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暁の太陽を抱いて  作者: 佳紘
絹の鎖
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絹の鎖①

平穏な日々は、音も無く崩れ去るものである。


教師による説教も、友人とのけだるい会話も、ミルクホールでの出会いも――。


振り返ってみれば、退屈な毎日を凌ぐためのちょっとしたお愉しみにすぎない。


五月ぶりに帰宅した父の書斎に呼び出された。


ドアをノックして扉を開けると、父が机の上に新聞を広げていた。


「ストライキなんてやっている暇があるならば、一銭でも多く稼げるよう働こうと思わないものだろうか。

こういう思想を持つ奴らと関わるとろくなことにならん」


憤る父を眺めながら椅子に座る母は、静かに微笑むばかりである。


「お父様、まいりました」


「あぁ、来たか。話がある、ここに座りなさい」


父は立ち上がり、母と対面にあるソファに腰を下ろした。


晶子が母の隣の椅子に腰かけるのを待たず、父が口を開いた。


「来週、鴎亭で見合いをする」


あとひと月もせず、女学校の卒業が迫っている。


順子の結婚が決まったと聞いて、そろそろ自分自身にも、見合いの話しが来るということを覚悟していたはずであった。


豪奢なビロードのふんわりとした座り心地も、その時ばかりは、まるで石の上に座らされているような感覚であった。


「金剛寺家の三男との縁談だ。軍部とも太い繋がりがある。

三男だから家督を継がせる必要もなく、婿養子でも構わないそうだ」


こんな時は、にっこり笑って、父に礼を言う。


そして、かつて見合い用にと母が仕立てた振袖を着るのが楽しみである、と言わなければならない。


しかし、冷えた手を思い切り握ることしか、彼女にはできなかった。


暖炉で燃え盛る火も、女中が用意した緑茶も、母の纏う芥子色の着物も、急激にその色を失っていく。


大きな窓から見える空に、一羽の鳥が羽ばたいていく。


この場から逃げ出してしまいたい。


そのまま、行方をくらますことができたらどんなにいいことか。


晶子は狼狽を隠せなかった。


「晶子?聞いているの?」


「……はい」


「突然のことで驚かせてしまいましたね。大丈夫ですよ、着物の用意も、先ほど女中には指示しました」


「あぁ、こないだ特注で購入した深紅の振袖か?あの赤の染まり具合は見事だ。

あの深さを出せる職人はそうそういない」


穏やかに笑う母の顔も、満足そうな父の顔も、視界が揺れて輪郭が定まらない。


「その、粗相をしてしまわないか、とても心配になりまして」


「晶子なら心配していない。……晶子が男だったらどんなに良かったことか。

喜一郎のような軟弱者がなぜ長男なのか……」


母の顔が、一瞬強張った。


久しぶりに耳にする、2年前に結婚した兄の名前。


晶子にとって、兄として優しく、多くのことを教えてくれる人であった。


もっとも、父は喜一郎には厳しかった。


跡取り息子への期待の裏返しなのだろう。


そして、婚約後に、兄は父の期待を大きく裏切った。


兄は、父母や妻に隠れて、カフェーの女給と逢瀬を重ねていたらしい。


その事実が父の知るところとなり、女給に二度と兄に近づかない代わりに、大金を支払い、初めから存在しなかったかのように始末した、と女中頭からこっそり聞いた。


晶子はその頃から、兄の姿を見ていない。


朝からブランデーやウィスキーをあおり、父の会社にも姿を現していないと聞く。


喜一郎が実際どこで生活しているのか、知る由もなかった。


「これではいつまでも後継者を育てられない。あれにどれだけのものを費やしたと思っている」


父が苛立ちを募らせると、母が応接間の壁際に設置された洋風箪笥へと急ぎ、マッチと葉巻を取り出した。


葉巻の紫煙が応接間を満たしていく。その香りは、息苦しい程重々しい。


「金剛寺家の息子を婿に向かえれば、我が家も安泰だな」


父が再び立ち上がり、机に広げた新聞の続きに目を通し始めた。


「……それでは、私は部屋に戻りますね」


晶子は軽く会釈をし、足早に部屋へと戻った。


暖かい応接間とは違い、廊下は外の寒さとさほど変わらず、吐く息は白い。


しかし、結んだ晶子の唇だけが、血が滲むような赤色に染まっていた。


『晶子が男だったら』


父の言葉が、何度も脳内に響き渡り、その度に心を抉っていく。


どんなに努力しても、賢くても、所詮女は、家のために子を産む道具でしかないのだ。


そう宣告されたようだった。




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