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暁の太陽を抱いて  作者: 佳紘
絹の鎖
9/9

絹の鎖④

「喜一郎とは、連絡はつかないの?」


いつもより、車の揺れが激しいように感じられた。


猛スピードで走る自動車の中、まもなく病院に着こうというところで、母が重い口を開いた。


「……はい。可能性のある場所を探させておりますが……」


父が生死の境をさまよっているというのに、跡取り息子だった兄は、今頃、どこの馬の骨とも知れぬ女の膝の上で、ブランデーやウィスキーに溺れているのだろうか。


母の顔に一気に血が上り、よく整えられていたはずの髪が、逆立つように見えた。


「……お母さま、私がそばにいます」


晶子が母の手の上に手を重ねた。


「……」


珍しく握り返す母の手のひらは、冷たい汗で、しっとりと濡れていた。




**********




そびえたつ赤レンガの前に自動車が急停止した。建物の重厚な玄関扉をくぐると、咽る程の消毒液の冷たく強い匂いが、肺の端まで凍り付かせる。


(これが、クレゾール……)


クレゾールの匂いは、料亭で焚かれていた白檀や香物の香りを一瞬で上書きした。


不自然なほど磨きあげられ、黒光りする板張りの床に、最高級の絹が擦れる音が場違いに響く。


案内された部屋に駆け込む。


暖炉とソファ、鉄パイプでできたベッドと、そこに横たわる父の姿が視界に飛び込んできた。


その顔と腕の白さは、まるで蝋細工のようで、父の命の灯が消えかけていることを、晶子は直観した。


父の頬には、乾いたどす黒い血痕が転々と残っている。


晶子の隣で、母が息を飲み込み、数歩後ずさりしていた。


二人に続き、仲人夫婦も駆け込んできた。


「……弦一郎さん……」


普段の父を知っている人であれば、言葉を失うだろう。


別人ではないか、と何度も見直したが、いつの間にか背後にいた医師の冷淡な言葉に、これが現実であることを突き付けられた。


「津島弦一郎さんのご家族ですね。手短に説明します。」


医師が手にするカルテに視線を落とす。


「何者かに刃物で腹部を刺されたようです。止血して一命を取り留めていますが、このままでは時間を稼いでいるに過ぎません。救命するためには、どなたかから血をご提供いただきたい。できれば、血縁者でお願いしたい」


「……血を、提供する?」


母が怪訝そうにつぶやいた。


「そうです。最近始まった治療法ですが、『輸血』と言います。血液型や、相性を調べますが、問題なければ、管を通して、血液を患者の体内に一定量移します。血縁者、特に親子やきょうだいであれば、なお良いです。健康な方であれば、400ミリリットル程度供血していただくことになります」


『輸血』という未知の概念に、足元がすくむ。


月のものですら、そんな量はないはずだ。


そこまで血を抜いてしまい、自分の生命は本当に大丈夫なのだろうか。


一体どこからそんな大量の血を抜くのか。


様々な疑問が次から次に浮かび上がる。


しかし、それらの解を導き出すためのこの1秒が、惜しい状況だ。


晶子は決意したように、顔を上げた。


「私は父の娘です。この中で最も父と血が近いはずです。私は若いし、健康です。私が血を提供すれば、父は助かるんですよね?」


死の淵にいる父を、ただ手をこまねいて見ていることは、晶子にできなかった。


血をどれだけ分け与えればいいのか、どうやって血を提供するのか、身体は回復するのか――未知の技術への恐怖心は否定できない。それでも、父を助けたいという気持ちのほうが勝った。


しかし、次の瞬間、晶子は自身の耳を疑った。


「許しません!」


静かな病室内に、女性の声が響き渡る。


振り向くと、母が鬼気迫る形相で、晶子を睨みつけていた。


普段、怒ることも無ければ、声を荒げることも無い。


娘である晶子ですらも、母の激情にかられた言動を目の当たりにしたのは、これが初めてであった。


「……でも、このままではお父様が」


「なりません!あなたはこれから金剛寺との縁談を進めていく身です。その身体に、万に一つでも傷をつけることは許しません。お産でもないのに、人前で肌を晒すのですか?!その振袖が血で穢れたら、あなたはもう人様に見せられるものではなくなってしまう」


母の目は、父を捉えていなかった。


無機質なこの部屋に不釣り合いな振袖の袂の刺繍を、母が万力の握力で握りつぶす。


「でも!今はそんなことを言っている場合では」


「口ごたえをするのですか!お見合いでも殿方に盾突いて、この娘は本当に……!」


母が勢いよく右手を振り上げた。


晶子が反射的に目を瞑ると、仲人夫婦の夫が慌てて母の右腕を掴んだ。


「私が血液を提供します!津島の血は私にも流れています。先生、いとこなら大丈夫ですよね?ね?」


気品溢れる女性が髪を振り乱して怒鳴り散らす様子に、医師は呆気に取られていたのか、答えるのに間があった。


「あ……はい、いとこでも適合することはあります。では、検査を急ぎましょう」


我に返った医師と看護婦が、仲人を別室へと案内した。


バタバタと慌ただしい足音が遠ざかると共に、病室に再び冷たい静寂が戻る。


父の消えてしまいそうな呼吸音だけが、聞こえていた。


横に立つ母の目は血走り、どこも捉えていないように虚ろであった。


小さな身体が肩で息をするその様子は、青白い父のそれと重なった。


母は崩れ落ちるようにソファに座り込み、晶子の振袖の皴を伸ばすように、袂を、何度も撫で続けていた。



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