絹の鎖③
一時間後、母と晶子は、鴎亭の最も広い座敷に座り、金剛寺と仲人夫婦と向かい合っていた。
時計の針が時を刻む音だけが、静かに部屋に響いている。
父のいとこである仲人夫婦が、しびれを切らしたように母に尋ねた。
「……弦一郎さん、十一時にお越しになると伺っておりましたが」
晶子と母が鴎亭に到着したのは、午前十時四十五分であった。
父は今朝、急用が入ったと、日の出と共に会社へと向かったという。
晶子のお見合いには出席する、と執事長には言い残したらしい。
父は時間に少しルーズなところもあるが、三十分も遅刻することは、晶子の知る限りでは一度もない。
「……最近軍部からの需要も増えてきており、多忙を極めていると伺っております。お気になさらず。もしよろしければ、食事だけでも始めていただくのはいかがでしょうか」
見合い相手が、気まずい沈黙を埋め合わせるように、見合いの開始を提案した。
軍人という割には柔和な口調であるが、時折見せる眼光の鋭さは、帯で締めあげられた腹を更に圧迫した。
「よろしいですか、奥様」
「はい、結構でございます」
ポマードで一筋の乱れもなく固められた髪に、墨汁で塗りつぶしたかのような紋付袴を着用していた。
(少尉なのに、軍服ではないんだ)
これが金剛寺家なりの誠意であり、三男の立場がそうさせるのだろう。
お茶を飲む素振りをして、晶子は帯に挟まる洋書の感触を確かめた。
**********
間もなく、食事が運ばれてきた。
幼いころ、父の接待に付き合ったことがある。
なぜ付いて行ったのかはよく覚えていない。
ただ、接待する相手が行っていた「べっぴん」と言う言葉は、この時に覚えたことは記憶している。
鴎亭は、東京でも指折りの、政財界の大物たちが通う名だたる料亭であった。
料理一品一品の味も、それを運んでくる女中の所作も、天下一品である。
「今日は津島家のご令嬢との見合いを心待ちにしておりました。噂通りのべっぴんというか、噂以上にお美しい女性で、感動しております」
金剛寺が微笑むと、仲人が嬉しそうに会話を弾ませようとする。
「それはもう、津島家のご令嬢ですから。
ご両親の容姿端麗なお姿を見れば、ご令嬢の美しさは折り紙付きです」
母はそれを聞いてとても上機嫌な様子であった。
晶子も、母と同じような笑顔を浮かべていた。
見た目を褒めるのは簡単だ。誰にでもできる。
そんな露骨な媚に、愛想笑いを浮かべるのは晶子の心情に反するのであるが、ここは堪えた。
「晶子様は、本当に奥ゆかしく、控えめなお嬢様ですね。先ほどから黙って私どもの話に耳を傾けておられる。最近の女学生は西洋かぶれで口ごたえをする者も多いと聞きますが、晶子様なら、安心して家を任せられそうです」
金剛寺の満足そうな笑顔に、仲人夫婦も機嫌よく更に続けた。
「ええ、まさに日本の女子の鑑です。軍人の夫の三歩後ろを歩き、決して出しゃばらない。今日出会えた金剛寺様は幸福者ですよ」
これは、最高の誉め言葉であろう。
――この時代に生きる多くの女性にとっては。
そして、誰も知らない。
その言葉が、晶子にとって最大の屈辱であることを。
ミルクホールで読んだ新聞記事が頭によぎった。
晶子は、大きく息を吸い、帯の裏に閉じ込めていた言葉を解き放った。
「金剛寺様は、日本国を守る軍人でいらっしゃるのですよね。となれば、近い将来、欧米を超える国力を獲得したい、そうお思いでいらっしゃるのでしょうか」
それまで黙っていた晶子が突然話し出したからだろうか、金剛寺は少し戸惑うように晶子を見つめた。
「それはもちろんでございますし、可能だと考えています。欧米を超える国力をどのように獲得できるか、その達成方法を、寝る間も惜しんで考えております」
「では、金剛寺様は、日本の国力を半分に削ぐようなことを、なぜおっしゃるのですか?」
その部屋にいる者すべてが、開いた口が塞がらないまま、晶子を見つめていた。
「……半分、というのは?」
「英国の哲学者、ジョン・スチュアート・ミルは、『自由論』でこう説いています。女性を家に縛り付け、その能力を奪うことは、社会全体の発展を停滞させるのだと。国益を最優先する軍人であれば、国民の半分である女性の『自己決定権』を認め、社会に活かすことこそが、欧米に勝つための合理的な戦略ではないでしょうか」
しん、と静まり返る部屋に、晶子の声だけがよく響いた。
晶子は気が付いている、母が青ざめて震えていることを。
金剛寺の目の色が、険しいものに変わったことも。
「……世間知らずのお嬢様は、本の世界しか知らないようですね」
金剛寺の声が、先ほどより一段低くなった。
「申し訳ございません。娘は少し、読書が過ぎまして」
母が必死に弁解をしようとするが、金剛寺がその暇を与えなかった。
「お嬢さん」
金剛寺の表情に、動揺の色は見えない。第一印象で醸していた柔和な雰囲気が、一気に冷たいものに変わった。
「進歩には、秩序が必要なんですよ。秩序無き解放は、ただの混沌に過ぎません。ご存じではありませんか。東アジア諸国の惨状を。」
更に一段と低く、命令を下すような口調。
晶子は彼の背後にのしかかる巨大な軍部の影と、彼自身が絡めとられている、見えない鎖の存在を感じ取った。
この若さで、少尉に昇進した彼は、きっと優秀であろう。
しかし、三男であることを理由に、将来は『商人』となり下がることを『家』に命じられ、それに抗えない彼に、晶子は一瞬の同情を覚えた。
しかし、ここで手を緩めてはいけない。
気まずい沈黙が流れ、晶子が更に持論を展開しようとしたその時であった。
この場にそぐわぬ足音が響き、勢いよく襖が開いた。
暖炉のきいた暖かい部屋に、冷たい廊下の空気が一気に入り込む。
そこにいたのは、息を切らした津島家の執事長であった。
「失礼いたします。大変でございます!……旦那様が、旦那様が……」
いつも冷静沈着で、皴一つない背広に身を包んだ彼の顔が青ざめていた。
「暴漢に襲われ、大学病院に搬送されました……」
晶子の火照った身体が、頭からつま先まで一気に冷え切っていった。




