白百合の檻④
「はぁ、……幸せ」
口いっぱいに広がる牛乳と砂糖の優しい甘さに、思わずため息がこぼれた。
「甘いもの食べている時の晶子、なんだか別人みたいになるよね」
晶子の表情に、順子の表情もつられてほぐれた。
「どういうこと?」
「なんだろう。角が取れるというか」
「えー、別に尖ってなんかないでしょ」
ふふ、と順子が笑いながら、シベリアの乗った皿を晶子の方に差し出す。
「今日、大変だったもんね。私のも少し上げるから」
「とてつもなく災難な1日だったよ」
様々な人間が交錯するミルクホール。
背広を着て新聞を広げるサラリーマン、煙草を吹かすモガ、雑誌を囲み何かを熱心に議論するモボたち。
二人にとって、ミルクホールにいる時だけは、誰の娘でもなくて良い気がした。
コーヒー豆をひいた香りに混じる、古い紙とインクの匂い。
学校と家で縮こまっていた背中が、コーヒーと甘味の味と共に広がっていく。
「しかし、晶子にはある意味感心するというか、勇気があるというか。
よくあの先生の授業で本を読めたものだよね」
「寝てしまうよりマシじゃない?」
「……うーん、どっちもどっちだと思うよ」
「あんなカビが生えかけた考えを寝ずに聞くのが1番の苦行だと思う」
「しーっ。誰が聞いているか分からないんだから」
順子が慌てて、晶子の口を手で押さえる。
「こないだ、学院に特高が来たっていう話は聞いてない?」
耳元で、順子がひそひそと囁いた。
「え、そうなの?」
「しかもね」
順子が更に声量を落とした。
耳を傾けても聞こえるか聞こえないか、それくらいの小さい声であった。
「藤澤先生が連れていかれたって噂だよ。晶子、気を付けた方が良いよ」
突然、手にしていたはずのシベリアが鉛のように重くなり、手が滑りそうになった。
「……でも。……でも、今も仕事しているってことは、大丈夫ってことでしょう」
「そうかもね。でも、隠れた『赤』かもしれないし、気を付けて損はないよ」
順子が自分を思って言ってくれていることはよくわかっている。
「……そっか。……心に留めておくね」
女子どもでも容赦しないと聞く特高だ。
もし本当に藤澤が『赤』であるとしたら、今頃学校に来ているわけがない。
(そもそも、特高が来ていたかどうかも分からないし。
……でも、もし、本当に隠れた『赤』だったとしたら?先生が反政府勢力に入っていたとしたら……)
もたれる背もたれが、突如鉄製のそれに代わったような感覚に襲われ、ぞくりとした冷ややかさが走った。
肋骨の奥から波打つ鼓動を沈めるべく、モカを一口飲み込んだ。
口に広がる苦みが、彼女を現実へと引き戻した。
「ところでさ」
順子はあまり気にする様子はなく、いつものようにさっそく次の話題に入ろうとしていた。
「卒業したら、すぐに結婚することになりそう」
「……え、結婚?」
「うん。ようやくお見合い相手が見つかって……お父様もお母さまも大喜びだよ。うちみたいな新興成金は、割と苦労するんだよねぇ」
「……卒業したら、すぐに結婚するの?」
「そうだね。向こうもそれを望んでいるみたいだし。
これを逃したら、うちみたいな家は、次の縁談がいつになるか分からないから。
晶子は……断っても引く手あまただろうね。羨ましいなぁ」
決して驚くべき話でもない。
女学校に入って、毎日「良妻賢母」としての教育を受けている身である。
卒業後すぐに結婚する女学生など、教室のあちらこちらにいる。
結婚をしない、子を成さない未来等、考えたことも無かった。
それでも、なぜか晶子にとって、はるか遠い未来のように思えていた。
「そんなことないよ。そもそも断るなんて、私ができることでもないし」
『良かったね、おめでとう、お見合い相手は誰なの?』
きっと順子は、そんな言葉を期待している。
簡単な言葉だ。
口にしてしまえば良い。
それでも、なぜか喉の奥に詰まってしまって出てこなかった。
絞りだしてようやく出てきたのは、
「お見合い、うまくいくといいね」
そんな当たり障りのない言葉だけであった。
「もちろん。とびっきり綺麗な振袖を用意してくれるって、お父様が約束してくれたから」
上機嫌な順子とは裏腹に、晶子は感じたことのない焦燥感に襲われた。
腹の底から湧き上がった冷たさが、全身に広がっていく。
順子が美しい振袖に手を通す姿を想像する。
それは――逃れようのない未来の自分の姿そのものであった。
「ちょっと私、お手洗いに行ってくるね」
目の前のモカはすでにもう冷めているのに、なぜか視界が白く濁る。
順子が席を立ち、空っぽになった空間は、晶子を内面の世界に勢いよく引きずり込んだ。
**********
女に生まれる意味とはなんだろう。
教え込まれてきた言葉が、頭の奥で形を成す。
自分を育てたわけではない舅姑や、滅多に帰ってこない夫によく仕えるとは、どういうことなのだろうか。
道徳の授業が嫌いな理由は、当然湧き上がってくるはずの質問が許されないからだ。
教師からも、友人からも。
晶子の頭の中に、今まで考えないようにしてきた疑問が渦を巻く。
(……好きで女に生まれたわけでもないのに)
ふと顔を上げると、壁面に幾本もの竹製の新聞ばさみに挟まれた新聞が並んでいた。
順子の噂話のせいか、『過激思想を一掃』『危険思想団体、解散声明』といった言葉がやけに目につく。
晶子は適当に目の前の新聞を一冊手に取った。
新聞の一面を読むと、巷をにぎわしてきた共産主義団体が、解散声明を発表したという内容であった。
次のページを広げると、ある記事のタイトルが目に飛び込んできた。
「『職業婦人の跋扈と国力の衰退―揺り籠を捨てる女の大罪』」
無意識のうちに、その記事を読み上げていた。
『最近、タイピストや電話交換手として働く『職業婦人』として、外に出る女子が増えている。
これは、男子の職を奪う不埒な行為である。
女子の社会進出は、婚期を逃し、少子化を招き、次世代の教育水準を低下させる。
女子の本分は『良妻賢母』であることを間違えてはいけない。
また、子女の保護という観点からも、社会進出は制限するべきである。……』
大理石のテーブルの上に広げた新聞記事を右手で丸めて持ち上げた。
そして、左手の人差し指で、晶子は何度もその記事を弾いた。
シベリアの最後の一口を頬張る。
その甘さが、今はひどく飽き飽きした、退屈な味そのものに感じられた。
「馬鹿馬鹿しい」
口から思わず飛び出た言葉の響きの強さに、晶子自身も怯みそうになった。
しかし、順子はいない。
今日の出来事全てが脳裏にかすめると、すべてを口に出さずにはいられなかった。
「職を奪われるのは、無能だからでしょう。
性別とかは関係ないじゃない。揺り籠の代わりにペンや本を握ることの何が悪いの!?」
晶子の口から、熱を帯びた呟きが零れ落ちた。
今日授業中に読んでいた本に書かれていた “Independence”という言葉が喉の奥で火を噴いている。
激昂と共に立ちあがった拍子で、椅子が激しい音を立てて倒れた。
その音が、ミルクホールの客たちの耳をつんざく。
店内の客たちの視線が、一気に晶子に集中する。
誰かの、品定めするような視線がべったりと背中に張り付いた。
(……まずい)
もし、白百合女学院の学生であることがばれれば、明日もまた、あの山本から説教は必至である。
その程度で済むのであれば良い。
万が一、ここに「特高」がいたら――壁につるされた新聞の『危険思想』と言う文字がチラついた。
晶子は、二度三度強く咳ばらいをして、スカートを直した。
椅子の上にまっすぐ腰かけ、新聞紙をたたみ、テーブルの上にそっと置く。
熱くなりすぎた頭と喉を沈めるために、コーヒーカップを口にしたその時であった。
「……その筆者、つい先日、妻と若い書生が逃げたばかりなんですよ」




