その十六
宮原真紀と佐久間大地は、東雲美咲を追っている。その隣には、背筋の伸びた白髪交じりの女性、三枝恵子がいる。
東雲は白を基調に、薄いラベンダー色がアクセントになっている半袖のワンピースを着て、いつもの白いスニーカーを履いていた。黒いショルダーバッグには、差し色としてワインレッドのスカーフが結ばれている。
少し歩くテンポが速い。
「美咲ちゃん、今日は華やかだね」
「絶対デートですよ! デート!」
午前の合気道同好会で、東雲の集中力はいまひとつだった。
それは外部師範の三枝にも、同じく指導役を務める宮原にも分かっていた。
稽古が終わってから、三枝は東雲を呼び、どうしたのかと聞いた。
三枝を前にしては珍しく、東雲はもじもじしながら言い訳をし、食事にも行けなくて申し訳ないとだけ話して、いそいそとその場を去っていった。
そこで三枝は宮原を呼び、状況を聞く。
榊原にも確認し、本日の食事は中止。
代わりに追跡することになったのだ。
巻き添えを食らったのは佐久間だった。
事情を知っているということで、宮原から声をかけられた。
彼としては、この状況が気まずくて仕方がなかった。
初参加した同好会で、尊敬する先輩のデートの様子を追わなければならない。
やはり、あの時店へひょこひょことついていったのが問題だったのだと、彼は考えている。
「駅で待ち合わせなの?」
「確か、彼はこの辺りに住んでいるんですよ。だから、駅までは行かなさそうですけどね」
三人は警察署から南へ向かう東雲を追いかけ、駅の周辺まで来ている。
もうすぐ百貨店が見え、ロータリーへ入ることになる。
そこまでは男の気配を感じられなかったが、百貨店を通り抜けようとしたところで、佐久間が反応した。
「11時方向、ガラス越しにいました」
宮原と三枝が機敏に動き、11時方向を見る。
男はダスティーブルーの開襟シャツに黒いスラックス、白いスニーカーを身につけ、細い黒縁の眼鏡をかけている。
右手には荷物を持ち、左手で目頭を押さえていた。
「好青年という感じね。見た目は合格よ」
三枝が突然言い出す。
宮原も肯定するようにうなずく。
佐久間だけは、意味が分からなかった。
三枝先生は、どの立場で話をしているのだろう。
ガラス越しに、東雲が男へ近づくのを見守る。
男はまだ目頭を押さえていたため、東雲が近づいていることに気づかない。
それに気づいた東雲は前髪を整え、拓海の左の二の腕を突然たたいた。
拓海は少し驚き、東雲は満面の笑みを浮かべる。
「あら、美咲ちゃん、可愛いね」
「うんうん、目の保養になります」
佐久間だけが、微妙な表情をしていた。
もし姉がいて、そのデート現場を見たら、こんな気分になるのだろうか。
いつもは無表情な人が、あれほど笑うなんて。
彼としては、複雑な気持ちにならざるを得なかった。
二人は少し話してから、再び百貨店の方へ歩き出した。
尾行中の三人は慌てて柱の裏に隠れる。
そして、二人が通り過ぎるのを待ち、反対側のガラスを見ると――。
「あ……」
佐久間は拓海と目が合ってしまった。
拓海としては、視界の端で騒がしい動きがあったため、そちらを見ようとしただけだった。
佐久間の「まずい」という顔を見て、拓海は軽く会釈し、そのまま歩き続けた。
「今の、見逃してくれた?」
佐久間がつぶやくと、宮原が慌ててガラスを見る。
しかし、今度は東雲と宮原の目が合う。
それから、その後ろにいる三枝とも目が合った。
東雲としては、突然会釈しながら歩く拓海が気になり、同じ場所を見ただけだった。
そこに仕事仲間と恩師の三人が並んでいれば、驚くしかなかった。
百貨店のレストランフロア。
割烹ほどではないが、落ち着いた和食店に五人が座っている。
萎縮している宮原と佐久間。
笑顔を浮かべている三枝。
人当たりのよさそうな顔をしている拓海。
そして、やや無表情で、怒りの気配を漂わせている東雲。
見つかった三人は逃げようとしたが、入口の近くには東雲と拓海がいた。
迷っている間に二人が近づき、何をしているのかと聞く。
三人は返答に困り、三枝は‘偶然ね‘と言い出したが、長年三枝を知っている東雲には通用しなかった。
空気が悪くなったところで、拓海が提案した。
よろしければ、食事でもご一緒にどうですか、と。
「東雲さん、そんなに怒らないで。誘ったのは俺だから」
その言葉に、萎縮していた二人が少し顔を上げ、東雲を見る。
しかし、彼女はまだ怒っている。
「そういう問題ではありません。尾行までして、皆さん、どうしたんですか?」
佐久間はおびえている。
仕事中でも聞いたことのない、感情のこもった声だった。
宮原も同じだった。
彼女もまた、東雲が怒ると怖いことは、七海を見て知っている。
それに比べ、三枝は平然としていた。
というより、東雲を完全に無視していた。
視線は拓海へ向いている。
「佐藤さんは、美咲ちゃんとお付き合いしている方?」
その質問はまずい、と佐久間は思う。
この前のスポーツバーで同じ質問をし、どれほど気まずくなったことか。
「いいえ。今のところは友人です。毎日連絡を取るくらいの」
「それは、一般的にはお付き合いしていると言わないのかしら?」
「関係性は人によるので何とも言えませんが、私はいずれお付き合いするつもりです」
佐久間は少し驚く。
以前のスポーツバーでは、七海が爆笑し、この二人はずっと困った顔をしていた。
言い訳のように拓海が何かを話していたが、今のように落ち着いて、淡々としてはいなかった。
ただ、三枝は妙な顔をした。
一瞬東雲を見るが、東雲の方から視線をそらした。
「そうなのね。真っすぐで素敵な人ね。お仕事は何をされているの?」
「先生!」
まるで娘が連れてきた男を品定めするような質問に、東雲が視線を戻し、声を上げる。
「信野医薬という会社で研究職をしています。新薬開発や、製造工程の効率化に関する研究などですね」
三人とも、聞いたことも見たこともある会社だった。
CMでも、近所のドラッグストアでも、その名前を目にする。
佐久間は何となく大企業だとは聞いていたが、それほど身近な会社だとは思っていなかったため、驚いていた。
「本当に? 体格だけを見て、建設関係や力仕事のお仕事をされている方かと思いました」
聞きようによっては、少し失礼な言い方を三枝はあえてしている。
拓海は薄い笑みを浮かべ、財布を取り出す。
「そう言われることが多いので、持ち歩いています。こちらが名刺です」
拓海が三枝に差し出した名刺には、確かに信野医薬と書かれており、主任研究員とも記されていた。
三枝はそんな肩書よりも、柔らかな返答が自然に出てくる、この当たり障りのない青年を見ている。
少し引っかかった。
「先生……いや、その前に、私も先生とお呼びしてよろしいでしょうか」
「そうですね。三枝さんでお願いします」
「三枝さんは、合気道の師範ということですか? なぜ尾行を?」
「確かに、佐藤さんからするとおかしいですね。真紀さんと佐久間君はともかく」
拓海は少し苦笑しながら、うなずく。
「美咲ちゃんが五歳の時に初めて合気道を教えて、半分娘のように可愛がっていました」
「なるほど。神奈川から遠方まで、わざわざ来てくださっているんですね?」
「今は蓮田に住んでいますよ。夫の故郷でして。六年ほど前に、外部師範として再会しました」
東雲、宮原、佐久間は、この会話に入ることができなかった。
二人は穏やかな声と表情のまま、遠慮なく質問と返答を繰り返している。
互いを探り合い、どちらも譲らない。
「美咲ちゃんとは、どうやって出会ったの? はやりの街コン? マッチングアプリ?」
「出会いは、高速道路の近くでの取り締まりです。その後、電車で仲よくなりました」
年配の女性が使いそうにない言葉に対し、普通の出会いでは使わない言葉で答えている。
東雲だけが恥ずかしくなっていた。
「そうなのね。ご両親はご健在なの?」
「先生、質問が多すぎます。変なことまで聞いています」
東雲は焦る。
しかし、三枝と拓海は互いしか見ていない。
「父は亡くなっていて、母は健在です。姉は結婚しているので、今は母と妹と私の三人で暮らしています」
東雲は、知らなかった情報をさらりと言われ、少し驚く。
この人も、片方とはいえ親を亡くしているのだと知ると、妙な感情が湧いてきた。
それを親近感とは名づけたくなかった。
三枝は、品定めに本腰を入れようとしていた。
しかし、拓海は出張帰りの時差ぼけもあり、このやり取りをそろそろ終えたいと考えていた。
そして、質問を誤った。
「三枝さんは、東雲さんにどのような人とお付き合いしてほしいですか?」
「そうですね。佐藤さんも素敵ですが、より素直な方ですね」
拓海の左眉が揺れた。
彼としては、久しぶりに感じる感覚だった。
(俺のやり方を見抜いている。これは負けだ)
「素直ですか。肝に銘じておきます」
気持ちとは異なる言葉を口にする拓海を見て、三枝は最後ににっこりと笑った。
その笑顔を見て、ほかの三人は、ようやく空気を吸えるような気がした。
この機会を逃してはいけないと思った宮原が、勢いよく口を開く。
「佐藤さん、その袋、買い物でもされていたんですか?」
「いいえ。昨日、アメリカ出張から帰ってきたばかりで、東雲さんにお土産を渡したくて」
出張、アメリカという言葉に、佐久間は先日ルートCAで話したことを思い出した。
本当に行ってきたのだと、少し驚く。
彼もまた、海外へ行った経験はない。
「有名なチョコレートと、ハンドクリーム、リップバームを買ったんですが、皆さんに会うとは思わなかったので……足りないかもしれません」
拓海がやや困った顔をすると、宮原が話す。
「全然気にしなくていいですよ。私は初対面ですし、佐久間君もいらないよね?」
「あ、は、はい!」
その返答に、拓海は笑みを浮かべながら話す。
「一応、東雲さんの分は別にありますので」
拓海は新しい袋を取り出す。
真っ赤な布製のトートバッグに、大きめの黒猫が刺繍されていた。
猫自体は少し不格好だが、使いやすそうなデザインで、しっかりしている。
「猫、好きですよね?」
拓海の言葉に、東雲は後ろめたさでもあるかのように笑う。
お土産があるとは思っていたけど、先ほどのものに加え、トートバッグまでもらうのは多すぎると思った。
「サンフランシスコね? ここのチョコレート、好きよ」
三枝はチョコレートの包みを見て言い出す。
「たくさん入っていますので、ぜひ」
「じゃあ、遠慮なく」
「先生、さっきから……今日、すごいですよ?」
東雲が少しあきれた様子で三枝に話す。
宮原は二人の関係性を知っていたが、東雲がここまで感情を出すのも珍しかったため、少し驚いた。
佐久間の中では、無表情な先輩というイメージが、もはや消えかかっている。
「別にいいじゃない? 孫娘の相手は、私がきちんと確認しないと」
遠慮のない返答に、東雲は何も言い返せない。
孫娘と相手。
三枝が選ぶ言葉のすべてが、東雲には刺さっていた。
それは宮原と佐久間も同じだった。
ただ、拓海だけは少し違うように感じていた。
(やっぱり、東雲さんのご両親は……)
その後は、意外にも普通の食事会になった。
他愛もない世間話。
仕事の話。
出張の話。
お土産をどう分けるかという話も出たが、七海の分を取っておく必要はないという東雲の判断で、リップバームとハンドクリーム、チョコレートを少し宮原が、残りのチョコレートを佐久間が持ち帰ることになった。
【今日はごめんなさい。巻き込んでしまって。三枝先生は、本当はすごく優しくて、思いやりのある方です。あたしとの付き合いが長いから、ついちょっかいを出したくなったのだと思います】
拓海は自宅で、東雲からのメッセージを読んだ。
三枝がどのような気持ちで拓海に接していたのかは、分かっているつもりだ。
だからこそ、あえて厳しく言ってきたのだと考えている。
【大丈夫です。心配しないで。あと、お土産が完全に俺の好みでごめんね。無理して使わなくていいから……もらってくれるだけで嬉しいです】
東雲へ返信を送る。
それから、仕事用のスマートフォンを手に取った。
社内メッセンジャーではなく、端末に備えつけられている基本のメッセージアプリに通知が入っている。
「こちらにも、返信しないとね」
拓海は悩ましげな表情を浮かべながら、文章を読む。
【三枝です。今日はありがとうございました。美咲ちゃんのことで、一度佐藤さんとゆっくりお話ししたいです。返信を待っています】




