第96話 大人の協力者
味方が増える時は、安心より先に穴が増える。
翌朝、職員室前の廊下はいつもより少しだけ騒がしかった。
来週の予定変更。
文化祭後の処理。
中層実習の準備。
教師たちがそれぞれの忙しさで動いている。
「水城、会計プリント」
担任が片手で紙束を差し出す。
「また俺ですか」
「断る熱量が低いからな、お前」
「褒めてないですよね」
「褒めてない」
周囲が小さく笑う。
そのまま紙束を持って廊下へ出る。
職員室前を通りかかると、真壁がいた。
他の教師に何か言われている。
表情は変わらない。
だが、答える言葉が少しだけ硬い。
「閲覧権限の確認です」
「実習準備に必要だったので」
玲司は足を止めない。
通り過ぎるだけだ。
真壁もこちらを見ない。
ただ、その横をすれ違う瞬間だけ、低い声が落ちる。
「今夜は動くな」
それだけ。
他の誰にも聞こえないくらい小さい。
でも十分だった。
教室へ戻ると、ユラが前の席の女子に大げさに言っていた。
「えー、中層実習ってほんとにやるの? だるくない?」
「しかも準備、もう始まってるっぽいよ」
「朝比奈、そういう情報どこから拾うの」
「空気」
「便利すぎるだろ、その空気」
笑いが起きる。
玲司は席に着いたまま、黒板横の予定表を見る。
まだ正式告知はない。
でも、水面下では動いている。
昼休み、図書室の返却棚でミオが小さく言った。
「真壁先生の権限、昨日の夜から三回使われてます」
「実習運営室か」
「はい。それと、旧備品管理」
玲司は受け取った本を開くふりでメモを見る。
管理番号の列。
昨日の封印報告書の所在メモと、ちゃんと繋がっていた。
「見返してる側は」
「増えてます」
ミオは言う。
「教師権限の確認だけじゃなくて、実習準備室の出入りも」
「誰かが真壁先生の動きを追ってます」
「早いな」
「大人が一人動くと、痕が大きいので」
そこへ、返却台の端でカナデが静かに本を置いた。
学校では偶然を装う距離だ。
でも声の落とし方だけで分かる。
「昼休みのあと、準備室」
「短く済ませるわ」
それだけ言って去る。
完璧に他人の顔だった。
放課後、準備室に集まると、レナが最初に言った。
「教師の協力者って、便利だけど面倒だな」
「そうね」
カナデが端末を開く。
「今朝から真壁先生の権限照会が増えている」
「資料を動かしたというより、“何を見たか”の確認が始まってる」
ユラが机に肘をつく。
「つまり、先生が半歩こっち来ただけで、向こうも半歩寄ってきたってことか」
「そういうこと」
玲司は短く答えた。
「真壁宗一郎は使える」
「でも使った瞬間に、向こうにも波紋が行く」
「完全に味方、って感じじゃないしね」
ユラが言う。
「最初からそのつもりで見てない」
玲司は答えた。
「協力者だ。仲間じゃない」
「そこは大事ね」
カナデが言う。
「教師一人を組織側へ寄せると、学園全体の監視密度が変わる」
「しかも今回は中層実習の準備と重なってる」
レナが低く唸る。
「厄介な時期に来たな」
「でも、来たのは今だからです」
ミオが静かに言った。
「実習準備が動いてる時しか、先生も流せるものがないので」
それはその通りだった。
事故が近いから、大人も動かざるを得ない。
逆に言えば、近いからこそ危ない。
玲司は机上のメモを見た。
ルート図の差分。
旧備品管理の番号。
封印報告書の所在。
そこへ真壁の今朝の一言が重なる。
今夜は動くな。
止める理由は一つじゃない。
見られているから。
教師側の権限確認が始まったから。
そしてたぶん、向こうも中層実習前に資料の整理を始めている。
「今夜は止める」
玲司が言うと、ユラが眉を上げる。
「素直だね」
「向こうが見てる時に動く意味が薄い」
「今は資料より、動いた人間の方を見る」
カナデが頷いた。
「賛成よ」
「真壁先生を使うなら、まず彼を消されない位置に置くべき」
「守るの?」
レナが聞く。
「守るというより、潰される前に価値を使い切る」
玲司は答えた。
「でも結果的には、それが一番守る形になる」
ユラが小さく笑う。
「相変わらず言い方だけ冷たい」
「冷たくしないと回らない」
「はいはい」
軽口。
でも中身は同じ場所を向いている。
TRACEは初めて学園内に大人の協力者を得た。
それは確かだ。
同時に、初めて“教師がこちらへ寄った”という事実そのものを管理しなければならなくなった。
味方が増えた。
でも穴も増えた。
その時、ミオの端末がまた小さく震えた。
「来ました」
「何だ」
「中層実習」
ミオが画面を見たまま言う。
「正式告知の下書きが、今、掲示系サーバに入りました」
準備室が静まる。
ユラが息を吐く。
「早いなあ」
「今日中に来ると思ってた」
玲司は言う。
カナデが短く問う。
「ルートは?」
「昨日の控えからまた少し変わってます」
ミオが答える。
「でも、危ない場所は変わってません」
「むしろ、待機列だけがきれいに寄せられてます」
レナが低く言う。
「ほんとにやる気だな」
玲司は端末の淡い光を見たまま、思う。
図書館の閉鎖区画。
職員棟側の記録庫。
真壁宗一郎という教師。
全部は繋がった。
でも終わってはいない。
過去の事故を隠してきた大人が、今の事故準備の下にもまだいる。
その中で、一人だけ半歩こちらへ寄った。
だからこそ、もう次へ進まないといけない。
明日、正式告知が出る。
中層実習が始まる。
そしてたぶん今回も、誰かは事故を利用するつもりでいる。
玲司は静かに言った。
「ようやく盤面が揃ったな」
次は、読むだけじゃ足りない。
守る準備を始める番だった。




