絹の鎖②
部屋に戻り、机の上に所狭しと並べられた本の背表紙を指先でなぞる。
いずれも、兄が読み終わったと言って、譲ってくれたものだ。
この三年間、読み続けた、JSミルの本で手が止まった。
「学びが、晶子を自由にしてくれる」
兄の口癖だった。
優しく晶子を見つめる兄の顔を思い出す。
彼女に向けたその笑顔に、嘘を見つけることができなかった。
晶子は、静かに溜息をつき、その本の背表紙を倒す。
こつんという軽い音が、ざわつく胸に広がっていった。
**********
幾重にも重ねた衣の上から、帯をぐっと締め付けられる。
酸素を求めるように天井を見上げ、深く息を吸い込む。
まるで水揚げされた魚のようだ――、そう思うと、苦々しい笑いがこみ上げてきた。
「お嬢様、帯締めは何色にしましょうか」
「……どれでもいいわ、あなたに任せる」
「晶子様……せっかくの晴れの舞台です」
女中は、わずかに呆れたように溜息をついた。
コンコンとドアをノックする音が聞こえた。
「はい、お待ちくださいね」
女中頭が急いでドアを開けると、そこにいたのは執事長だった。
「あと三〇分くらいで出発しますが、準備のほどは」
「あとは帯紐をつけるだけです。あ、そうだ」
女中頭は執事長の袖をつかみ、ぐい、と部屋の中に引き入れた。
執事長にこんなことをできるのは、旧知の仲である女中頭くらいだ。
「今日のお嬢様のお着物、見てください。いつにも増してお美しいでしょう?」
楽しそうな女中頭と比べ、執事長の様子はいつもと変わらず感情の機微は無い。
「……そうですね。お美しい限りです」
「ねぇ、せっかくなのですから、帯紐、執事長に選んでもらいましょうか。どれが似合うと思います?」
女中頭が、盆にのせられたいくつかの帯紐を執事長の前に差し出した。
執事長が、わずかに顔をしかめた。
常に機械のような彼が感情を露にすることに、晶子は少し驚いた。
「さぁ…私にはそのようなものを選ぶのには相応しくないので」
執事長は二人に背を向け、どこかへと立ち去ってしまった。
「つれないわね。今日の振袖は深紅で、帯が金色だから……この色が良さそうね」
女中頭が選んだのは、着物と同じ紅色の帯紐だった。
帯紐を締められ、着付けは終わった。
「まぁ、格段にお美しいです。鏡をご覧になってください」
深紅色の着物と、それに合わせた唇の紅は、陶器のような艶やかな肌によく映えている。
このまま見合いに臨み、黙って座っているだけで、先方は一目で結婚を決めるだろう。
感動する女中頭をよそに、晶子の気持ちは二月の曇天のように重く沈んだままだった。
「私は、今日この日に晶子様の着付けをすることができて、とても光栄です」
彼女が物心つく頃から面倒を見てくれていた女中の顔は、この上なくほころんでいた。
「奥様を呼んできますね」
一人残された晶子は、自身の机に置かれた洋書に手を伸ばす。
表紙の感触を確かめるように、何度もそれを指でなぞった。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように独り言をつぶやいて、晶子は、洋書を胸に抱いた。
そして、それをそっと帯の内側に忍ばせる。
廊下からよく聞きなれた二人の足音が近づいてきた。
母は間もなく、女中頭と一緒に部屋に入って来て、晶子の容姿を賞賛するだろう。
母も今日は、美しい留袖を着ているに違いない。
賞賛しなければならない、その容姿を。
「なんとまぁ、本当に美しいわね」
晶子は、ほどけないことを確かめるように帯をそっと抑えながら、母に向かって微笑んだ。
「お母さまこそ、とても美しいです」
**********
「いよいよこの日が来たわね」
車の中で隣に座る母が珍しく上機嫌な様子であった。
幼いころから、母は華のような人である。
雪のように白い肌、椿油が香る漆黒の髪。
今なおその美しさは衰えない。
そして、その華奢さが、どこか儚げで、陰のある母の美しさを輪郭づけた。
窓ガラスに映る二人の影を見つめた。
上背のあるその影は、小柄な母のそれをほとんど覆い隠してしまう。
晶子は零れ落ちそうな溜息を慌てて抑え、母に尋ねた。
「お父様は、後からいらっしゃるのですか?」
母は少し間をおいて、静かに口を開いた。
「会社からお電話があったと伺っています」
母は晶子の方を向いた。
晶子はこういう時の母が少し苦手だった。
その白さ故か、その視線の鋭さ故か、血の通っていない蝋人形と向き合っているようであった。
「金剛寺家の本家は、皇室の筋の方でもいらっしゃいます。
今日の相手は、二十五歳の若さで陸軍の少尉となられた方です。粗相のないよう、よく気をつけなさい」
つやつやと光った爪先が、首筋に当てられているようであった。
物心ついた時から、そういう距離だった。
撫でられることもなければ、叩かれることもない。
直に触れたことのないその手の温もりにあこがれた日は、記憶の欠片に埋もれてしまった。
「分かりました」
晶子は軽く頭を下げ、帯にそっと手を当てた。




