第95話 流せる資料、流せない資料
全部を渡せる人間は、たいてい全部を失う覚悟があるか、最初から何も守っていないかのどちらかだ。
真壁宗一郎は、そのどちらでもなかった。
夜、準備室に集まると、机の上に封筒の中身が並んだ。
ルート図の控え。
旧備品管理の番号表。
封印報告書の所在メモ。
紙は少ない。
だが、少ない方がむしろ現実的だった。
ユラが最初に言う。
「うわ、ほんとに教師ルート来たんだ」
「来た、で済ませるな」
カナデが紙を揃えながら言う。
「問題は、中身と癖の方よ」
ミオは端末を開いたまま、紙の番号を見ている。
「番号は本物です」
「少なくとも、昨日見た棚番号の続きと繋がってます」
「職員棟側の記録庫に入る手前までは、間違ってません」
レナが腕を組む。
「手前まで、ってのが気持ち悪いな」
「わざとでしょうね」
カナデが答えた。
「中の原本そのものは渡せない」
「そこを越えると、真壁先生の痕が濃くなりすぎる」
玲司は机上のルート図を見た。
中層実習用の仮配置。
まだ正式告知前の控えだ。
待機列。資材置場。教員立会いの位置。
そして一箇所だけ、違和感がある。
「この補助導線」
ユラが覗き込む。
「何?」
「狭い」
玲司は指先を置いた。
「中層実習でこの幅にする理由が薄い」
「待機列を寄せすぎてる」
「しかも資材箱も近いですね」
ミオが小さく言う。
「崩れた時、流れが詰まりやすいです」
レナが低く舌打ちする。
「またそれかよ」
また。
その一言で十分だった。
過去の事故図。崩落前配置。導線の狭め方。
図書館で見た古い記録と、今の紙が似すぎている。
カナデが封印報告書の所在メモへ視線を落とす。
「こっちはもっと厄介ね」
「原本の場所は示してある。でも“触るな”も一緒に書いてある」
ユラが紙をひらりと持ち上げる。
「流せる資料、流せない資料ってやつか」
「ええ」
カナデは頷いた。
「ルート図の控えや所在メモは流せる。でも、原本や承認印つきの資料は流せない」
「抜けば真壁先生が終わるし、こっちも記録ごと焼かれる」
「じゃあ結局、使えないのもある」
レナの言い方はぶっきらぼうだが正しい。
玲司はそこで、真壁の言葉をそのまま伝えた。
「正しさだけじゃ足りない」
「大人は、渡したいものじゃなく、渡してもまだ残れるものを選ぶ」
ユラが口を尖らせる。
「分かるけど、やだなあ、その現実」
「私も好きじゃないわ」
カナデが平坦に言う。
「でも、だから真壁先生は現実的なの」
「全部をくれる教師より、線を引く教師の方が信じやすい」
ミオが静かに補足する。
「アクセス権のある人ほど、動かせない資料があります」
「閲覧しただけで残るものと、所在が消えた瞬間に騒がれるものは別です」
玲司はうなずいた。
「だから今使うのは、原本じゃない」
「位置と流れだ」
「場所と、どう隠してるか、ね」
ユラが言う。
「そうだ」
玲司は答える。
「原本を奪うのはまだ早い」
「でも、どこに何があり、どういう順で動くかが分かれば、次の事故の前に先回りできる」
レナがルート図の端を指で叩いた。
「で、この実習配置」
「事故起こせる形になってる」
「なってる」
玲司は短く言う。
「まだ断定はしないが、作れる」
準備室が少し静かになる。
救える資料と、救えない資料。
流せる線と、流した瞬間に潰れる線。
それが大人の現実だと真壁は言った。
たしかに嫌だった。
だが、嫌だから切るには惜しい。
この教師が持ってきたのは、感情じゃなく使える位置情報だ。
「真壁先生、他には何て?」
カナデが聞く。
「今夜は動くな」
玲司は答えた。
「昨夜の痕を嗅いだ人間が増えたらしい」
ミオが端末を見たまま言う。
「たぶん本当です」
「今日、職員棟側の閲覧権限チェックが二回増えてます」
「資料そのものじゃなく、誰が見たかを見返してる感じです」
「うわ、嫌な学校」
ユラが言う。
「今さらだろ」
レナが返す。
その軽いやり取りの下で、玲司は真壁をどう扱うかを考えていた。
教師。
協力者候補。
過去の事故を知っていて、止められず、今は半歩だけこちらへ寄ってきた大人。
全部は信用しない。
でも切る理由もない。
「使う」
玲司が言う。
全員の視線が向く。
「真壁宗一郎は使う」
「ただし、こちらの中身は渡さない」
「一方通行に近い情報路として扱う」
「向こうが流せるものだけ流してもらう」
カナデがうなずく。
「妥当ね」
「協力者であって、まだ仲間ではない」
「そこ大事」
ユラが言う。
「大人って、立場ごと動く時あるし」
「先生もそう思ってるでしょうね」
ミオが小さく付け足す。
「だから全部をくれないので」
玲司は最後にルート図を見た。
待機列。
資材箱。
補助導線。
立会い位置。
紙一枚で十分だった。
事故が起こるかどうかじゃない。
起こせる配置がもう組まれ始めている。
その時、準備室の端末が小さく震えた。
ミオが目を落とす。
「……告知前の資料、更新されました」
「何が変わった」
「日程は同じです」
ミオは言う。
「でも、ルートの一部が今日の控えと違います」
「誰かが、今も調整してます」
玲司はルート図から顔を上げた。
流せる資料、流せない資料。
その線を真壁が引いたなら、向こう側ももう動いている。
つまり次は、資料を受け取って終わりじゃない。
資料が動いた、その速さごと追わなければならない。
玲司は低く言った。
「ようやく追いついたな」
事故の記録じゃない。
事故の準備の方へ。




