか、それとも、いつもの興味のあるものへの一直線な姿勢なのかは分からなかった。
ただ、可愛らしくてたまらないとは思う拓海だった。
「……実は、拓海さんが海外の観光スポットで、皆さんと写真を撮っているのを見て、少しうらやましかったんです」
「え? 写真はたまに撮っているじゃないですか? ランニングの後とかもありますし」
拓海のスマートフォンの中には、彼女の写真や、一緒に撮った写真がある。
それは美咲も同じだが、彼女にとっての意味合いは違った。
美咲は頼んだ酒を少し飲み、拓海が送った写真を見せる。
「こんなふうに楽しそうな写真が欲しいです」
彼女が見せたのは、サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフで、アシカと一緒に皆で撮った写真だった。
黒川、水野、拓海が並び、アシカのように腰を反らしたポーズを取っている。
三人ともサングラス姿だったが、笑っていることは分かる。
拓海としては、苦い記憶の写真だった。
「これは……完全にふざけている時ですね」
「でも、皆さん楽しそうで、可愛いですよ?」
上司に指定されて撮った写真を拡大されても、拓海としては困る一方だった。
苦い顔をする拓海を見て、美咲は少し迷ってから話す。
「……この方は……拓海さんと同じくらいに見えますけど、同期みたいな方ですか?」
水野のことだった。
「ああ、水野さんですね。彼女は新卒入社なので、同期とは言えませんが、立場は同じくらいの人です。俺と同じように、いくつかのプロジェクトの中心として関わっていて、後輩を指導したりもしますね」
「へえ……そうなんですね」
少し美咲が暗くなったように感じる。
同年代の女性は気になるのかと、拓海は思った。
「こう見えますけど、仲はよくないです。結構、会議中でもライバル視されるというか……」
「あ、そうなんだ。都会の美人という感じがして、この前の森下さん? の若い版だなと思いました」
森下の名前に、拓海は一連のことを思い出す。
拓海としては、かなりつらい記憶だった。
それと同時に、これからは同年代の女性とうかつに楽しそうに過ごさないようにしなければ、と考えた。
(やはり気にしていたか。彼女と二人きりで撮った写真は、送らなくて正解だった)
送っていない写真には、ゴールデンゲートブリッジの前で撮ったものや、距離の近い写真などが含まれていた。
写真を撮る時点から、何となく「こういうのはよくない」と考えていたからだ。
このままでは、せっかくのデートが悪い雰囲気になると感じた拓海は、話題を変える。
「東京タワーでは、どんなポーズにします?」
「うーん、そう言われると難しいですね」
切り替えは成功した。
美咲はすぐにスマートフォンで調べてみる。
意外と該当するものがあったので、すぐに拓海へ画面を見せる。
「こういう、全身でやる三角形のポーズ、可愛くないですか?」
「え……少し恥ずかしいかも」
「あ、あたしだって恥ずかしいですよ! でも、一緒にやれば楽しいはずです」
美咲が楽しそうに笑う。
拓海も、ようやく心が落ち着く気がしたが、頭のどこかでは三枝の言葉が巡っていた。
でも今は、彼女との時間を楽しく過ごしたい気持ちの方が強かった。
二人はカクテルを飲みながら、食事をする場所や、東京タワーに何があるのかを調べ、話に花を咲かせた。
……
……
……
楽しみにしていた火曜日。
研修は順調だった。
時間どおりに進み、十七時少し前には、すべての内容が終わった。
何人かの知り合いに挨拶をし、急いで警視庁を出て、携帯を見る。
【ごめん、実験が長引いています。18時には会社を出ます。少し待っていてください】
拓海さんから来た連絡。
お詫びのスタンプ付き。
社会人としてはよくあること。
でも、あたしには特に寄りたい場所はなかった。
唯一気になるとすれば、信野医薬。
拓海さんが勤めているところ。
以前、地図で見せてくれた時は、ガラス張りのおしゃれな建物だと思った。
「行って……驚かそう」
でも、すれ違うのは嫌だ。
【会社を出る時に電話してください】
驚いてくれると嬉しいな。
……
……
……
「じゃあ、西村さん。あとは任せた」
「了解! 明日、フィードバックをお願いします」
拓海は急いで、デスクにあるPCやスマートフォンなどを鞄に入れ、オフィスを出た。
時間はちょうど18時。
当初の予定より遅くなったが、あまり待たせずに済みそうだった。
エレベーターに乗り、美咲からのメッセージを読む。
(どこかに寄っているのかな?)
そう思っていると、エレベーターが止まり、一階に着いた。
すぐに美咲へ電話をかけながら、会社のセキュリティーを通り、ロビーを抜けていく。
美咲は出ない。
そこで、拓海は見かけた。
「タックさん、お疲れさま!」
水野が一階のコンビニの袋を持ち、森下、早川と一緒に、拓海へ向かって歩いてくる。
何が楽しいのか、彼女は笑顔で拓海の前に立ち、袋を後ろに隠す。
明るいブラウンのエナメル靴、ベージュの細身のパンツ、薄い青のブラウス、長い黒髪が揺れる。
夕日が、彼女のイヤリングや腕輪に反射している。
三人は拓海を囲んだ。
「今ちょうど外部業者とのミーティングが終わって、理沙ちゃんの夜食を買っていたところ」
「いや、早川君の分もありますから!」
「自分のはエナジードリンクだけっす」
三人が、茶番のように一言ずつ話す。
拓海には、構っている余裕はなかった。
「少し用事があって」
今は忙しい。
これ以上待たせたくないと、拓海は思った。
水野の横を通ろうとした時、拓海のスマートフォンが鳴る。
美咲だった。
『拓海さん、左です』
すぐに電話に出ると、美咲はそう話した。
拓海は左を向く。
ロビーの待合用ソファーには、チャコールのローヒール、ネイビーの細身のスーツに白いシャツ、仕事用の黒いトートバッグ、やや長めのボブ姿の美咲が座っていた。
そして、無表情のまま拓海の方を見ている。
水野も彼女を見る。
身長は自分より少し低いが、アクセサリーなどは一切つけておらず、冷たい雰囲気の人だと思った。
そして、その無表情に、少し自分と近いものがあると感じた。
拓海は電話を切り、美咲へ向かう。
向かいながら、後ろの三人に話す。
「友達が来ているので、お先に失礼します」
拓海は、ようやく美咲の前に立った。
美咲は少し顔を傾け、後ろの三人を見る。
三人とも華やかで、ドラマに出てくる人のようだと感じる。
そのうち二人は、名前も知っている。
美咲は左手を軽く握った。
表情は変わらない。
「東雲さん、ごめんなさい……待たせて」
「いいえ。私、一度ここに来てみたかったので」
拓海は、彼女が自分と二人の時の状態ではないことに気づいた。
表情が、一人称が、そして視線が教えてくれた。
この場所から、できるだけ早く離れた方がいいと拓海は思う。
「さあ、行きましょう」
そこで、ようやく美咲は拓海を見上げる。
でも、それがつらそうに見えた。
……
……
……
拓海さんと一緒に、信野医薬を出た。
見上げたガラス張りの建物。
こっそり座ってみた、ユニークなデザインのソファー。
18時になるのを見ながら、前髪を整えていた。
来るんじゃなかった。
今……あたし、どんな顔をしているの?
さっきの三人は、あたしをどう見ていたの?
「驚きましたよ。まさか、うちのロビーに東雲さんがいるとは」
彼を見上げる。
優しく笑っているけど、気まずさをなくそうと努力している。
来るんじゃなかった。
あたしのことを……友達って言っていた。
そうだよね。
付き合っていないもんね。
「写真で見せてもらった時、おしゃれだなと思ったんです。今回じゃないと来られないと思ったから」
彼はあたしを見て、にっこり笑う。
あたしに気を遣っている。
来るんじゃなかった。
森下さんは品があって、素敵だった。
水野さんは華やかで、明るくて、きれいだった。
あたしは……?
「研修が早く終わったから、来てくれた感じ?」
「そうです。本当は、もっと驚かせたかったんですけどね」
彼は笑顔だ。
嬉しいのかな……?
あたしは今、笑えている?
来るんじゃなかった。
人通りが少なくなり、あたしは拓海さんに言った。
「ごめんなさい。今日はやめにしませんか?」
拓海さんの足が止まる。
こちらを見る。
その顔は笑みを浮かべているけど、何かを我慢しているように見えた。
この会話には似合わない、生ぬるい風。
振り払おうとしても消えない不安。
「どう……して?」
「実は、今日は研修で疲れました……少し早く帰りたいです」
拓海は視線をそらす。
ここまで言えば、彼なら分かってくれる。
「俺にまで……嘘をつかないで……」
小さな声が聞こえる。
あたしは笑った。
「本当ですよ。少し、思ったより研修がきつくて」
「俺にまで線を引くなよ!」
彼は声を上げて言った。
こんな彼は初めて見る。
悲しそうな顔をしている。
そんな顔をさせたいんじゃないんだ、拓海さん。
あたしはただ、守りたいんだ。
あたしたちは友達……じゃないですか。
「拓海さん……」
「ずっと笑えていないよ……東雲さん」
ああ。
あたし、失敗したんだ。
笑えていなかったんだ。
拓海さんの前なのに。
友達。
そう決めたのは、あたしのはずなのに。
「やっぱり、今日はやめましょう」
「……美咲さん、待って!」
彼はあたしを呼ぶ。
美咲って、初めて呼んでくれた。
でも、駄目ですよ。
友達だから。
「私、京浜東北線で帰りますね。浦和へは、上野東京ラインの方が早いですよ」
あたしはそう言い、拓海さんを置いて先に歩いた。
左目がにじむ。
自分で選んだのに、止めることができない。
……
……
……




