第90話 鍵の向こうの報告書
古い鍵ほど、開けたあとに油断が出る。
閉館後の図書室は、昼より音が大きい。
空調の低い唸り。蛍光灯のかすかな震え。
紙が沈黙しているせいで、小さな金属音までよく響く。
ミオが返却棚の裏にしゃがみ込んだ。
板戸の脇、埃の切れ方を指先で確かめる。
「最近、開いてます」
「やっぱりな」
玲司は錠前を見た。
新しい鍵じゃない。
でも使われていない錠前特有の固着が薄い。
誰かが定期的に回している。
カナデが小さく言う。
「教師側の管理鍵か、生徒会側の予備か、どちらかでしょうね」
「今は当てなくていい」
玲司は答えた。
「開ける」
ミオが細い工具を差し込む。
司書の後輩が持つには似合わない手つきだ。
だが無駄がない。
「先輩」
「何だ」
「音、少しだけ消します」
薄く霧が流れるみたいに、周囲の音が遠のいた。
《静界霧》。
大げさに見せないのが、この人のやり方だった。
小さな金属音。
それだけで錠が落ちる。
板戸を開けると、奥は人一人がかがんで通れる程度の細い通路だった。
本来は資料搬送用。
今は塞がれていることになっている穴。
「ほんとに通れるんだな」
レナが低く言う。
「確認印がない閉鎖なんて、こんなものです」
ミオが先に入る。
玲司が続き、カナデ、ユラ、最後にレナが入って板戸を戻した。
通路の先は、地下というより半地下に近かった。
湿気は少ない。
その代わり紙の匂いが濃い。
保管するためにだけ残された空間だ。
旧式の移動棚。
手書きの分類札。
廃棄済み扱いの箱。
そして一番奥、鍵付きの書架。
「閉じられた書架って、こっちか」
ユラが囁く。
「ええ」
カナデが答える。
「しかも見て。棚番号、上だけ新しい」
玲司も近づいた。
確かに表のラベルは最近の形式だ。
だが脇の剥がれた部分に、古い保管コードが残っている。
事故報告。
実習記録。
外部協力報告。
表に出さないなら、ちょうどいい並びだった。
「鍵」
玲司が言うと、ミオは首を振った。
「こっちは別です」
「たぶん、開けるより先に“何回開いてるか”を見た方がいい」
玲司は頷き、書架の取っ手と足元を見る。
滑り跡。
埃の切れ方。
右側だけ摩耗が新しい。
片側の棚ばかりが動いている。
「一番右だけ使われてる」
「しかも最近」
「定期閲覧、ね」
カナデの声は低い。
「隠したまま、必要な時だけ取り出してる」
レナが周囲を警戒したまま聞く。
「壊すか?」
「だめ」
ミオが先に言った。
「棚の歪みで分かります」
「じゃあどうするの、司書さん」
ユラが小声で茶化すと、ミオはほんの少しだけ考えてから、棚の下へ手を伸ばした。
「あ」
「何だ」
「鍵じゃなくて、解除棒です」
「昔の可動棚なので」
小さな金属棒を差し込み、押し上げる。
棚が、息をひそめるみたいに少しだけ動いた。
開いた隙間の奥に、灰色のファイルが並んでいた。
玲司は最初の一冊を引き抜く。
表紙の文字は薄い。
蒼栄学院 中層実習事故報告。
年度は今から数年前。
公開版と違う。
紙をめくった瞬間、玲司の目が止まった。
「死傷者数が違う」
ユラが覗き込む。
「え」
「公開記録は重傷二、軽傷多数で処理されてる」
玲司はページを押さえた。
「こっちは死亡一、重傷五だ」
そのまま現場概要へ視線が落ちる。
待機列の先頭にいた二年女子一名、頭部挫滅により死亡。
搬送遅延七分。
二次落下物あり。
応急処置開始まで三分遅れ。
数字だけで済ませた文面のはずなのに、七分という時間だけが妙に生々しかった。
七分あれば助けられたかもしれない。
その可能性ごと、公開版では消している。
ミオが静かに言う。
「廃棄済み扱いにした理由、それだけで十分です」
次のページ。
現場見取り図。
崩落点。
救助遅延。
外部立会いの欄。
そこでカナデが指を止めた。
「これ」
「何だ」
「外部協力先」
カナデの声がさらに低くなる。
「黒峰関連会社名が、修正前のまま残ってる」
公開版では消されていた名前だ。
いや、公開版には最初からなかったことになっていた名前。
レナが吐き捨てる。
「昔からかよ」
「まだ一件目だ」
玲司は言った。
だがもう分かり始めている。
これは単発じゃない。
次の箱を開く。
また事故報告。
また実習。
また外部協力。
また救助遅延。
そしてまた、数字の書き換え。
「同じだね」
ユラが今度は笑わなかった。
「毎回、“ちょっとした事故”って顔して埋めてる」
玲司は紙の端を見た。
修正液。
差し替えたページ。
綴じ穴のズレ。
痕跡は残っている。
記録は消しても、消した手つきまでは揃えられない。
「先輩」
ミオが一番奥を見たまま言う。
「こっち、もっと古いです」
そこにあったのは、さらに古い背表紙。
紙色が違う。
保管箱の材質も違う。
玲司が引き抜く。
事故報告書ではなく、事故後検証資料。
しかも内々向け。閲覧制限付き。
「鍵の向こうにあるだけはあるな」
レナが低く言う。
玲司は最初のページを開いた。
そこには、現在の学園が使っている文面よりずっと露骨な言葉が並んでいた。
隠蔽。ではない。
表記はもっと柔らかい。
だが意味は同じだ。
被害の局所化。
対外説明の調整。
外部協力先との表現統一。
「表現が古いだけで、やってることは同じだ」
玲司が言う。
カナデが別のページをめくり、止まった。
「玲司」
「何だ」
「これ、見て」
差し出された紙の下段。
署名欄。
外部確認者の欄に、今も黒峰と繋がる関連会社名。
そして学園側の承認印。
学園と黒峰。
今だけじゃない。
前からだ。
その時、通路の向こうで、かすかに金属が鳴った。
誰かが。
外側の板戸に触れた音だった。




