白百合の檻⑤
低く、どこか甘美な声が、インクと湿った紙の匂いに混じって聞こえてきた。
晶子は口に含んだモカを吹き出しそうになるのを、ナフキンで必死に抑えた。
声の主は、いつの間にか隣の席に座っていた、髪色の明るい若い男であった。
いつからそこにいたのか、気配に全く気が付かなかった。
男は、テーブルの上に肘をついて、にっこりと彼女の顔を覗き込んでいる。
「驚かせてしまってごめんなさい。
ですが、お嬢さんの意見に感動したので、つい声をかけてしまいました。
男子の無能を女子のせいにしている。僕も同感です。
『女子は揺り籠の代わりにペンを握る』。実に良い表現ですね。このまま拝借したいものです」
男は万年筆と手帳を取り出し、迷いのない速さで書き記し始めた。
「言葉選びのセンスが抜群ですね。お名前を聞いても?」
窓から差し込む光の反射か、不思議に明るく輝く髪と瞳の色に、晶子は思わず見とれそうになっていた。
同国人とは思えない。
いつかどこかで見かけた、米国や欧州の人たちの瞳の色によく似ている気がした。
吸い込まれそうな深い色にうっとりとしそうになった晶子は、自身の置かれた状況に我に返る。
「何ですか急に」
「失礼。こちらから名乗らずに、お名前をおたずねして失礼いたしました」
胸ポケットから名刺入れを取り出し、晶子の前に名刺を差し出した。
その瞬間、いつしか父からもらった欧米の土産物と似た、甘く重厚な香りが鼻先をくすぐった。
「……黎明新報の記者、月野英一と申します。
あなたには選んでいただけなかったですが、あそこに吊るされた新聞を発行している会社です」
よく見れば、その顔はよく整っており、長いまつげが瞳を覆う。
まるで女性のような甘い顔立ちに、晶子は思わず身構えた。
彼は、晶子の様子を一向に気にかける様子はなく、晶子の手の中に、名刺をねじ込む。
「お嬢さんのお名前は?」
思わず口を固く結ぶ。
言うわけにはいかない。
津島晶子―経済界であれば、「津島」一族の名前は常識として把握されている。
記事のネタを探し回る記者に本名を明らかにすれば、明日の我が身に保障はない。
沈黙を貫くことを決意したことを見抜いたのか、彼はそれ以上追求しなかった。
その代わりか――。
「スカーフを変えるだけでは、その鋭い知性を隠すことはできないですよ。
……誰に教えられたか、分かりませんが」
彼女は目を丸くして、彼を見つめた。
その男―、月野英一は、深々と頭を下げ、席を後にした。
後ろ姿だけでも、人より頭一つ抜き出ていることが分かる。
晶子はその後ろ姿から目をそらすことができなかった。
窓から差す夕日の光に、舞う埃がキラキラと輝く。
(……なんだろう、この感覚)
彼女はまだ知らない。
この時、何かが静かに動き出したことを。
(そういえば……さっきの月野という男の香り……誰かと同じ香りな気がする)
それが誰なのか思い出せないことに、妙な不安を覚えた。
**********
店を出ると、すぐに銀座の大通りに出た。
月野は帽子を目深に被り、胸ポケットから手帳を取り出す。
「……津島晶子……深窓の令嬢のはずだが……」
何かを書きつけると、手帳を閉じた。
黎明新報までは徒歩十分もかからない。
だが、片付けるべき仕事は山積みだった。
——それでも、追わなければならない。
雑踏には、似たような背中がいくつも流れている。
その中へ、月野は何事もなかったかのように紛れ込んでいった。




