第94話 黙認する大人
黙っていた大人は、だいたい二種類に分かれる。
何も知らなかった大人と。
知っていて、何もしなかった大人だ。
放課後の旧視聴覚準備室は、使われていない機材の匂いがした。
古いプロジェクター。巻いたままのスクリーン。段ボール箱。
職員棟の端にあるのに、ここだけ時間が少し遅い。
玲司が入ると、真壁は窓際に立っていた。
照明は半分だけ。
外から見れば、残業している教師にしか見えない。
「来たか」
「行く価値があるか確かめに来ただけです」
「そういう言い方をするなら、少なくとも無警戒ではないね」
真壁は椅子を勧めなかった。
玲司も座らない。
立ったままの方が、この手の話には都合がいい。
「先に言っておく」
真壁が低く言う。
「私は君たちを咎めるために呼んだわけじゃない」
君たち。
そこで、玲司の目がわずかに細くなる。
「やっぱり一人だと思ってないんですね」
「思っていない」
真壁は否定しない。
「だが、誰と動いているかを聞く気もない」
「知る必要がないからだ」
「ずいぶん都合がいい」
「都合で動ける範囲を残さないと、大人は何もできない」
玲司は黙った。
真壁はその沈黙を急かさない。
「君が見た記録は本物だ」
「図書館の閉鎖区画にあった事故報告も、事故後検証も」
「公開版より死傷者数が多く、外部協力先の名前が消える前のものだ」
やはり知っている。
しかも中身まで。
「先生は、あれを知ってて放置してたんですか」
玲司が言うと、真壁は少しだけ視線を落とした。
「放置、か」
「正しい言葉だ」
否定しなかった。
そのこと自体が、妙に重い。
「私はあの頃、今より若かった」
「実習事故が起きても、“現場はそういうものだ”と言われれば、それ以上押せなかった」
「押し切るだけの立場も、覚悟も足りなかった」
「それで、生徒が死んだ」
「死んだ」
真壁の声は変わらない。
変わらないまま、その一語だけが硬い。
「報告書の数字が変わるところも見た」
「外部協力先の名前が消えるところも見た」
「学園内の説明文が、被害を小さく見せる言葉へ揃えられていくところも見た」
玲司は息を浅くした。
見ていた。
止められなかった。
そしてまだここにいる。
「じゃあ先生も同じ側だ」
「そうだ」
真壁は言う。
「少なくとも、あの時は」
その答えが予想より真っ直ぐで、玲司は一瞬だけ言葉を失った。
言い訳をしない。
善人ぶらない。
だから余計に、簡単には切れない。
「……だったら今さら何ですか」
真壁は窓の外を見た。
部活終わりの生徒が少しずつ減っていく。
夕方の学校は、何も知らないまま静かだ。
「あの記録を見たなら、君たちはもう後戻りできない」
「そして職員棟側へ入れば、今度は見つかる」
「だから、その前に線を引きに来た」
「線?」
「流せるものと、流せないものの線だ」
玲司は真壁を見る。
「全部は渡せない」
「渡せば、私が終わるだけじゃ済まない」
「資料そのものが消える」
真壁は言う。
「だが、何も渡さなければ、また同じことが起きる」
その言い方には、未来を知っている響きはない。
ただ、過去を繰り返す学校を見てきた人間の諦めと嫌悪が混ざっていた。
「次の中層実習」
真壁が続ける。
「もう準備が始まっている」
「君も気づいているだろう」
玲司は否定しなかった。
「配置変更が早い」
「権限の動きも急だ」
「まだ正式告知前なのに、水面下の資料だけ先に動いてる」
「やっぱり見てるな、君は」
「先生ほどじゃない」
真壁は小さく息を吐く。
笑ったわけではない。
だが、少しだけ硬さが緩んだ。
「私は味方ではない」
「そう思ってくれて構わない」
「ただ、黙認する側のままでいるのは、もう終わりにしたい」
玲司はそこで初めて、真壁の手元を見た。
薄い封筒が一つある。
何も書かれていない、学内で使うありふれた封筒だ。
「……中に何がある」
「今渡せるものの一部だ」
「実習ルート図の控え。封印報告書の所在。旧備品管理側へ繋がる番号」
「原本ではない。原本は動かせない」
「どうしてそこまで」
「次に事故が起きた時」
真壁の声が低くなる。
「私はもう、“知らなかった”側へは戻れないからだ」
準備室の空気が少しだけ重くなる。
玲司は封筒を見たまま、まだ手を伸ばさない。
教師。
大人。
協力者候補。
それは今までTRACEにいなかった種類の駒だった。
同時に、一番信用してはいけない種類でもある。
真壁は玲司の迷いを見て、急かさなかった。
「今日ここで決めなくていい」
「ただ一つだけ覚えておきなさい、水城くん」
「学校の中で正しいことをしたいなら、正しさだけでは足りない」
玲司の目が少しだけ細くなる。
「大人の現実ってやつですか」
「そうだ」
真壁は言った。
「嫌になるほど、な」
玲司はようやく封筒を受け取った。
軽い。
だが、その軽さの中身が重いのは分かる。
「先生」
「何だ」
「今の話、カナデ……いや、他の誰かに知られて困りますか」
真壁は一拍だけ考えた。
「人数より、漏れ方の方が困る」
「君が管理できる範囲なら好きにしろ」
「ただし、今夜、職員棟側へは入るな」
「理由は」
「見ている目が増えた」
真壁ははっきり言った。
「昨夜の痕を嗅いだ人間がいる」
玲司は封筒を握ったまま、扉へ向かう。
黙認する大人。
その言い方は、まだ正しい。
だが少なくとも、この教師は黙る側から半歩だけ外へ出てきていた。
そして半歩だけ外へ出た大人は、たいてい誰かに見られる。
扉を開ける前、真壁が最後に言った。
「味方だとは思うな」
「だが、敵だけでもない」
玲司は振り返らずに答える。
「最初からそう見てます」
そのまま廊下へ出た。
封筒は薄い。
でも、その中にはたぶん、次の事故へ繋がる線が入っている。
そして同時に。
真壁宗一郎という教師が、もう安全な位置にはいないことも。




