第89話 閉じられた書架
閉じられている場所ほど、完全には閉じていないことがある。
昼休みの図書室は静かだった。
文化祭が終わったあとの空気がまだ少し残っていて、返却棚の端には借りっぱなしだった雑誌が山になっている。
「神谷さん、この台車、奥に戻しておいて」
司書担当の教師がそう言って去っていく。
ミオは小さく「はい」と返し、古い鉄の台車を押した。
図書室の奥。
普段は使わない書架の並び。
新しい本の匂いじゃない。紙が乾いて、長く眠っていた匂いがする場所だ。
台車の車輪が、途中で小さく止まった。
床の継ぎ目。
そこだけ薄く沈みが違う。
ミオは視線を落としたまま、何もなかった顔で台車を押し直す。
ただの段差には見えない。
しかもその脇の書架は、分類ラベルが途中だけ欠けていた。
古い番号の上から、新しい番号を貼ってごまかした跡がある。
昼の図書室で顔を上げるのは危険だ。
だからミオは何も見ていない後輩の顔で仕事を続けた。
返却棚を戻しながら、指先だけで棚の端をなぞる。
埃の切れ方が一箇所だけ薄い。
壁だと思われている板の脇に、わずかな擦れが残っていた。
使われていない場所の擦れじゃない。
その時、司書担当の教師が奥まで来た。
台車の上の雑誌を二冊抜き、欠けた分類ラベルの前を何も気にせず通り過ぎる。
棚の沈みも、板戸の擦れも、日常の風景として見落としている足取りだった。
気づいていない人の場所ほど、別の誰かが使いやすい。
ミオは何も気づいていない顔のまま、台車を押して戻る。
司書担当の教師は端末で貸出数を見ているだけで、奥の書架には目を向けない。
本当に知らないのか、知っていて見ないのかはまだ分からない。
でも、少なくとも昼の顔はそうだった。
放課後、玲司は返却期限の切れた本を二冊抱えて図書室へ来た。
表向きはそれだけだ。
カウンターの前で本を置く。
ミオは受け取りながら、小さな紙片を間に挟んだ。
返却印を押す音。
それに紛れて、ミオが小さく言う。
「奥です」
「分かった」
それだけで終わる。
学校では他人のふりだ。
図書室は話せる場所じゃなく、話さずに渡せる場所だった。
放課後の人が引いたあと、閉館十分前。
玲司は雑誌棚の陰へ回り、紙片を開いた。
書架番号のメモ。
古い保管コード。
床の沈み。
搬送口の位置。
そして最後に、細い字で一行。
――閉鎖区画、今日も使われていないふりをしています。
玲司は目を細めた。
閉鎖区画があるのは分かっていた。
だが“今も使われていないふりをしている”なら、話は変わる。
閉館後、準備室に集まった時、最初に口を開いたのはユラだった。
「図書室ってもっと、しっとりした危険が来ると思ってた」
「しっとりした危険って何だよ」
「音がしないまま人生終わりそうなやつ」
レナが椅子の背にもたれたまま笑う。
「分からんでもないな」
カナデはメモを見ている。
笑いには乗らない。
「床の沈み、書架番号の上貼り、旧式コードの再利用」
「見えないように残しているのではなく、“もう誰も見ないだろう”で雑に埋めた跡ね」
ミオが端末を抱えたまま言う。
「返却台帳にも少しだけ変な空きがあります」
「冊数は合ってるのに、棚番号だけ抜けてる日があって」
「たぶん、普通の蔵書じゃないものを動かした日です」
玲司はその画面を見た。
日付は飛び飛びだ。
でも、事故報告書の保管更新が行われる時期と近い。
「搬送口は」
「古い返却棚の裏です」
ミオは言う。
「今は塞がれてることになってます。でも、壁じゃなくて、内側から板を当ててるだけに見えます」
「見えます、で済ませていい話か?」
レナが聞く。
「昼に触る方が危ないです」
ミオは静かに答えた。
「司書担当の先生は気づいてないと思います。でも、気づいてない人の場所ほど、別の誰かが使いやすいので」
その言い方がミオらしかった。
怖い話ほど静かに言う。
カナデが視線を上げる。
「今夜入るの?」
「入る」
玲司は即答した。
「旧図書館地下に封印資料がある。今さら明日に延ばす理由がない」
「ただし、見つけることより、見つけたあとを優先する」
ユラが指を立てた。
「はい、いつもの。持ち帰る、残しすぎない、正体出さない」
「あと燃やされない」
レナが低く付け足す。
「それもだ」
カナデは短く息を吐いた。
「図書館は現場より厄介よ」
「紙が相手だから、一枚ずれた跡でも残る」
「だからミオが要る」
玲司が言うと、ミオは少しだけ目を伏せた。
「戻すのはできます」
「たぶん」
「たぶんって言ったな」
ユラが横から入る。
「図書室の神谷先輩にも、できないこととかあるんだ」
「あります」
ミオは真顔のまま答えた。
「古い紙は、触るだけで機嫌が悪いので」
レナが吹き出しかける。
ユラも口を押さえて笑った。
「そこ、笑うところじゃないです」
「いや、ごめん。でも今のはちょっと強かった」
空気が少しだけ軽くなる。
その軽さが必要だった。
玲司はメモの最後の一行を見た。
使われていないふりをしている。
それは人にも記録にも言える言葉だ。
「時間は閉館後一時間」
「正面は使わない」
「搬送口から入る。中で分かれるな」
カナデが言う。
「閲覧履歴は私とユラで散らす」
「ただし、完全には消さない方が自然よ」
「残すの?」
ユラが聞く。
「“普通の整理作業”に見える程度には残すの」
「何もない方が逆に不自然だわ」
ミオが小さくうなずいた。
「古い返却処理と、廃棄帳簿の確認に寄せれば、少しは誤魔化せます」
レナは腕を組み直す。
「あたしは」
「入口側」
玲司が言う。
「来るやつがいたら止めるんじゃなく、近づく前に知らせろ」
「止める方が早い時もある」
「その時だけだ」
「分かったよ」
短い返事。
でも従う時のレナは速い。
窓の外では、部活終わりの声が少しずつ減っていた。
学校はいつもの夜へ向かっていく。
その中に、まだ残っている記録がある。
玲司は立ち上がった。
「行くぞ」
図書室の閉鎖区画。
そこに眠っているのが過去の事故記録なら、敵はもう昔から敵だったことになる。
そして閉館後。
ミオが案内した古い返却棚の裏には、確かに使われていないふりをした板戸があった。
しかも、その南京錠には。
ついさっき触られたような、新しい擦れ跡が残っていた。




