絹の鎖④
「喜一郎とは、連絡はつかないの?」
いつもより、車の揺れが激しいように感じられた。
猛スピードで走る自動車の中、まもなく病院に着こうというところで、母が重い口を開いた。
「……はい。可能性のある場所を探させておりますが……」
父が生死の境をさまよっているというのに、跡取り息子だった兄は、今頃、どこの馬の骨とも知れぬ女の膝の上で、ブランデーやウィスキーに溺れているのだろうか。
母の顔に一気に血が上り、よく整えられていたはずの髪が、逆立つように見えた。
「……お母さま、私がそばにいます」
晶子が母の手の上に手を重ねた。
「……」
珍しく握り返す母の手のひらは、冷たい汗で、しっとりと濡れていた。
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そびえたつ赤レンガの前に自動車が急停止した。建物の重厚な玄関扉をくぐると、咽る程の消毒液の冷たく強い匂いが、肺の端まで凍り付かせる。
(これが、クレゾール……)
クレゾールの匂いは、料亭で焚かれていた白檀や香物の香りを一瞬で上書きした。
不自然なほど磨きあげられ、黒光りする板張りの床に、最高級の絹が擦れる音が場違いに響く。
案内された部屋に駆け込む。
暖炉とソファ、鉄パイプでできたベッドと、そこに横たわる父の姿が視界に飛び込んできた。
その顔と腕の白さは、まるで蝋細工のようで、父の命の灯が消えかけていることを、晶子は直観した。
父の頬には、乾いたどす黒い血痕が転々と残っている。
晶子の隣で、母が息を飲み込み、数歩後ずさりしていた。
二人に続き、仲人夫婦も駆け込んできた。
「……弦一郎さん……」
普段の父を知っている人であれば、言葉を失うだろう。
別人ではないか、と何度も見直したが、いつの間にか背後にいた医師の冷淡な言葉に、これが現実であることを突き付けられた。
「津島弦一郎さんのご家族ですね。手短に説明します。」
医師が手にするカルテに視線を落とす。
「何者かに刃物で腹部を刺されたようです。止血して一命を取り留めていますが、このままでは時間を稼いでいるに過ぎません。救命するためには、どなたかから血をご提供いただきたい。できれば、血縁者でお願いしたい」
「……血を、提供する?」
母が怪訝そうにつぶやいた。
「そうです。最近始まった治療法ですが、『輸血』と言います。血液型や、相性を調べますが、問題なければ、管を通して、血液を患者の体内に一定量移します。血縁者、特に親子やきょうだいであれば、なお良いです。健康な方であれば、400ミリリットル程度供血していただくことになります」
『輸血』という未知の概念に、足元がすくむ。
月のものですら、そんな量はないはずだ。
そこまで血を抜いてしまい、自分の生命は本当に大丈夫なのだろうか。
一体どこからそんな大量の血を抜くのか。
様々な疑問が次から次に浮かび上がる。
しかし、それらの解を導き出すためのこの1秒が、惜しい状況だ。
晶子は決意したように、顔を上げた。
「私は父の娘です。この中で最も父と血が近いはずです。私は若いし、健康です。私が血を提供すれば、父は助かるんですよね?」
死の淵にいる父を、ただ手をこまねいて見ていることは、晶子にできなかった。
血をどれだけ分け与えればいいのか、どうやって血を提供するのか、身体は回復するのか――未知の技術への恐怖心は否定できない。それでも、父を助けたいという気持ちのほうが勝った。
しかし、次の瞬間、晶子は自身の耳を疑った。
「許しません!」
静かな病室内に、女性の声が響き渡る。
振り向くと、母が鬼気迫る形相で、晶子を睨みつけていた。
普段、怒ることも無ければ、声を荒げることも無い。
娘である晶子ですらも、母の激情にかられた言動を目の当たりにしたのは、これが初めてであった。
「……でも、このままではお父様が」
「なりません!あなたはこれから金剛寺との縁談を進めていく身です。その身体に、万に一つでも傷をつけることは許しません。お産でもないのに、人前で肌を晒すのですか?!その振袖が血で穢れたら、あなたはもう人様に見せられるものではなくなってしまう」
母の目は、父を捉えていなかった。
無機質なこの部屋に不釣り合いな振袖の袂の刺繍を、母が万力の握力で握りつぶす。
「でも!今はそんなことを言っている場合では」
「口ごたえをするのですか!お見合いでも殿方に盾突いて、この娘は本当に……!」
母が勢いよく右手を振り上げた。
晶子が反射的に目を瞑ると、仲人夫婦の夫が慌てて母の右腕を掴んだ。
「私が血液を提供します!津島の血は私にも流れています。先生、いとこなら大丈夫ですよね?ね?」
気品溢れる女性が髪を振り乱して怒鳴り散らす様子に、医師は呆気に取られていたのか、答えるのに間があった。
「あ……はい、いとこでも適合することはあります。では、検査を急ぎましょう」
我に返った医師と看護婦が、仲人を別室へと案内した。
バタバタと慌ただしい足音が遠ざかると共に、病室に再び冷たい静寂が戻る。
父の消えてしまいそうな呼吸音だけが、聞こえていた。
横に立つ母の目は血走り、どこも捉えていないように虚ろであった。
小さな身体が肩で息をするその様子は、青白い父のそれと重なった。
母は崩れ落ちるようにソファに座り込み、晶子の振袖の皴を伸ばすように、袂を、何度も撫で続けていた。




