その十七
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私は今、悩んでいる。
珍しく、人のことだ。
タック、佐藤拓海。
親友の彼氏候補。
警察官として、私的な理由で事件や事故を調べることはできない。
だから個人的に、この数日、飲み歩きながら彼のことを調べた。
浦和生まれ、浦和育ちなので、意外と簡単ではあった。
でも、その結果を知っても、なぜああいう人になれたのか、共感できなかった。
私は机に置いてある海外のチョコレートを一つ取り出し、口に入れる。
甘い。
甘すぎる。
「これ、佐藤さんがくれましたけど、七海さんもどうぞ」
佐久間君が今週の月曜日に持ってきてくれたチョコレートは、この数日、冷蔵庫に入れて食べているけど、甘さが落ちない。
さすがUSAという感じだった。
このチョコレート、しのちゃんも食べたのかな?
しのちゃんは、彼の両親のことを知っているのかな?
だから付き合おうとしている?
……いや、ないな。
人と痛みをなめ合うような子ではない。
はあ、どうしようかな。
「タックが、もう少し素直な奴だったら、こんなに悩まないんだけどな」
そう、奴は素直ではない。
以前はしのちゃんと同じで、自分が傷つきたくないから、本当の自分の周りに停止線を引き、その停止線の向こう側で仮面を作って対応しているのだと思っていた。
でも、おそらく本当は、自分なんか守っていないんだ。
自分のことをないがしろにして、人のために動く奴になったんだ。
ある意味、自分の心を殺して。
もっと素直なら、そこまでする必要はないのに。
間違いなく転機は父親の死。
でも、そこからなぜ、止まるための線をなくした生き方につながったのかは、やはり分からない。
一度、本人に聞きたい。
しのちゃんに言う前に。
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「水野さん、今日も振られましたね」
夜のオフィス。
早川の言葉に、水野の眉が動く。
西村は水野にばれないように、早川へ「余計なことを言うな」と口の動きで伝える。
「仕方ないじゃない。先約があると言うんだもの」
「この数日、距離感が変わりすぎですよ」
水野の言い訳に、早川が水野を真っすぐ見ながら話し出す。
西村は‘言っちゃった‘という顔をする。
水野だけが、理解できないという顔で早川を見る。
その真顔を見て、早川は自然とため息をついた。
学会出張後、水野は拓海のことを‘タック‘と呼んでいる。
しかも、これまでしなかったような、ランチへ行く時に声をかけたり、仕事後に飲みに誘ったりすることまでしている。
しかし、それが異常な変化であることに、水野は気づいていない様子だった。
たぶん、直接指摘しなければ気づかない。
早川が覚悟を決めたところで、西村がたばこのサインを出す。
「……たまには俺たちも誘ってくださいよ。少したばこを吸ってきます」
「ああ、そうね。今度みんなで飲み会をしましょう」
適当にごまかし、早川は別のフロアにあるテラスの喫煙スペースへ移動する。
後ろには西村がついてくる。
「たばこも吸わないのについてくるなよ」
「別にいいじゃん、先輩」
「お前の先輩呼ばわり、少しむかつくわ」
二人は喫煙スペースへ入る。
早川は当然のように、自動販売機で西村がいつも飲んでいるジュースを買い、投げ渡す。
そして、自分にはエナジードリンクを買った。
「あざっす、先輩!」
「それで、どうするの? 水野さん、完全に佐藤さんにはまってるよ」
「でもね、理沙パイはまだ分かっていないんですよ。自分の感情が」
「あれ、言ってあげないと、さすがに可哀想だよ。黒川さんも森下さんも、『タックさん』と呼ぶたびににやけるから、やりづらいわ」
早川は電子たばこの電源を入れる。
西村は早川の反応を見て、少し考えてから口を開いた。
「早川先輩、理沙パイのこと好きだっけ?」
「好きではないよ。それ以前にやりづらい」
「あ、そう? 私は今、すごく面白いからいいけど」
「佐藤さんと水野さんが付き合ってもいいけどさ、先輩たちの恋愛を見たくないわ。仕事に影響が出ないようにしてほしい」
西村は、この先輩は効率重視だから、恋愛感情など知らないのだろうなと感じた。
この数日、甘酸っぱい場面は確かに多くあった。
本人が気づいていないのが、なおさらだった。
でも、これも黒川の意図だと西村は察している。
あとは、このわめく子供を自分が静めれば問題ないと思うのだった。
大宮駅周辺の喫茶店。
軽洋食とコーヒーが並ぶ、静かな大人のための店。
そこに拓海は座っていた。
好きでもない上野東京ラインに乗り、早めに移動して人と会っている。
「この間は、失礼な態度を取ってごめんなさい」
三枝恵子。
自称、東雲のおばあちゃんだった。
東雲が幼い頃からの、特別な縁によってできた関係であることは、拓海も知っている。
今日、自分はこの人と何を話せばいいのか心配だった。
しかし、料理を注文すると、三枝はすぐに拓海へ頭を下げてきた。
「いいえ、こちらこそ失礼しました」
拓海の返答に、三枝はにっこりと笑う。
白髪が交じり、少し銀色がかった髪色が、短い髪型によく似合っていた。
「美咲ちゃんから、あの後電話が来て、すごく怒られましたよ。付き合ってもいないのに、どうして失礼な態度を取るのって」
「本当に、おばあちゃんと孫娘みたいですね」
拓海は素直に話した。
その言葉に、三枝は少し驚く。
「拓海さんは、本当に器用ね。素直になりなさいと言えば、すぐ素直になる」
拓海は軽く笑ってみせる。
呼び方が自然に変わったこと。
褒め言葉ではあったが、褒められていない気がしたからだ。
三枝は拓海を見ながら考える。
東雲と比べ、彼は立ち回りのうまい人だと。
だから、少し心配になる。
「この間、拓海さんのご家族のことを聞きましたが、美咲ちゃん側のことはご存じ?」
「本人からは聞いていません。ただ、たまにお兄さんの話が出るのと、実家側の話をしたがらないので、何かあるとは思っています」
彼は察しもいい。
でも、踏み込まない。
好きではないからではない。
彼女が、東雲が、望んでいないからだ。
「私は、美咲ちゃんが話したがらないことを、ほとんど話せますよ。聞いておきます?」
しかし、三枝のその言葉に、拓海の瞳が揺れる。
東雲には知られたくないことがある。
彼女自身を誤解してほしくないとも言われていた。
拓海は今、その背景を聞ける。
でも、東雲はまだ望んでいない。
彼の迷いによって、二人の間に沈黙が訪れた。
「……拓海さん。相手を愛しているとね、時には、相手が望まないことをしなければならないんですよ」
拓海は、三枝を静かに見つめる。
理解できないという顔をしていた。
しかし、その目の奥に葛藤が映っている気がした。
(あなたは、やはりそういう子なのね)
三枝は同情している。
好きなのに、自分から踏み込めない。
踏み込んでいるように見えて、核心を避けて歩いている。
器用で、不器用な男を、三枝は少し哀れに思っている。
「美咲ちゃんは五歳の時、すぐに笑う子で、みんながオーディションを受けさせろと言っていたんです」
「……可愛かったんですね」
「美咲ちゃんのご両親は自営業で忙しかったし、可愛いからと、私が師範をしていた合気道の道場に通わせていたんですね」
打って変わった話題を話す三枝に、拓海は適切に相づちを打つ。
「合気道の後には、よく私の家で面倒を見ていたんです。私は息子しかいなくて、正直、美咲ちゃんのご両親には悪いけど、娘を持った気分になってしまって。可愛くて、たくさん甘やかしていましたね」
東雲の幼い頃の話を、拓海は聞いたことがなかった。
彼女は幼い頃の話をあまりしない。
同年代だから、その当時流行した物や、テレビ番組の話をしたことはある。
だから、拓海としては少し新鮮な気分になっていた。
拓海の表情が少し和らいだことを、三枝は見逃さなかった。
本題は、これからだった。
「でも、彼女が中学一年生の頃、ご両親は交通事故に遭ったんです」
「……三枝さん」
「幸い、お兄さんの伸也君はしっかりした子で、ちょうど成人していたので、何とか家のこともきちんと引き継ぎ、懸命に家と美咲ちゃんを守ってくれました」
「やめてください!」
拓海が声を上げる。
油断していた。
今ここで、この人から聞いてはいけないと思ったのだ。
東雲が嫌がることを第三者から聞き、それによって彼女への態度を、わずかでも変えたくなかった。
しかし、三枝は、それが必要だと思っている。
拓海は目を閉じる。
立ち上がって帰ろうとも思う。
でも、できなかった。
彼の中にも、知りたいという気持ちはあった。
「それから、生き方を少し変えたみたいです。あんなに人懐っこかった子が、今のように、人とはある程度線を引いて生きようとするようになって」
拓海は、可哀想だとは思わなかった。
ただ、そんな人が、なぜ自分に自ら声をかけてくれたのかを考えた。
出会った時の人当たりのよさ。
水野をはじめ、何人かとの関わりによって身につけた、‘線を引いている人‘への接し方。
それが効いたのかと、推測することしかできない。
「そこから、あの子は頑張ったみたいですよ。浦和警察署で会った時は、どれほど驚いたことか。あんなに無表情で、自分を隠して……まるで拓海さんみたいにね」
三枝は、再会した時のことを思い出す。
幼い頃とは変わり、あまりにも冷たい顔になっていた美咲を見ているのはつらかった。
唯一、友人の七海が、彼女の本当の姿を引き出してくれていた。
それでも、以前とは違う。
しかし三枝は、積極的に美咲と接することができなかった。
彼女がつらい時に、自分もまた、夫の転勤を言い訳に遠くへ行ってしまったからだ。
後ろめたさがあった。
今話していることも、後から伸也に会い、聞いた話だった。
拓海としては、最後の言葉に引っかかりを感じていた。
彼女が自分に好感を持ってくれたのは、同類だと気づいたからかもしれない。
拓海は、嫌なことに気づいてしまったと思う。
「油断……していました。聞くべきではなかった気がします」
「……私は、拓海さんなら美咲ちゃんと向き合える人だと思っていますよ。でも、心配もあります。あなたたちは、相性がよすぎるように見えます」
拓海が三枝を見つめる。
少しだけだが、意味は伝わっている。
生き方が似ているのかもしれない。
だから互いに引かれ合いながら、踏み出す場所を選び、平行線の上で、相手が疲れ果てていくのをただ見ているだけになるのではないか。
「だから……本当は……」
三枝は言葉を迷った。
言葉がないわけではない。
自分が正しいのか、最後に確認しているように見えた。
「こんなことをお願いするのも変だけど、拓海さんに、彼女の中へ踏み込んでほしいの。彼女がつらくても、幸せになれるように」
彼は理解した。
でも、拓海としては何をすればいいのか分からない。
次に会った時、「俺はあなたのことをすべて知っているから、俺のところへ来い」とでも言うのか。
そう悩む拓海を、三枝は優しい顔で見ていた。
二人の間の静寂の中を、思惑だけが駆け巡っている。
……
……
……
自宅で、拓海さんが送ってくれた写真を見る。
もう何回目だろう。
拓海さんと一緒に写り、近い距離にいて、明るく笑う女性を見るのは。
この間、聞けなかった。
この人は誰ですか、と。
聞けば嫌がるかな。
重いと思われるのかな。
あたしと似ていて、異なる人。
華奢で、鮮やかで、賢くて。
拓海さんには、こういう人の方がお似合いなのかな。
聞いたら、今までのように過ごせる?
不安しかない。
踏み入れてはいけない。
遠くへ行ってしまう気がする。




